新国民政府の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)
「汪兆銘政権」も参照 一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意するに至った。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国・日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものだった。汪兆銘は影佐に対し、新政府を設置しても自分は政権に執着しないと述べており、蔣介石に百歩譲っても基本的に中国を二つに割りたくないこと、戦火によって民衆の犠牲をできるだけ避けたいことを訴えている。 上海に移った汪は、ただちに日本を訪問し、新政府樹立への内諾を取り付けた。 5月31日、汪とかれの配下であった周仏海、梅思平、高宗武、董道寧らは神奈川県横須賀市の海軍飛行場に到着した。日本側は、板垣征四郎が汪兆銘政権が青天白日満地紅旗を用いることに難色を示し、これに対しては汪兆銘側にとっても譲れないところであったので、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを書き入れた黄色の三角旗(瓢帯)を加えて和平旗とすることで折り合いがついた。 また、日本側は北洋軍閥の呉佩孚を加えて汪・呉の合作による和平工作とすることも検討し、土肥原賢二中将もこれを呉に打診したが、呉からは合作の条件として日本軍撤退を持ち出され、この案は立ち消えとなった。 中国に戻った汪兆銘は1939年8月に「純正国民党(中国語版)」を称し、8月28日より、国民党の法統継承を主張すべく上海で「第六次国民党全国大会(中国語版)」を開催、自ら党中央執行委員会主席に就任した。このときの大会宣言で汪は、去る1938年12月の近衛声明(第二次声明)に呼応して対日「和平」を決意したと述べ、これが孫文の「大亜細亜主義」にもとづくものであるとして国民党政権としての正統性を主張したのであった。そして、日本占領地内の親日政権の長であった王克敏、梁鴻志と協議を行い、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)が三分の一、王克敏の臨時政府と梁鴻志の維新政府が両方で三分の一、その他三分の一」とすることで合意に達し、彼らと合同して新政府を樹立することとなった。 次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、汪工作への関わりが深い今井武夫が「権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった」 と回想し、影佐禎昭も「十月初興亜院会議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。…堀場中佐は自分に問ふて曰く『この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや』と自分は『不可能である』と答へざるを得なかつた」とふりかえるほどであった。 あまりの過酷な条件である「華日新関係調整要綱」に、汪自身もいったんは新政府樹立を断念したほどであった。汪兆銘は『中央公論』1939年秋季特大号(10月1日発行)に「日本に寄す」と題する思い切った論考を発表し、「東亜協同体」や「東亜新秩序」という日本の言論界でしきりに用いられる言葉に対する疑念と不信感を表明し、日本は中国を滅ぼす気ではないかと訴えた。さらに汪兆銘は、「華日新関係調整要綱」に示された和平案に対し白紙撤回を申し出てもいる。これに対して、支那問題の権威として盛んに「東亜新秩序」を美化し、東亜協同体論を提唱していた朝日新聞出身のソ連スパイ尾崎秀実は、『公論』昭和14年11月号に「汪精衛政権の基礎」を発表、日本の当局者に向かって「汪精衛運動が支那再建の唯一の方策であり日本としては全力を挙げてこれを守る以外に良策なきこと、あらゆる問題の中で何が一番大切かといえばともかくも多くの困難なる条件によって発展の可能性を縮小されている汪精衛政権の誕生と発展とをはからなければならない」ことを力説した。また、尾崎と同じく近衛文麿の最高政治幕僚にして汪政権樹立工作の主務者であった西園寺公一も、『中央公論』昭和14年十12月号に「汪兆銘への公開状」を発表し、汪兆銘に向ってあくまで愛国者として初志貫徹を貫くよう呼びかけた。 1940年1月には、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件が生じた。最終段階において腹心とみられた部下が裏切ったことに汪兆銘はおおいに衝撃を受けたが、日本側が最終的に若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった。その一方で、陳公博は正式に汪兆銘の側に身を寄せた。 2月2日、これがもとで後に除名処分を受ける立憲民政党の斎藤隆夫議員が、日本の帝国議会において、有名な「反軍演説」を行っている。斎藤はそのなかで、容共抗日の蔣介石と反共親日の汪兆銘が簡単に合流できるはずもないと分析し、日本政府が「対手とせず」といったはずの蔣介石を対手とする動きを強め、その一方で基盤の弱い汪兆銘の新政権を根回ししている矛盾を厳しく批判している。これに対し、この頃の汪兆銘は、日本が蔣介石と交渉するのならばそれでもよいという潔さを見せている。 1940年3月30日、南京国民政府の設立式が挙行された。 汪兆銘政権は、国民党の正統な後継者であることを主張するため、首都を重慶から南京に戻すことを示す「南京還都式」の形式をとった。国旗は、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを記した黄色の三角旗を加えたもの、国歌は中国国民党党歌をそのまま使用し、記念日も国恥記念日(中国語版)を除けば、国民党・国民政府のものをそのまま踏襲した。汪はまた、重慶政府との合流の可能性をも考慮して、当面のこととして新政府の「主席代理」に就任し、重慶政府の林森を名目上の主席とした。しかし、アメリカ合衆国のコーデル・ハル国務長官は、この政府を承認しなかった。蔣介石はこの日、南京国民政府77名への逮捕令を発している。 新政府では妻の陳璧君も重要な役割を果たし、陳璧君の義弟の褚民誼、臨時政府の王克敏、維新政府の梁鴻志、林柏生などの「公館派」と周仏海や特務機関の丁黙邨や李子群なども「実力派」として名を連ねた。また、女婿の何文傑は汪の私設秘書を務めた。なお、戦後日本の総理大臣を務めた福田赳夫は汪兆銘政権の財政顧問であり、のちに中華人民共和国主席となった江沢民の父(江世俊)は、汪の南京国民政府の官吏であった。 汪兆銘政権は、1940年11月30日、日華基本条約(日本国中華民国基本関係に冠する条約)と日満華共同宣言に調印した。日本が南京政府を正式に承認したのは、「還都式」より8か月を経過したこのときであった。 汪兆銘は、その日、礼服を着て阿部信行特派全権大使の一行が到着するまで悲痛な顔で待ちつづけ、孫文を祀った中山陵をしばらく眺めながら、やがて落涙し、突然、両手で髪をつかんで声を荒げて「恨(ヘン)! 恨(ヘン)!」と叫んだといわれる。同時に汪兆銘は、南京国民政府の「主席」に就任したが、これは日華基本条約調印の資格として主席の肩書が必要だったからであった。ただし、汪兆銘自身にとって、このことは必ずしも本意ではなかった。なお、それに先立つ11月27日、汪兆銘は蔣介石に対し、それまでの経緯と自身も還都に踏み切った決意を伝え、今後の協力を期待するという内容を打電している。 新政権は誕生したものの、結局は汪の意図したような「重慶政府との和平」は実現せず、蔣政権と日本の戦争状態はつづいた。日本とすれば、重慶政府と交戦しながら、南京の汪政権とは和平を結び、日中親善を唱えるという矛盾した状態にあった。蔣介石はこうしたなかで、むしろ中国政治における求心力を高めたので、抗日ナショナリズムはかえって強められたのである。一方、南京政府での汪兆銘の演説中の写真などには、必ずといってよいほど、背景には孫文の顔写真が掲げていることが確認できる。 1941年2月1日、汪兆銘は前年より中国各地で高揚していた東亜連盟運動を推進し、自ら東亜連盟中国総会を主宰して会長に就任し、直接運動を指導した。 還都1周年が過ぎた1941年5月、南京政府では汪兆銘の日本公式訪問が立案された。6月16日、上海から神戸港に上陸し東京駅に着いた汪一行を、日本国民は熱烈に歓迎した。汪兆銘は元首待遇として昭和天皇に拝謁し、天皇から日中間の「真の提携」を願うとの言葉をかけられている。汪兆銘は、近衛文麿首相、松岡洋右外相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、東条英機陸相らと面談し、6月19日にはレセプションが開かれ、6月23日には近衛首相とで共同宣言を発表した。この訪日を機に、日本から国民政府に対し3億円の武器借款が供与され、中部シナにおける押収家屋と軍管理工場の返還がなされた。 1941年7月1日、汪兆銘政権はドイツとイタリアから承認を受け、両国とのあいだに外交関係をひらいた。また、この年の秋、汪兆銘は満洲国を訪れ、皇帝溥儀や張景恵国務総理と会見した。一方、還都宣言のあと期待した4省が名乗りを挙げてこなかったことから、南京国民政府は自前の軍隊を持つべく動き、数十万の兵士が集まったといわれている。
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