仙台祭から七夕祭へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:20 UTC 版)
「大町 (仙台市)」の記事における「仙台祭から七夕祭へ」の解説
明治時代にも山鉾を繰り出す仙台祭は続いた。不定期な数年おきで、仙台東照宮の祭礼とは限らず「天長節奉祝」、「桜ケ岡神明宮祭礼」など様々な名目で挙行された。しかし、市内の道路に電線が張り巡られさて山鉾の通行が困難になり、1899年(明治32年)を最後に行なわれなくなった。 七夕は江戸時代に日本全国に普及した年中行事で、明治時代の仙台市内では肴町の商店や常盤丁の遊郭で凝った七夕飾りが作られていた。大町でも、裁縫の上達を祈るという元々の七夕の趣旨から、四丁目の仙台裁縫学校、一丁目の彤管学校がそれぞれ生徒が制作した飾りを出していた。 1926年(大正15年)に、大町五丁目を含めた仙台の主要商店街はそれぞれ七夕の飾りつけを行ない、連合大売り出しによって盛況を得た。1928年(昭和3年)、東北産業博覧会を機に、大町五丁目の佐々木重兵衛(佐々重7代目)と三原庄吉(三原屋本店)の提案で、仙台協賛会(仙台市観光協会の前身)と仙台商工会議所が七夕飾りつけの競技会を開催した。これに11の町会が参加し、8月6日から3日間の七夕を開催した。これが全国的な名声を得た仙台七夕の起源である。大町五丁目はこの年から3年連続で優勝した。
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