仙台湾の港の歴史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 仙台湾の港の歴史の意味・解説 

仙台湾の港の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 05:37 UTC 版)

仙台湾」の記事における「仙台湾の港の歴史」の解説

仙台湾には、縄文時代早期後葉以降多く貝塚営まれた。貝塚からは大型マグロ椎骨等が出土し外海にいる魚類漁撈対象となっていること、また多数の離頭銛が出土することから「突きん棒漁」が行われていたことは確実であり、大型丸木舟、あるいは舷側側板かさ上げした「板綴り舟」の存在想定されている。石巻市南境貝塚東松島市里浜貝塚七ヶ浜町大木囲貝塚等の継続性の高い巨大貝塚からは、イタボガキ等の希少な南海貝類によって作られ腕輪類が少なからず出土しており、交易拠点となっていたことが知られるこうしたことから、仙台湾における縄文貝塚拠点集落には、大型の舟を係留する施設付属するものと考えられている。 古代には、陸奥国府・多賀城外港国府津;こうづ)として、塩竈津(塩釜港)が発展した塩竈津は、松島湾内の南部位置する現在の塩竈市にあり、歌枕となるのみならず陸奥国一宮である鹽竈神社などが置かれ、この地域重要なであった10世紀半ば頃、陸奥国府は現在の仙台市宮城野区岩切辺り移った見られ多賀国府(たがのこう)と呼ばれるうになる。この場所は奥大道七北田川交差する交通の要衝であり、五日市場や冠屋市場という定期市開かれていた。この頃七北田川現在の七ヶ浜町南端向かって流れていて、その河口港として湊浜があり、七北田川使った舟運が行われていた。しかし、湊浜外洋船を容れることができる港だったのか、詳しいことは判っていない。一方この頃塩竈津は留守氏文書見られることから、港としての機能維持されていたと見られている。 他方石巻平安時代から太平洋側海運北上川水運結節地として機能していたかもしれない奥州藤原氏栄えた平泉遺跡で、東海地方作られ渥美窯常滑焼大量につかっている。これらの輸送路について、陸路では困難であるから太平洋北上川使った舟運よるものだろうと推測されている。もっとも、当時北上川本流石巻注いでいたのかといった不確定要素もある。 江戸時代になって伊達政宗仙台居城を築くと、仙台湾内にある複数の港が仙台藩外港としての役割担った名取川河口閖上政宗仙台開府以前にも用いていた港で、仙台開府後は仙台城下町名取川支流広瀬川近く作られたことで、城下郊外直接繋がる港になった阿武隈川には河口北側崎湊、南側荒浜があった。両者共に米の積み出し港であり、崎湊には仙台藩の米が、荒浜には伊達郡信夫郡米沢藩の米が集められていた。北上川河口石巻は、仙台藩政策1622年元和8年)に米蔵設置され、これ以後、主に江戸へ向けて廻米集積地、積み出し港として発展したこの頃白石宗直川村重吉孫兵衛)によって北上川治水工事が行われ周辺開墾進んでいった時期でもあった。石巻には仙台藩だけでなく、盛岡藩米蔵建てられ鳴瀬川北上川流域各地から米が集まった江戸時代前期水運のための運河仙台湾沿いにいくつか作られた。最初に作られたのは名取川河口阿武隈川河口を結ぶ木曳堀である。正保年間1645年から1648年)に完成していたのは確実で、おそらく元和年間1615年から1624年)頃に作られたと推定されている。木曳堀の完成によって阿武隈川水系仙台城下が結ばれることになった。木曳堀の名はここを使って木材輸送したことに由来するもの推測されている。次に開削されたのが塩竈七北田川河口蒲生を結ぶ舟入堀である。舟入堀は寛文年間1661年から1673年)に竣工した考えられている。この頃までに七北田川は現在に相当する流路つけかえられ、河口湊浜から蒲生移っていた。水量問題から舟入堀は七北田川直結せず、ここで船荷積み替えられることになり、蒲生興隆した。船荷蒲生から七北田川鶴巻までさかのぼり舟曳堀に移され原町まで運ばれた。こうした運河整備の背景には、当時輸送物量著し増大があると考えられている。 一方運河整備によって船荷素通りすることになった塩竈は、それまで船荷輸送得ていた駄賃収入なくなり一時衰退した。しかし、仙台藩がこれを問題視し1685年貞享2年)、船荷のうち商人荷物五十集物材木塩竈への荷揚げ義務付け、さらに課役免除や、芝居や市の開催認めるなどの特権塩竈与えた。これによって塩竈は盛隆を取り戻すことになった1876年明治9年天皇巡幸の折、これに供奉していた当時内務卿大久保利通松島から石巻にかけて視察した大久保この頃東北地方振興考えていたと言われる野蒜近代港湾建設するのがよいというオランダ人技師コルネリス・ファン・ドールンによる調査報告を受け、明治政府野蒜築港建設決定した計画は、鳴瀬川河口内港設け宮戸島の潜ヶ浦(かつぎがうら)を外港とするものたった。まず内港部の建設進められ鳴瀬川河口東西2本の防波堤構築、新鳴瀬川開削、および新市街地の造成が行われた。同時に鳴瀬川から北上川河口石巻到る北上運河開削と、鳴瀬川から松島湾を結ぶ東名運河開削進められた。またこれとは別に宮城県が木曳堀や舟入堀を活用して松島湾阿武隈川河口の間の運河整備進めていった。これが完成すれば野蒜築港岩手県北上川水系宮城県仙台平野主要な水系、および福島県阿武隈川水系結ばれる筈だった。しかし、1882年明治15年)に内港落成し北上運河東名運河開削完成したものの、1884年明治17年台風による波浪により一夜にして河口突堤破壊され修復外港建設が行われることなく野蒜築港放棄されることになった。それでも宮城県による運河整備1889年明治22年)まで続けられ貞山運河として竣工したこの頃日本国内大型汽船による航路いくつか開設されていた。1881年明治14年横浜函館の間で定期船運航始めると、牡鹿半島西部にある荻浜はその寄港地となった荻浜1万トン級の船が入るのに充分な水深があり、なおかつ波風影響少な天然良港だった。石巻塩竈とも小型船連絡し荻浜中継地として繁盛した。しかし、鉄道普及するとこの航路不定期航路になり、大正時代には荻浜への寄航なくなった一方牡鹿半島南端にある鮎川1906年明治39年東洋漁業事業所を置き、捕鯨拠点とした。この時、鮎川漁師には解体され内臓投棄による海洋汚染を心配して東洋漁業進出反対する者もいたが、東洋漁業毎年300円の寄付をするという約束もあって、鮎川東洋漁業受け入れ、この寄付小学校財源となった。これ以後鮎川日本商業捕鯨停止する昭和末期まで捕鯨基地として栄えた。また鮎川江戸時代から霊場である金華山へ向かう旅人経由地でもあり、明治から昭和にかけて定期船発着地または寄航になっていた。現在でも鮎川と金華山の間に定期船運航されている。 野蒜築港建設頓挫した後、宮城県政府近代港湾整備をしばしば要望し立地調査繰り返し行われた浚渫技術の進歩があり、塩釜港整備可能と判断され1910年明治43年)に第二種港湾指定された。それまで200トン未満船舶しか入港していなかった塩釜港は、1925年大正14年)には1000トン船舶入港できるようになり、さらにその後浚渫によって5000トン級の船舶入港できるようになった1928年昭和3年)には、既に運行されていた気仙沼釜石方面航路加えて釧路函館との間に定期航路開設された。戦後になると、塩釜港それまで商港としての機能加えて工業港漁港機能整備されていった石巻港明治時代からの北上川河口堆積する土砂問題と、河口港であるがゆえの拡張性限界問題抱えていた。石巻市1940年代後半からこれ替わる新港湾の建設模索し、また宮城県石巻工業港設置する構想持っていた。立地の選定予算問題もあったが、北上川河口から西方の釜地区掘り込み式の工業港建設することが決まった1960年昭和35年)に建設工事始まり1964年昭和39年)に重要港湾指定され1967年昭和42年)に開港した港湾後背地には、石巻戦前からあった製紙業加えて、主に軽工業工場立地したその後副港として雲雀野地区日和港が計画設置された。 1960年昭和35年池田勇人内閣が「所得倍増計画」を打ち出したことを背景に、1964年昭和39年仙台湾地区新産業都市指定された。この中で仙台市東部海岸掘り込み人造港の仙台港建設打ち出され仙台港重化学工業集積する工業港となることが想定されていた。1967年昭和42年)に建設開始されたが、建設中1969年昭和44年)に仙台港へのフェリー埠頭設置中央港審議会決定され、また東京湾集中する物流緩和目的に、仙台等に総合的機能を持つ国際貿易港を作るという閣議決定なされるなど、当初工業港としての計画変更された。こうして工業港商業港機能合わせ持った港湾として、仙台港1971年昭和46年)に開港した。港の後背地には火力発電所石油精製所ガス工場などが立地し1973年昭和48年)に苫小牧港名古屋港と間にフェリー就航した2001年平成13年)には特定重要港湾指定された。

※この「仙台湾の港の歴史」の解説は、「仙台湾」の解説の一部です。
「仙台湾の港の歴史」を含む「仙台湾」の記事については、「仙台湾」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「仙台湾の港の歴史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「仙台湾の港の歴史」の関連用語

仙台湾の港の歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



仙台湾の港の歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの仙台湾 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS