マーリン スピットファイア
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「スーパーマリン スピットファイア」の記事における「マーリン スピットファイア」の解説
Mk.I / Ia(タイプ300) 将来の改良に備えて広いスペースが確保されているこの新型戦闘機は、イギリス空軍においてハリケーンに代わる戦闘機となるものであった。ヴィッカーズ社は、この戦闘機の長期にわたる生産を想定したため、既にあったウールストン工場の生産ラインに加えて、新たにスピットファイアを製造するための巨大な工場をキャッスルブロミッチに建設した。1938年、予想どおり空軍はMk.Iを1,000機追加発注した。さらに1939年には200機、その数ヶ月後には450機を発注し、Mk.Iの発注は全部で2,160機に達した。 1938年中頃から、生産されたMk.Iの引き渡しが始まり、1938年8月4日に第19飛行隊(英語版)が初めてこれを受領、運用した。Mk.Iの動力は、1,030馬力のマーリンMk. IIとワッツ社製2翅木製固定ピッチプロペラだった。このタイプは77機製造された。間もなくデ・ハビランド社製の3翅金属製選択ピッチプロペラ(離陸時・戦闘時の低ピッチと、巡航時の高ピッチが選べた)に換えられ、性能は格段に向上した。またこれと前後して、可動風防を上や左右に膨らませたもの(マルコムキャノピーと呼ばれる)が用いられるようになった。 Mk. Ib(タイプ300) 1939年9月の第二次世界大戦開戦時において、スピットファイアはまだ少数しか配備されておらず、ヨーロッパ本土(フランス)では、空軍司令官ヒュー・ダウディングの意向もあり、ハリケーンでドイツと戦うしかなかった。1940年7月のバトル・オブ・ブリテン開始時には、19の飛行隊がスピットファイアを装備しており、27の飛行隊がハリケーンで構成されるところまで改善されていた。バトル・オブ・ブリテンが終結する10月までに、565機のハリケーンと352機のスピットファイアが失われたが、この時点では工場はフル稼働しており、その損失を簡単に回復することができた。また、スピットファイアの生産数がハリケーンの生産数を上回った。 この戦闘中に、19の飛行隊に20mm 機関砲2門と7.7mm機関銃4丁を装備したMk.Ibが配備された(これにより、それ以前の、7.7mm機銃を8丁装備するタイプはMk.Iaとされた)。機関砲は地上部隊に対しても効果的であったが、旋回中の射撃による弾詰まり等の故障が深刻な問題となっていた。それでも、改良されたMk.Ibは第92飛行隊に配備された。発注された2,160機のMk.Iの内、1,583機はMk.IIに改良される前に配備された。 High Speed Spitfire 1937年夏のメッサーシュミットBf109の速度記録に対抗するため、武装を外したMk. I改造の特別仕様スピットファイアが1938年11月11日にジョセフ・マット・サマーズによって初飛行した。エンジンはロールス・ロイスの特製マーリンIIスペシャル(1,710hp/3,000rpm、後に2,122hp/3,200rpm)を搭載、450mph(724km/h)を目標としていたが、1939年3月30日にHe100が本機の能力を越えた463mph(745km/h)を記録したため速度記録は中止された。 Mk.II(タイプ329) 本モデルを製造できるように、Mk.Iの生産ラインに変更が加えられた。100オクタン燃料の使用を前提とした、より強力なマーリン XII 6気筒(1,175馬力)エンジンを搭載したことで、最大速度が約28km/h増し、上昇率もいくぶん向上したが、パイロットを保護する装甲板の追加によって重量が約33kg増加した。 8丁の機銃を持つMk.IIaと機関砲を持つMk.IIbの2タイプが生産された。本機はMk.Iに代わって急速に部隊配備が進み、Mk.Iは引き下げられて訓練部隊で使われるようになった。1940年8月から配備が開始され、1941年の4月には、一線部隊はMk.IIのみで構成されるようになった。Mk.IIは全部で920機が生産された。そのうちの170機は、Mk.IIbであった。ASR Mk.II(タイプ375) Mk.IIaのエンジンをマーリンXXに換装し、救難機材を搭載した海難救助型。主翼中央部にパイロンを増設してNo.1 発煙爆弾(Smoke Float No.1)2発を搭載し、操縦席後部の胴体内に膨張式救命筏の内装式収納部2筒を増設している。スピットファイアの高速を活かして真っ先に遭難者を発見、安全を確保の上位置をマーキングし、連携する飛行艇に連絡して救助に向かわせるという方法が取られた。 Mk.IIcの仮名称で開発され、52機がMk.IIより改造されて、救助専門の飛行隊である第276飛行隊(英語版)および第278飛行隊(英語版)に配備されて使用された。 救難機型はMk. Vの改造機としても製造された。 Mk.III (タイプ330/348)、 Mk.IV(タイプ337) Mk.IIはドイツ空軍の戦闘機と十分に戦えることを証明したが、イギリス空軍は基本設計における意欲的な改良を求めた。その結果、Mk.IIIは設計全体が見直され、尾輪を引き込めるようにした他、機体のスペースを遮蔽物で囲ったりまとめたりして、強度を向上させた。エンジンは改良されたマーリンXXを搭載し、これにより640km/h以上で飛行することが可能になった。 Mk. IVはそれをさらに進化させたもので、機体はMk.IIIと似ていたが、エンジンは1,500馬力を超える新しいロールス・ロイス グリフォンを積んでいた。 しかしながら、両者とも改修部分が多かったために不具合も多く量産には至らなかった。 Mk.V(タイプ331/349/352) 1940年後半、Mk.IIは新たな敵戦闘機と遭遇し始めた。バトル・オブ・ブリテンでスピットファイアやハリケーンが撃退したBf 109Eをより洗練させたF型は多くの点でMk.IIよりも優位にあった。速度や上昇率で勝っていただけでなく、高度5,500 m以上ではスピットファイアよりも高い機動性を示した。 この時点では、Bf 109Fと戦える性能に達していたMk.IVは準備が整っていなかった。グリフォンエンジンの生産に重大な問題が発生し、解決のめどが立たなかったからである。早急に性能ギャップを埋めなくてはならなかったが、その対抗策がMk.Vであった。エンジンを新しいマーリン45シリーズに換え、高速度域での補助翼の効きを良くするため、羽布張りから金属製に改めただけで、他はMk.IIと変わらなかった。離陸時出力は1,440HPとわずかに増加しただけだったが、スタンリー・フッカー(Stanley Hooker)の設計による改良型1段1速式スーパーチャージャーを得て、高高度での出力は大幅に増加した。そのため、Mk.Vは唯一Bf 109Fと同じ高度で戦うことができた。 1940年の冬にかけて、Bf 109Fは尾翼構造に大きな問題のあることが発覚し、生産が完全にストップした。改修は春先までかかり、生産再開時にはMk.Vの配備が始まっていた。 グリフォンエンジンの問題は予想よりも深刻であることが判明し、解決までにさらに2年間かかると見積もられた。その間に、非常に使い勝手の良いMk. Vは、7.7 mm 機銃を8挺搭載するMk. Vaが94機、20 mm 機関砲2挺と7.7 mm 機銃4挺搭載のMk. Vbが3,923機、20 mm 機関砲2丁の他、7.7 mm 機関銃4挺か20 mm 機関砲を更に2挺を選択装備可能なユニバーサルタイプのMk. Vcが2,447機と、さまざまなバージョンの機体が数多く生産された。北アフリカ戦線でも使用され、その際には現地で砂塵防護のアブキール・フィルターが取り付けられた。総生産数は6,595機。 Mk. HF VI(タイプ 350) Mk. Vを高高度飛行用に改造したタイプ。翼端を延長した尖頭翼と、与圧式コクピットと高高度用にチューンされたマーリン47を装備する。ドイツ空軍が高高度爆撃機Ju86を開発中との情報を元に、対抗策として100機がMk. Vbから改造された。 Mk. F/HF VII(タイプ 351) Mk. VIより更に本格的な高高度型として、マーリン71を装備し、機体にも大幅な改造を加えた型。この型より、2段2速過給器を持つマーリン60系装備の、(グリフォンに対しての)通称「マーリン後期型」となるが、登場はMk. IXが最も早い。97機が生産された。 Mk. F/HF VIII(タイプ 359/360/368/376) Mk. VIIと同じく、マーリン60系エンジンを装備するが、より汎用性を高め、Mk. Vに続く主力戦闘機を目指した型。過給器設定により、HF(高高度用)、F(中高度用)、LF(低高度型)の3タイプが用意された。機体にも多くの改良が施され、Mk. Vとの主な相違点は、主翼左下のラジエーターが大型化され、左右対称になった点である。また、主翼内に燃料タンクが増設され、尾輪が引き込み式になり、機体の補強も施された(この変更点は、Mk. VIIおよび、Mk. XIVにも共通する)。武装は、全てMk. Vcと同じユニバーサルタイプである。しかし、改良点の多かったことが災いし、生産化に手間取っている間に、フォッケウルフ Fw 190Aへの対抗策として応急的に開発されたMk. IXが先に生産された。Mk. VIIIは1942年11月から生産されていたものの、生産が軌道に乗り始めるのは1943年までずれ込んだ。その結果、主力戦闘機の座はMk. IXに奪われたが、在マルタ島、在イタリアの部隊やインド空軍、オーストラリア空軍などへMk. VIIIが送られた。合計で1658機が生産され、終戦まで運用された。 Mk. VIIIの航続距離は、クリーン状態で1060kmと、スピットファイアの戦闘機型で最も長い(日本の戦闘機に例えれば雷電各型のクリーン状態に匹敵する)ものであったが、このタイプの登場後もMk. IXが生産され続けたという事実は、イギリス空軍が長距離侵攻の出来る戦闘機を持っていなかったのではなく、単座戦闘機を長距離侵攻に使用する意図が端からなかったことを意味する。 F/LF/HF Mk. IX(タイプ 361/378) Fw 190の出現により、早急にマーリン60系エンジンを搭載したスピットファイアが必要となった。イギリス空軍は既存のMk. Vにマーリン60系エンジンへ換装したMk. IXを1942年に部隊配備した。この機体が卓越した性能を発揮したため、大量生産が決定された。当初はMk.Vからの改造機をMk.IXA、元からMk.IXとして生産された機体をMk.IXBと呼んで区別していたこともあった。高性能化に貢献したのは、2段2速過給機付きマーリン60シリーズエンジンと4翅式ロートル・ジャブロ・プロペラの組み合わせによるものだった。エンジンの種類によって、F、LF、HFの各機種があり、また、翼も従来のBタイプ、20 mm イスパノ・スイザ機関砲2門に加え7.7 mm ブローニング機関銃4挺もしくは更に20 mm 機関砲2門を搭載可能なCタイプ(ユニバーサル・ウイング)の他に20 mm 機関砲2門と12.7 mm ブローニング機関銃2挺を搭載したEタイプも使用された。 1943年に機体改修が行われた。この後期型では尾翼の大型化、ジャイロ式照準機の装備、後部胴体への燃料タンク増設、バブル・キャノピーが採用された。生産数は5,663機(ヴィッカースで5,117機、その他557機)といわれている。しかしながら、別のリストによれば5,440機(378機がスーパーマリン、Castle Bromwichで5,062機)となっている。 航続距離については、シリアルML186を用いてジェフリークゥイルが45英ガロンのドロップ・タンクを使用した飛行で、1,000ft以下を5時間飛行(Salisbury Plain - Moray Firth間)しており、護衛戦闘機としての使用にも耐えうることを証明している。 極少数のMk.IXでは、速度を向上させるために、塗装をはがして機体を平滑化した機体が用意された。これらの機体には、特別に150オクタンの燃料が使用され、ブースト圧を25lb/sq.inまで上げることができた(しかし、150オクタン燃料の使用は整備間隔を短縮しなければならなかった)。これは、コードネーム「バスタ(Basta)」と呼ばれ、1944年夏のV-1迎撃に活躍した。 水上機型(タイプ 342/344/355/385) 1943年12月29日、LF IXb(シリアルMJ892、マーリン66搭載)が改造のためロートル・ワークス(Staverton/Gloucestershire)に到着した。対日戦線への投入用としてフォーランド・エアクラフト製フロートを取り付けられたMJ892は1944年6月6日、スーパーマリンのテスト・パイロットFrank C Furlongによって飛行した。水上機型スピットファイアは本機以降開発されることはなかった。 PR Mk. X スピットファイアMk. VIIを基に製作された写真偵察機 (Photo Reconnaissance) 型である。呼称方法が戦闘機型と重複しないようにとの配慮から既に振られていたMk. IXの次のナンバーであるMk. Xが振られた。高々度写真偵察も考慮されていたため、Mk. VII譲りの与圧装置が付いている。最初の機体がベンソン基地に配備されたのが1944年4月4日であったが、この時既にベンソン基地には独自に改造したPR Mk. XIがあった。結局、与圧装置の必要性が薄れたために僅か16機が生産されたのみである。 PR Mk. XI ベンソン基地で改造されたPR Mk. XI(タイプ374)の他に、ヘストン航空機がMk. IXを改造したPR MkXI(タイプ 365)を生産、スーパーマリン社でも引き込み式尾輪、大型尾翼のPR Mk. XIが生産された。 Mk. XVI マーリン60系エンジンの供給に不安を感じたため、米国パッカード社で生産されていたパッカード・マーリン 266エンジン(マーリン 66のライセンス生産)を搭載した機体である。英国と米国との製図法の違いなどから、本エンジンを搭載した機体には、新たにMk. XVIの番号が振られている。性能的にはMk.IXと同等であるが、マーリン266がマーリン66と細部が異なるため、エンジン・カウルの張り出しやフィルターキャップの位置が異なるなどの変更がなされている。しかしながら、本エンジンの供給が遅れたために生産は1944年までずれ込んだ。
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