仙台移住から再上京――カフェ・聚楽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:36 UTC 版)
「伊藤初代」の記事における「仙台移住から再上京――カフェ・聚楽」の解説
浅草のカフェ・アメリカは関東大震災で倒壊した。中林忠蔵と初代は東京では仕事が見つからないため、1924年(大正13年)に宮城県仙台市に移住し、中林は仙台駅前のカルトンビルの中にある高級レストラン「カルトン」の支配人となった。カルトンビルは仙台で唯一の5階建てビルであった。一家は、御霊屋下(現・青葉区霊屋下)の家を借りて住んだ。翌1925年(大正14年)3月に、初代の妹・マキが岩谷堂小学校を卒業すると初代に引き取られて、赤ん坊の珠代の子守や家事を手伝った。 その頃、伊豆の湯ヶ島に滞在することが頻繁になっていた川端は、1926年(大正15年)3月31日、湯本館からの帰りの大磯駅で、初代に似た夫人が青年紳士と車室に入ってくるのを見かけた。その女性は川端に気づいた風であった。そして藤沢駅から奇遇にも片岡鉄兵と池谷信三郎が乗って来て、座る席のない2人に合わせた川端が彼らと立ち話をしながら、初代らしき女性を盗み見ると、〈目を閉ぢ顔を紅らめ〉、〈苦痛〉を現した。 しかし、裕福な人妻になっているらしき姿から、〈彼女よき人のもとによき日々を送り居ること明らかとなれり。何となく喜ばし〉と川端は日記に綴った。この出来事は、『伊豆の帰り』(1926年)として作品化されたが、この夫人が初代であったかどうかは、後年に川端自身が〈疑はしい〉とも考え、初代の妹・マキも、絶対とは言い切れないが、初代夫妻が子供も連れずに2人旅をしたということはなかったと思うとしている。 中林忠蔵は1926年(大正15年)4月頃から結核性の病に倒れ、生活に困窮した初代は職を求めて、馴染みのある東京へ行くことを決意し、同年の末頃に一家4人で上京した。一家は東京府北豊島郡三河島町(現・荒川区町屋)の火葬場・博善社(町屋斎場)近くの長屋(六畳三畳)に住み、妹・マキが中林の看病と珠江の子守し、初代はカフェ・聚楽で働いた。カフェ・聚楽は、震災後の復興の東京に次々と増えたカフェの一つで、一時期は震災前からあった老舗カフェ・オリエント(カフェ・アメリカの後身)にも対抗する勢いであったが、次第に他の新興カフェ同様に客が減って寂れていった。 カフェ・聚楽の初代には、パトロンの客・徳川喜好(華族の息子で、徳川慶喜の孫)がいて、三越で着物をあつらえてもらい、子供にもハイカラな洋服を作ってもらっていた。カフェ・聚楽の社長は、徳川の財で傾きかけた事業を再建しようと、徳川喜好を抱きこむのに初代の力を期待し、初代もそれに応じて店のために一役買うといった男気めいたものがあった。病身の夫・忠蔵が自殺未遂をしたこともあった。1928年(昭和3年)の春頃、岩手県から初代の父・忠吉が上京し、赤ん坊や若い娘を病人のそばに置くのは心配だとして、珠江を仙台市の中林忠吉(忠蔵の叔父)に預けて、マキを江刺郡岩谷堂に連れて行った。その後、6月28日に中林忠蔵は死去した。 初代は夫・忠蔵の遺骨を持って、夫の郷里の青森県黒石町(現・黒石市)に行き、中林家の菩提寺妙経寺の墓地に納骨法要した。納骨後、岩手に寄り、珠代を連れて上京した初代は、カフェ・聚楽の近くの浅草新谷町(現・台東区千束)の石山家具店の二階に間借りした。初代は、ますます酒を飲むようになり、カフェ・聚楽の女部屋で泥酔する初代を、幼い珠江が迎えに来た。やがて初代はカフェ・聚楽からカフェ・オリエントに移っていった。 カフェ・聚楽に初代がいた間、ちょうど同時期に佐多稲子もそこで女給をしており、当時働いていた10人ほどの女給たちを描いた小説『レストラン・洛陽』を、「窪川稲子」の筆名で1929年(昭和4年)9月に発表するが、その作中で最も多く描かれている「夏江」は、初代をモデルとしている。佐多稲子によると、当時の初代は「痩せぎすのすらりとした」姿に、「ごむ」のような柔らかく弾む足どりで、「グラヂオラス」のような明るい派手やかさがあり、底意のない無邪気な「うん」「あいよ」という返事で、「アハアハと目を細くして、大きく口を開いて」笑い、時に、男にバカにされれば、涙声で本気で食ってかかるような、感情表現が素直で快活な女性だったという。 この『レストラン・洛陽』を奇しくも、当時の文芸時評で取り合上げた川端は、初代をモデルにしている小説とは気づかずに、この作品を激賞した。川端は、当時の文壇作品に、けばけばしく現れ出した〈カフェやバアの女給達の姿は、咲きくづれた大輪の花のやう〉で、〈余りに外面的〉、〈猟奇的な対象〉となっているが、『レストラン・洛陽』では、〈レストラン女給生活の真実〉、〈内から見た真実〉が描かれているとして、以下のように評した。 一群の彼女等がこの作品の中の彼女等のやうに、ほんたうの姿を見せたことはないであらう。真実はいつも質素である。――そのやうな言葉をこれは思ひ出させる。透徹した客観と、女性的なものとが、このやうに物柔かに融け合つて、作品を構成したことは、全く珍らしい。ここに描かれた彼女等の生活の流れは、余りにわびしい。しかしそのわびしさを、ぢつと支へた作者の筆致から、われわれは作者の作家的な大胆な落ちつきと、心のこまやかさを、同時に感じる。 — 川端康成「文芸時評 窪川氏の『レストラン・洛陽』」(昭和4年10月)
※この「仙台移住から再上京――カフェ・聚楽」の解説は、「伊藤初代」の解説の一部です。
「仙台移住から再上京――カフェ・聚楽」を含む「伊藤初代」の記事については、「伊藤初代」の概要を参照ください。
- 仙台移住から再上京――カフェ・聚楽のページへのリンク