世界の兵糧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 17:20 UTC 版)
日本において、凱旋と出陣時に、勝ち栗、打ちアワビ、昆布を(敵に打ち勝ち、よろこぶ)にかけて儀式と共に食べられた。 城の敷地内に、食料や燃料となる食物を育てたり備える例が見られる。熊本城では、庭に銀杏、畳に芋茎、壁に干瓢、堀に蓮根が備えられていた。柿は干し柿にして保存された。栗は勝ち栗ともなり、保存も出来たことから保管された。松は燃料となり、非常食の松皮餅ともなった。梅は食料保存や傷の消毒ともなり奨励された。徳川家康は駿府城に食料となるようにミカンを植えた。米は乾燥させ干飯とした。そして数多くの味噌と、それらを使った兵糧丸が考案された。 ヨーロッパ 古代ローマ時代では、bucellatumという乾パン、ベーコン、チーズ、酢など。飲み物には、酢と水を混ぜたポスカ、ワインを飲んでいた。 スパルタ人は、ゆでた豚の足、血、塩、酢で作ったメラス・ゾーモスというスープを主食として食していた。これを食べた裕福な都市の人間は「スパルタ人が死を恐れない理由がわかった。これを食べずに済むようになるからだ。」と述べている。 第3回十字軍に出撃したイングランド王リチャード1世(獅子心王)は、オオムギ・ライムギ・豆を粉にしたもの混ぜて焼いた biskit of muslin を兵糧とした。 1431年にレーゲンスブルクから出陣した248人分の食料:荷物を運ぶ牛(運んだあとに食料となる)、クラッカーや乾パン、塩漬け食料、ピクルス、ラード、乾燥マメ、チーズ、ビール・ワイン。キリスト教の戒律で肉を食べない日もあったので、乾燥または塩漬けされた魚(特にタラの塩漬けであるバカラオは大航海時代も支える優秀な食料であった。)他、酢、オリーブオイル、コショウ、サフラン、生姜。 十字軍の時代になると、ナツメヤシやレーズンなどのドライフルーツがヨーロッパにもたらされた。 アレキサンダーの遠征 父王ピリッポス2世は、アテナイの軍人クセノポンからヒントを得て歴史的に初の戦場への馬車と牛車と家族の帯同を禁止し、歩兵と騎馬に荷(長槍、食料、道具、調理器具、毛布、建築資材、医薬品など40kg以上)を負わせることで、余計な足枷と負担を無くし迅速で機動的な戦力の展開を行えるようにした。アレキサンダー大王も地形の問題や負傷兵が多い場合を除き、父王の戦略を踏襲している。 食料は、小麦、大麦、キビなどの乾燥穀物をパンや粥として食べた。そのほかには、干肉、ナツメヤシやイチジクなどのドライフルーツ、現地調達の肉や貝、果物などである。進軍では、食料の多い地域を優先していたが、砂漠の多いペルシャでの唯一の足枷は水であり、水源から水源へ兵を動かすしかなかった。 大航海時代 「近世イギリス海軍の食生活」および「ウィリアム・ダンピア」も参照 火を使えるのは、波がない日に限られ、それ以外の日は火事が起きる可能性があったため禁止された。 食料にウジといった害虫などが出るが、取り切れなかったものはタンパク質として食べられた。カビ・ネズミなどによって食べられなくなることもあったが、食料が尽きてくるとネズミも食べる対象となった。ネズミの糞や食害などの問題があったため、対策スタッフが乗り込む場合もあった。 遭難した場合は、皮製品を煮込んで食料にしたケースもあった。 水は腐ってしまうため、ラム酒などのアルコールの形で保存された。配給のグロッグを飲みすぎて酩酊状態になった状態は「グロッギー」と呼ばれた。 大型の船では、ヤギなどの家畜を生かしたまま載せて様々な用途に使用した。 ゾウガメは、ひっくり返せば逃げず、世話の必要もなく1年近く生きたため、保存食として重宝した(そのため、乱獲され絶滅した種も多い)。 初期は、塩漬けした牛肉・豚肉、魚、何度も焼き水分を無くした様々な種類の堅パン、保存に向いたハードチーズ、水の代わりとしてエールビール、グロッグなどのアルコール類 1794年ごろ、曜日ごとに決まっており、豆やジャガイモ、カブ、砂糖などを食用とした。壊血病対策には、干しブドウ、ライムのジュースも用いられた。 ナポレオン軍 ナポレオンの時代、「24オンスのパン、0.5ポンドの肉、1オンスの米、または2オンスの乾燥豆またはエンドウ豆またはレンズ豆、1クォートのワイン、ブランデー1ギル(約4分の1パイント)、0.5ギルのビネガー」が配給された。またフランスパンが細長いのは、ナポレオンが兵士のズボンのポケットに入れられるよう作れと命令したためだと言われている。そして、兵糧のためにナポレオンが懸賞をかけて瓶詰が発明された。 たまねぎも食べられており、ナポレオンが擲弾兵に何をパンに擦り付けているか聞いたことから生まれたという行進曲『たまねぎの歌(邦題:クラリネットをこわしちゃった)』がある。 ジャガイモが伝来したことや農業技術の向上により食料に余剰があったため現地で食料調達が可能であったこと、米を導入しパンより軽量で栄養価の高い食料を携行させられたことが行軍速度の上昇となったという説もある。 中国 中国では、兵糧を干粮という。 漢王朝以前や中国北部では、米や小麦に比べて保存が効きやすい黍(キビ)が重宝され、塩・野菜の漬物・発酵漬けされた魚(英語版)・豆から作った調味料などが加えられた粥(小米粥)として供された。漢王朝以後は、種無しパンが食べられるようになり、そのままだと硬いため、茶やスープと共に食べられるようになった。 明代になると、倭寇が煮炊きの様子から明軍の動きを察知していることに気が付いた戚継光によって、事前に作って置ける真ん中に穴を開けて紐を通して持ち運びが可能な日持ちする乾パン(戚継光の名前から光餅)が開発された。これら乾パンは軍用のみ作られた。 唐・宋になると、焼餅・大餅・麻餅・黍餅・雑餅がたべられた。特に有名な物は「鍋盔餅」である。 中国南部では、黍を食べる習慣が無かったので、干飯が食べられた。 主食以外は悲惨で、味噌と漬物、豆を粉にしたものを茹で乾燥させ固めた物で、新鮮な肉や野菜が無かった。もし村から耕作用の牛を取ってきて食べようとした場合は死罪であった。そのため、肉を手に入れるには、敵や味方であった人間を調理する必要があった。 遠征前には豪勢な宴会が開かれ、牛酒がふるまわれた。 元(モンゴル)では、肉を乾燥させた乾燥肉を牛の膀胱に詰めたボルツが食べられた。また、食料用の家畜と共に行動し、時には狩りを行った。これらの食料や新鮮な馬の乳は、栄養が豊富であったため兵站を無くし機動的な戦闘を行うのに重宝した。 中東 オスマン帝国時代の常備軍イエニチェリは、トルコ歴史学の研究者Virginia H. Aksan(英語版)によると「焼きたてのパン、パンが手に入らないときはビスケット。毎日約200グラムの肉(羊肉)、蜂蜜、コーヒー、米、そして馬のための大麦とブルグル」が配給されていたと述べている。 近代 缶詰が発明されたあとも、様々な調理技術によってレーションが開発された。 1850年代半ばに、艦内でパンが焼けるようになり、1847年に缶詰の牛肉がイギリス軍で正式に食べられるようになった。 19世紀になると塩素消毒の技術が確立され、野戦陣地や船上で雨水や生水を消毒して飲むことができるようになった。
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