仙台神学校と東華学校とは? わかりやすく解説

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仙台神学校(東北学院)と東華学校(同志社)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 06:57 UTC 版)

ウィリアム・エドウィン・ホーイ」の記事における「仙台神学校(東北学院)と東華学校(同志社)」の解説

押川ホーイ新島デフォレスト 宮城英学校(東華学校)の設立は、1885(明治18) 年12月アメリカ再訪の旅を終え帰国した新島襄が、(京都に戻る直前に)富田鐵之助(当時日本銀行 副総裁)宅を訪れ相談したことが契機である。この時、新島は、「押川方義が数週間前に富田宅を訪れ仙台女子学校設置計画していると話した(男 子学校の話はない)」ことを聞かされ驚愕する。1886(明治19)年に入ると、富田新島は、仙台での男子中等教育学校(英学校)設立構想着々と具体化するが、押川も、男子学校設立考えるようになり、学校設立一致(連合)して行いたい新島申し入れるうになる(当時押川等の一致教会新島等の組合教会合同問題起きており、押川は、これに賛成立場をとり、新島反対の立場であった)。押しの強い押川に対して新島は、逡巡の色を示すが、この新島激励リードしたのは、 8歳年長富田であった当時日本銀行副総裁富田鐵之助は、数回にわたり新島同行して宮城 英学校設置を「時の文部大臣森有禮陳情し、その支援要請するは、明治政府最初外交官でもあり、1870(明治3)年に少辦務使(アメリカ)に任ぜられるが、 1871(明治4)年、幕末密航状態で渡米した新島訪れ新島パスポート発給尽力していた。また、富田は、(少辦務使の後に代理公使)の下で ニューヨーク副領事務め駐英公使になると、 請われイギリス公使館の一等書記官務めていたのであるこうした濃密な人間関係の中、も、上京した宮城県令・松平正直に対して学校設置内話をし(学校設置認可は、県知事(県令)にあった)、幕末仙台藩開国派として富田とも交流深かった仙台区長・松倉恂からは、仙台来着たばかりホ ーイ動向伝えられるなどしている。学校設置をめぐる環境は、現職文部大臣宮城県令・仙台区長の後ろ盾があり、明らかに富田新島の側に圧倒的に有利であったのである1885年(明治18年10月17日)付新島襄小崎弘道書簡。「・・・・・殊ニ東奥ハ、随分昔時ヨリ学者輩出セシ所、先見家之起リシ所、其地方ニ向ヒ我輩福音網羅ヲ皇張セサルベカラズ・・・・又仙台之如キハ人間之多キ所此ヨリ二千三百北辰直下十字架ヲ立テン事ハ、小生平素宿志ナリ、兄ニ於而如何ト為ス」 同11月2日新島襄から、小崎弘道松山高吉への書簡東北伝道学校開設対する非常に強い決意伝える。「仙台地方着手ニツキ東京宣教師、又教会中誤テ喋々スルモノアルモ決シテ顧慮スル勿レ、今日好機ヲ失ハバ他日地方伝道スルノ機会ヲ失フベシ、不動不撓定論ヲ執シ、容々易々他人ノ動カストナリ賜フ勿レ、該地ヲ十字旗下ニ降スルハ今日ニアリ、進ンテ取ルベシ、主ノ賜フ所ヲ他人喋々ニヨリ有ニ属セシムルコト勿レ、別シテ仙台ノ如キハ一大都市ナリ、一ニノ会社ヨリ巳ニ着手スルモ我輩侵入ヲ拒ムノ一理ナシ、働キテノ多ク行ク程該地方ノ幸福タルベシ、之ヲ拒ムルノ輩アラハ、此レ主ノ為ニ働ク者ニアラス、乃チ宗派ノ為ニ働クナリ、願フハ他人喋々ニ耳ヲ傾クル勿レ、此ノ好機ヲ失イ賜フ勿レ、」 富田鉄之助鉄雲日記」「新島襄外国ヨリ帰リ来リ、明日西京ニ帰ル由ニテ来訪ス、仙台学校ヲ建ンコトヲ企テ、相談セラル」新島襄出遊記」「十二月十三十四日の頃東京にあり、富田氏の家を訪う。幸に同氏面会し予の東北策を陳じ、学校仙台に開くべきか、将た福島設くべきかを問うに、氏は仙台奥羽中央たれば、宜し仙台設くべきことを勧め呉れたり。」この日の会談富田新島仙台男子学校設立するならば、新島信じ応分協力をすることを約束した。(この時、押川方義仙台学校設立計画をしていることを知る。)この富田日記みられるように、新島発起富田相談を受け、それから設立向けて動き出した ことがわかる。 この会談起点として、富田仙台における学校創立熱意昂揚し、富田を代表とする旧仙台藩士が組織する仙台造士議会」を中心に地元人々大賛成し、その実現に向かって動き出した。 同2月11日大阪で、アメリカンボード会議開催され協議結果次の事が決められた。①ミッション本部に3人の宣教師派遣要請する。②東京合衆国・ドイツ改革派教会宣教師と「断判」する。交渉要員ダニエル・クロスビー・グリーンジョン・デフォレストとする。③当方男子校先方女学校の案もしくは両方合同男子校開校する案を出す。 同2月12日グリーンデフォレストの2名が、一致教会(日本基督一致教会)宣教師(ウィリアム・エドウィン・ホーイ)と懸け合いに行くので、「此度好機会ハ再難度、今、之ヲ失ハ向来東北伝導上ハ非常ノ損亡ヲ来スベキ、云々ヲ陳べ」と断固として推進することを、両宣教師勧めて欲しいと依頼した新島押川に関する最初印象は、「畏ろしい人」であったが、ギュリックの印象は、「好人物のうえに英語力雄弁術(現存日本人中、おそらく最高) に優れ指導力伊勢時雄匹敵するであった他方押川新島観は、「傑出した人物」ではあるが、「神経質の人、熱心なる人、信ず所を行く人事業のためには何事も犠牲にする人、米国を非常に愛せる人」であった(東北学院百年史)・本井(1995)。 同2月17日富田から新島宛の書簡松平正直宮城県令が上京文部大臣学校創設の話をしたことと、押川方義にも仙台英学校開設計画があることを知らされた。その上で、「同規模同類ノモノ二校相立」は得策ではないので、押川方義調整されたいという要請であった。 同2月28日富田が、文部大臣松平宮城県令、鈴木大亮招待して仙台学校設立協議熱心に働きかけた。 同3月5日新島から富田宛書簡。仙台ホーイ有志募り土地買い入れ校舎建築中という情報について富田問い合わせる。 同3月7日富田より新島への返信ホーイとは如何なる人物かを糾し、あくまでも申し合わせ通り初志貫徹をはかりたい伝えてきた。 同3月20日新島押川会談第1回)於神戸押川は、「仙台諸方ヨリ着手スルヨリモ、一方着手スルナラバ、他ノ人ハ他所着手スルガ伝道上、経済得策デアル」そして、仙台帰った学校設立模様逐一報告する述べた新島は、報告を待つと答えて会談終わった。 同3月22日新島から富田への書簡押川との会談結果と、アメリカンボードから「新島仙台ニ赴クベシ」の電信受け取ったことを知らせた。 同3月23日富田より新島への書簡仙台松倉恂岩淵廉にホーイ動き調査させ、その結果知らせてきた。 同3月26日富田から新島への書簡新島書面での押川等の動向と、仙台からの報告は全く符写しない。押川心情甚だ不審であるからあれこれ考えず一刻も早く仙台学校設立趣意書新島東京仙台人、仙台有志などの連名公表し有志家を募ることこそ緊要だと述べた。 同3月29日新島から富田への書簡押川の方で英学校建設取り組むであれば、「重複ナルモ、無益ナレバ予ハ手ヲ引クベキヤ否ヤ」の照会をしたのである押川との会談後、新島押川の強引さに押されてか、すっかり弱気になり、仙台での英学校設立について逡巡するのである。 同4月3日富田から新島への書簡。「・・・・・・・押川氏企度之義ニ付テ尊兄至極懸念ノ様拝察致候処、小生ニハノミ心配ハ不仕候.其仔細押川仙台人望動作過日両度申上候如ク、決シテルルニハ無之候、且亦御互ニテ企候義ハ未タ発表コソ不致候得共已ニ三、四名ノ名望家ニ相ハカリレモ大賛成、加ルニ県令ヘモ篤ト内談相遂ケ着手ノ節ハ尽力致候事ニ内約相調居候得ハ、小生ノ方指置他人尽力致候事難有今日場合御座候押川自力ヲ以テ創設致し候事ナレハイザシラズ他力ヲ借リ得ル事ハ十分出来ベキ場合ニ無之故先ツ恐ルゝニ足ザル事ト自信居候・・・・・・・中略 就キテハ矢張先内談致候主趣ヲ以、創設要領発表着手順序計画致度所存御座候、 ・・・・・・(中略着手ハ速ナル方、機会不可失候得ハ御繰合次第速ニ御出京願上候右要用ノミ如比ニ候、」 この書簡中略部分で、富田重要な下記提案をしている。 「然レトモ段立御申越之次第モ有之候間、御手許方ト、仙台ノ方ト両端宜敷斟酌シ、先ツ着手場合丈ハ、小生初メ名望家ヲ以テ発起人ト相定メ発表有志家ヲ集メ金力家ヲ誘ヒ、尊兄米人トヲ相聘シ候事ニ候バ御斟酌筋道ニモ相叶候判ト愚按致候、尊兄如何カ、若右愚按之通リニ可然ト御見込ニ候バ尚篤ト御相談相遂度候条、一寸御出京相願度候、御相談ノ様ニヨリテハ仙台御下リ不被下ハ難相叶場合モ可有之候、宜敷御含ヲ以御出京相願候」 同5月17日新島押川会談第2回)「松山ノ宅ニテ押川氏ト面会シ、仙台ノ事ヲ計ル事定マラズ」。押川は、「教会一致合同セサルデモ学校一致連合)ヲ望ム」とまで発言したが、「事定マラズ」であった。 同5月18日新島押川会談第3回小崎押川は「一致シテ共ニヤリタシ」と云うが、「何ノ決リタル事」もなく別れる。 同5月19日新島押川会談第4回)於南小田原の某宅この時、仙台情報富田通して新島知らされており、押川は、県令からすで富田学校計画があるので、これに賛成するから、押川計画助ける訳には参らぬと断られ仙台同種の学校をつくるのは無益であると言われていた。押川松倉にも働きかけたが、富田氏の報を待つといわれ、松倉押川求めに応じていない。 押川仙台においては四面楚歌の状態で、とにかく一致してやりたい主張した。この席で、新島先の富田提案通りの「予ハ発起人地位ニ立タス、又主人場合立入ラス成ル可ク丈ケ仙台人ニ譲リ予ハ招待ヲ受ケタル客人トナルノ意ヲ押川兄ニ陳シタリ」の発言をした。同6月1日松平県令が清奇園を訪ね学校創立の件につき協議、ほぼ決着をみる。黒川剛、芳賀真咲十文字信介同席面談中、押川来訪されたが、「・・・・・止ム事ヲ得ス同兄ニ面談スルヲ辞ス」。 同6月2日松平県令主催晩餐会が把翠館行われ新島デフォレストとともに出席有志家より5000円寄附があったことを披露。さらに学校宗教的基盤を、同志社同一にすることの保証確約した。「・・・・・・仙台ニテ如斯事速ニ運フ事トハ思ハサリナリ」という程の進展ぶりであった。 同6月3日デフォレストは、ホーイ押川会い男子校設立計画から全面的に撤退し断念する'との回答得た。1886(明治19)年6月3日、来仙中の新島は、父危篤の報を受け仙台を発つ。その日夕刻には、ホーイ押川招いて夕食会開かれた。この席上押川は、 the governor(松平)、富田松倉ところに進み 出ると、皆が「一致」を説くしかしながら押川 は、一致は困難であり「弊害」も出かねないことから、自分の望を断念し全面的に撤退する述べた後、宮城英学校の「成功」を祈るのであった。(The Evolution of a Missionary, p.151)。

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