仙台神学校(東北学院)と東華学校(同志社)
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「ウィリアム・エドウィン・ホーイ」の記事における「仙台神学校(東北学院)と東華学校(同志社)」の解説
押川・ホーイ と 新島・デフォレスト 宮城英学校(東華学校)の設立は、1885(明治18) 年12月、アメリカ再訪の旅を終え帰国した新島襄が、(京都に戻る直前に)富田鐵之助(当時、日本銀行 副総裁)宅を訪れ相談したことが契機である。この時、新島は、「押川方義が数週間前に富田宅を訪れ、 仙台に女子学校の設置を計画していると話した(男 子学校の話はない)」ことを聞かされ驚愕する。1886(明治19)年に入ると、富田と新島は、仙台での男子中等教育学校(英学校)設立構想を着々と具体化するが、押川も、男子学校設立を考えるようになり、学校設立を一致(連合)して行いたいと新島 に申し入れるようになる(当時、押川等の一致教会と新島等の組合教会の合同問題も起きており、押川は、これに賛成の立場をとり、新島は反対の立場であった)。押しの強い押川に対して、新島は、逡巡の色を示すが、この新島を激励・リードしたのは、 8歳年長の富田であった。当時、日本銀行副総裁の富田鐵之助は、数回にわたり新島を同行して、宮城 英学校設置を「時の」文部大臣森有禮に陳情し、その支援を要請する。 森は、明治政府の最初の外交官でもあり、1870(明治3)年に少辦務使(アメリカ)に任ぜられるが、 1871(明治4)年、幕末に密航状態で渡米した新島を訪れ、新島のパスポート発給に尽力していた。また、富田は、森(少辦務使の後に代理公使)の下で ニューヨーク副領事を務め、森が駐英公使になると、 森に請われてイギリス公使館の一等書記官を務めていたのである。こうした濃密な人間関係の中、森も、上京した宮城県令・松平正直に対して学校設置の内話をし(学校の設置認可権は、県知事(県令)にあった)、幕末に仙台藩開国派として富田とも交流が深かった仙台区長・松倉恂からは、仙台に来着したばかりのホ ーイの動向も伝えられるなどしている。学校設置をめぐる環境は、現職の文部大臣や宮城県令・仙台区長の後ろ盾があり、明らかに富田・新島の側に圧倒的に有利であったのである。 1885年(明治18年10月17日)付新島襄、小崎弘道に書簡。「・・・・・殊ニ東奥ハ、随分昔時ヨリ学者の輩出セシ所、先見家之起リシ所、其地方ニ向ヒ我輩福音之網羅ヲ皇張セサルベカラズ・・・・又仙台之如キハ人間之多キ所此ヨリ二千三百里北辰直下ニ十字架ヲ立テン事ハ、小生平素之宿志ナリ、兄ニ於而如何ト為ス」 同11月2日新島襄から、小崎弘道、松山高吉への書簡。東北伝道と学校開設に対する非常に強い決意を伝える。「仙台地方着手ニツキ、東京宣教師、又教会中誤テ喋々スルモノアルモ決シテ顧慮スル勿レ、今日此好機ヲ失ハバ、他日該地方ニ伝道スルノ機会ヲ失フベシ、不動、不撓、定論ヲ執シ、容々易々ニ他人ノ動カス所トナリ賜フ勿レ、該地ヲ十字旗下ニ降スルハ今日ニアリ、進ンテ取ルベシ、主ノ賜フ所ヲ他人ノ喋々ニヨリ鳥有ニ属セシムルコト勿レ、別シテ仙台ノ如キハ一大都市ナリ、一ニノ会社ヨリ巳ニ着手スルモ我輩ノ侵入ヲ拒ムノ一理ナシ、働キテノ多ク行ク程該地方ノ幸福タルベシ、之ヲ拒ムルノ輩アラハ、此レ主ノ為ニ働ク者ニアラス、乃チ宗派ノ為ニ働クナリ、願フハ他人ノ喋々ニ耳ヲ傾クル勿レ、此ノ好機ヲ失イ賜フ勿レ、」 富田鉄之助「鉄雲日記」「新島襄外国ヨリ帰リ来リ、明日西京ニ帰ル由ニテ来訪ス、仙台ニ学校ヲ建ンコトヲ企テ、相談セラル」新島襄「出遊記」「十二月十三、十四日の頃東京にあり、富田氏の家を訪う。幸に同氏に面会し予の東北策を陳じ、学校を仙台に開くべきか、将た福島に設くべきかを問うに、氏は仙台は奥羽の中央たれば、宜しく仙台に設くべきことを勧め呉れたり。」この日の会談で富田は新島が仙台に男子学校を設立するならば、新島を信じ応分の協力をすることを約束した。(この時、押川方義も仙台に学校設立の計画をしていることを知る。)この富田日記にみられるように、新島の発起で富田が相談を受け、それから設立に向けて動き出した ことがわかる。 この会談を起点として、富田の仙台における学校創立の熱意は昂揚し、富田を代表とする旧仙台藩士が組織する「仙台造士議会」を中心に、地元の人々も大賛成し、その実現に向かって動き出した。 同2月11日大阪で、アメリカンボードの会議が開催され、協議の結果、次の事が決められた。①ミッション本部に3人の宣教師の派遣を要請する。②東京の合衆国・ドイツ改革派教会宣教師と「断判」する。交渉要員はダニエル・クロスビー・グリーンとジョン・デフォレストとする。③当方は男子校、先方が女学校の案もしくは両方が合同で男子校を開校する案を出す。 同2月12日グリーン、デフォレストの2名が、一致教会(日本基督一致教会)宣教師(ウィリアム・エドウィン・ホーイ)と懸け合いに行くので、「此度ノ好機会ハ再難度、今、之ヲ失ハ向来之東北伝導上ハ非常ノ損亡ヲ来スベキ、云々ヲ陳べ」と断固として推進することを、両宣教師に勧めて欲しいと依頼した。 新島の押川に関する最初の印象は、「畏ろしい人」であったが、ギュリックの印象は、「好人物のうえに英語力、雄弁術(現存の日本人中、おそらく最高) に優れ、指導力も伊勢時雄に匹敵する」であった。他方、押川の新島観は、「傑出した人物」ではあるが、「神経質の人、熱心なる人、信ずる所を行く人、事業のためには何事も犠牲にする人、米国を非常に愛せる人」であった(東北学院百年史)・本井(1995)。 同2月17日富田から新島宛の書簡。松平正直宮城県令が上京、森文部大臣と学校創設の話をしたことと、押川方義にも仙台に英学校開設計画があることを知らされた。その上で、「同規模同類ノモノ二校相立」は得策ではないので、押川方義と調整されたいという要請であった。 同2月28日富田が、森文部大臣、松平宮城県令、鈴木大亮を招待して、仙台の学校設立を協議、熱心に働きかけた。 同3月5日新島から富田宛書簡。仙台でホーイが有志を募り土地を買い入れて校舎を建築中という情報について、富田に問い合わせる。 同3月7日富田より新島への返信。ホーイとは如何なる人物かを糾し、あくまでも申し合わせの通り、初志貫徹をはかりたいと伝えてきた。 同3月20日新島、押川会談(第1回)於神戸押川は、「仙台ニ諸方ヨリ着手スルヨリモ、一方ニ着手スルナラバ、他ノ人ハ他所ニ着手スルガ伝道上、経済上得策デアル」そして、仙台に帰ったら学校設立の模様を逐一報告すると述べた。新島は、報告を待つと答えて会談は終わった。 同3月22日新島から富田への書簡。押川との会談の結果と、アメリカンボードから「新島仙台ニ赴クベシ」の電信を受け取ったことを知らせた。 同3月23日富田より新島への書簡。仙台の松倉恂、岩淵廉にホーイの動きを調査させ、その結果を知らせてきた。 同3月26日富田から新島への書簡。新島の書面での押川等の動向と、仙台からの報告は全く符写しない。押川の心情甚だ不審であるから、あれこれ考えず、一刻も早く仙台で学校設立の趣意書を新島と東京の仙台人、仙台の有志などの連名で公表し、有志家を募ることこそ緊要だと述べた。 同3月29日新島から富田への書簡。 押川の方で英学校建設に取り組むのであれば、「重複ナルモ、無益ナレバ予ハ手ヲ引クベキヤ否ヤ」の照会をしたのである。押川との会談後、新島は押川の強引さに押されてか、すっかり弱気になり、仙台での英学校設立について逡巡するのである。 同4月3日富田から新島への書簡。「・・・・・・・押川氏企度之義ニ付テ尊兄至極御懸念ノ様拝察致候処、小生ニハ左ノミ心配ハ不仕候.其仔細ハ押川氏仙台ノ人望ト動作ハ過日両度申上候如ク、決シテ恐ルル様ニハ無之候、且亦御互ニテ企候義ハ未タ発表コソ不致候得共已ニ三、四名ノ名望家ニ相ハカリ何レモ大賛成、加ルニ県令ヘモ篤ト内談相遂ケ着手ノ節ハ尽力致候事ニ内約相調居候得ハ、小生ノ方指置、他人ニ尽力致候事難有成今日之場合ニ御座候、押川氏自力ヲ以テ創設致し候事ナレハイザシラズ他力ヲ借リ得ル事ハ十分出来得ベキ場合ニ無之故先ツ恐ルゝニ足ザル事ト自信致居候・・・・・・・中略 就キテハ矢張先達内談致候主趣ヲ以、創設ノ要領ヲ発表、着手順序ヲ計画致度所存ニ御座候、 ・・・・・・(中略)着手ハ速ナル方、機会ハ不可失候得ハ御繰合次第速ニ御出京願上候右要用ノミ如比ニ候、」 この書簡の中略の部分で、富田は重要な下記の提案をしている。 「然レトモ段立御申越之次第モ有之候間、御手許方ト、仙台ノ方ト両端宜敷ニ斟酌シ、先ツ着手之場合丈ハ、小生初メ名望家ヲ以テ発起人ト相定メ発表シ有志家ヲ集メ金力家ヲ誘ヒ、尊兄ト米人トヲ相聘シ候事ニ候バ御斟酌之筋道ニモ相叶候判ト愚按致候、尊兄如何カ、若右愚按之通リニ可然ト御見込ニ候バ尚篤ト御相談相遂度候条、一寸御出京相願度候、御相談ノ様ニヨリテハ仙台迄御下リ不被下ハ難相叶場合モ可有之候、宜敷御含ヲ以御出京相願候」 同5月17日新島、押川会談(第2回)「松山ノ宅ニテ押川氏ト面会シ、仙台ノ事ヲ計ル事定マラズ」。押川は、「教会ノ一致(合同)セサル内デモ、学校ノ一致(連合)ヲ望ム」とまで発言したが、「事定マラズ」であった。 同5月18日新島、押川会談(第3回)小崎宅押川は「一致シテ共ニヤリタシ」と云うが、「何ノ決リタル事」もなく別れる。 同5月19日新島、押川会談(第4回)於南小田原の某宅この時、仙台の情報が富田を通して新島に知らされており、押川は、県令からすでに富田の学校計画があるので、これに賛成するから、押川の計画を助ける訳には参らぬと断られ、仙台に同種の学校をつくるのは無益であると言われていた。押川は松倉にも働きかけたが、富田氏の報を待つといわれ、松倉は押川の求めに応じていない。 押川は仙台においては四面楚歌の状態で、とにかく一致してやりたいと主張した。この席で、新島は先の富田の提案通りの「予ハ発起人ノ地位ニ立タス、又主人ノ場合ニ立入ラス成ル可ク丈ケ仙台人ニ譲リ予ハ招待ヲ受ケタル客人トナルノ意ヲ押川兄ニ陳シタリ」の発言をした。同6月1日松平県令が清奇園を訪ね、学校創立の件につき協議、ほぼ決着をみる。黒川剛、芳賀真咲、十文字信介同席。面談中、押川が来訪されたが、「・・・・・止ム事ヲ得ス同兄ニ面談スルヲ辞ス」。 同6月2日松平県令主催の晩餐会が把翠館で行われ、新島、デフォレストとともに出席。有志家より5000円の寄附があったことを披露。さらに学校の宗教的基盤を、同志社と同一にすることの保証も確約した。「・・・・・・仙台ニテ如斯事速ニ運フ事トハ思ハサリナリ」という程の進展ぶりであった。 同6月3日デフォレストは、ホーイと押川に会い、男子校設立計画から全面的に撤退し断念する'との回答を得た。1886(明治19)年6月3日、来仙中の新島は、父危篤の報を受け仙台を発つ。その日の夕刻には、ホーイと押川を招いての夕食会が開かれた。この席上、押川は、 the governor(松平)、富田、松倉のところに進み 出ると、皆が「一致」を説く。しかしながら、押川 は、一致は困難であり「弊害」も出かねないことから、自分の望を断念し、全面的に撤退すると述べた後、宮城英学校の「成功」を祈るのであった。(The Evolution of a Missionary, p.151)。
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