フレスコ、モザイク壁画のパイオニアとは? わかりやすく解説

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フレスコ、モザイク壁画のパイオニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:05 UTC 版)

長谷川路可」の記事における「フレスコ、モザイク壁画のパイオニア」の解説

長谷川路可日本におけるフレスコ、モザイク壁画のパイオニアとして活躍した画家である。フランス遊学でポール・ボードワンから伝統的な手法学んだあと、日本聖殉教者教会壁画制作しながらローマ美術アカデミーのフェルッキオ・フェラッツィにアドヴァイスを受け、また現地美術家ニコラ・アロッチらとも親しく交流しながら、フレスコ技術習得努めていった。 初めての渡欧から帰国間もない1928年、旧カトリック喜多見教会前身に当たる伊東家聖堂日本初フレスコ壁画制作した以来、路可の制作した壁画・床絵・天井画などの次の作品記録残っている。 1928年 - 狛江町東京)の伊東家聖堂に《聖母子像教会復活と聖ミカエル殉教者と聖ザビエル》(フレスコカトリック喜多見教会移設後、現在、大和学園聖セシリア八角堂移設)。≪天地創造≫(フレスコ建物の解体と共に遺失1931年 - 早稲田大学理工学部建築学科研究室東京新宿区)に《アフロディーテ》(フレスコ建物解体により一部修復後、現在文学部33号館に移設展示1933年 - 徳川義親侯爵邸(東京豊島区玄関ホールに《狩猟図》、食堂静物画》(建物長野県野辺山への移設際し一部フレスコストラッポ保存1933年 - 東京府養正館東京港区)。《旭日冨嶽圖》(フレスコ建物解体とともに遺失1935年 - 徳川生物研究所東京豊島区)、現財団法人徳川黎明会天井画》(板絵現存1938年 - 尾張徳川家納骨堂瀬戸市定光寺)。(フレスコ現存1938年 - 文化服装学院大講堂東京渋谷区)。《西洋服装史》(フレスコ戦災焼失1939年 - 藤山工業図書館東京港区)。《啓示創造》、《科学芸術》(フレスコ建物解体により遺失1941年 - 日本大学江古田校舎講堂東京練馬区)。題名不詳天平時代壁画題材)(フレスコ建物解体により遺失1942年 - 所在不明。《星港陥落記念》。(フレスコ戦災焼失1950年 - 夢想山 本眞寺(藤沢市)。《歩む釈迦像》(水墨板絵現存1951年 - 1957年 日本聖殉教者教会イタリアチヴィタヴェッキア)。祭壇画:《日本二十六聖人殉教図》全五面 天井画: 《聖母子像》《アッシジの聖フランチェスコ像》《聖フランシスコ・ザビエル像》《聖フェルミナ像》《支倉常長像》 側廊小壁画: ≪聖ペトロ聖パウロ≫≪聖ヨセフ≫≪アッシジの聖フランチェスコ≫ ≪聖処女マリア≫≪みこころのキリスト像≫≪パドヴァの聖アントニオ≫ (フレスコ一部モザイク現存損傷心配される) 1955年 - ウルバニアーナ大学(イタリアローマ)神学部礼拝堂壁画フランシスコ・ザビエル生涯≪聖イグナチオ・ロヨラとのパリ時代≫≪リスボンでの乗船≫ ≪インドでの説教≫≪日本僧侶への洗礼≫≪中国上中島での臨終≫(フレスコ現存1958年 - 旧岩国市庁舎壁画。《繁栄》(モザイク建物解体により一部移設保存1959年 - 古屋旅館大浴場熱海市)。《星座神話》(フレスコ改装され駐車場にて公開1960年 - 武蔵野美術大学3号館東京武蔵野市)。『題名不詳壁画集団F.M.練習用習作)』(フレスコ現存東京青年文化会館東京渋谷区希望富士≫(フレスコ・ストラッポされ藤沢市鵠沼移設計画あり) 1961年 - 早稲田大学33号1階エレベータホール床(東京新宿区)。《モザイク》(モザイク建物解体により新校舎移設1962年 - 船橋ヘルスセンターホテル(船橋市)。《人魚》(フレスコ建物解体により遺失)、《四季モザイク》(モザイク建物解体により遺失1963年 - 東松山カントリークラブ東松山市)。《彩雲》(モザイク建物解体により遺失1963年 - 日生劇場東京千代田区ピロティ床、大理石モザイク共作モザイク現存1964年 - 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場正面玄関床(東京新宿区)。《悠久》(モザイク・ケーブル増設工事により遺失1964年 - 国立霞ヶ丘陸上競技場メインスタンドエレベーター棟(東京新宿区)。《勝利》(野見宿禰像)≪栄光≫(ギリシャ女神像)(モザイク・現在スポーツ博物館所蔵1964年 - 大成化学相模原中央研究所相模原市)。《幽玄》(モザイク建物解体により遺失1964年 - 国際仏教会館浜松市鴨江寺)。《寂光》(フレスコ遺失1964年 - シャンソンビル(静岡市)。《香の》(フレスコ損傷により遺失1965年 - 日本二十六聖人記念館長崎市)。《ザビエル像》(フレスコ現存1967年 - 日本二十六聖人記念館長崎市)。《長崎への道》(フレスコ現存) これらの壁画作品は、動かせ展覧会など出品することができない上、作家自身自由意志だけでは制作できない。また建造物一部であるから建築主および建築家との連携信頼関係が必要となる。今井兼次村野藤吾といった建築家親交持っていた路可は、極めて恵まれていた。 イタリアから帰国する1957年までの壁画作品を、路可はほとんど独力で制作したようだ。帰国した時、路可は60歳迎えていた。壁画制作するには、数メートル組み立ったままの制作となり、天井画ともなればさらに無理な姿勢強いられ体力的にも相当大変な作業違いない1958年武蔵野美術学校本科芸能デザイン科講師となった路可は、服装史を担当しながら、1960年油絵科などの学生にも呼びかけ壁画集団F・M」を結成した。「F・M」とはフレスコモザイク意味する以後壁画制作のほとんどは「F・M」の学生指導しながらの共同制作となったフレスコ場合は自ら筆をとることが多かったようだが、モザイク場合は「ローマンスタイル」というイタリア中世からルネサンスにかけてのシステム踏襲し、路可が下絵描き、「F・M」のメンバー下図拡大材料調達材料作り石割り)、現場制作のほとんどを担当した。現在、フレスコモザイク分野活躍する画家多くここから育っていった。 戦前日大芸術科フレスコ教えていたときから、学生達と「日本フレスコ画協会展」を開くなど、フレスコ画による展覧会試み継続されブリヂストン美術館での個展1958年)、文芸春秋画廊での「F・M展」(1960年〜)などでは、路可はフレスコ画可能性広げていくような斬新な試み展開した日本の神話題材にした≪山幸彦ものがたり三部作日本古代モチーフにした≪考古幻想≫≪いかるがの春≫、ラスコー壁画からイメージした≪孤洞≫、同時代洋画意識したような≪イタリア想い出≫≪ファッションモデル≫、さらにはプロレタリアアートを意識したような≪斧を持つ男≫なども制作されている。これらの作業は、フレスコ画同時代アートとして普及させていきたいという路可の思いが、作品として現れてきたものだろう。 フレスコ画モザイク画は、本来、建築同様の耐久性期待して開発され技法である。ところが、建築対す西洋日本意識違いもあるのか、既に遺失してしまった路可の作品相当数上る戦災致し方ないにしても建物解体よるものがかなり多い。路可がイタリア時代に新技法として学び日本伝えたストラッポ」というフレスコ画面の剥ぎ取り補修技術によって保管されている作品もあるが、絹や紙の作品より多くが既に失われているのが現実である。路可の代表作である、イタリア・チヴィタヴェッキア市の「日本聖殉教者教会内部壁画も、雨漏りなどの要因天井の壁に亀裂が入るなど修復必要性があることが、崇城大学有田教授や、東京文化財研究所前川佳文の調査によって指摘されている。なお、路可の代表作である旧国立競技場メインスタンドの《勝利》と《栄光》は、分割して壁ごと切り出されたあと、日本スポーツ振興センター倉庫保管されていたが、現在新しくできる国立競技場正面入り口(東ゲート)に設置されている。

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