会津戦争 会津戦争の概要

会津戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 00:52 UTC 版)

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会津戦争

会津戦争
戦争戊辰戦争
年月日
旧暦慶応4年閏4月20日 - 明治元年9月22日
グレゴリオ暦1868年6月10日 - 1868年11月6日
場所陸奥国(現在の福島県
結果新政府軍官軍)の勝利
交戦勢力
新政府軍
(奥羽先鋒総督府)
旧幕府軍
奥羽越列藩同盟
指導者・指揮官
板垣退助
伊地知正治
西郷頼母
大鳥圭介
山川大蔵
斎藤一
戦力
約75,000 約9,400
  • 藩兵約3,500[2]
  • その他約5,900[3]
  • 女性兵数十[4]
損害
戦死者:2,977
戊辰戦争
戊辰戦争の白河口の戦いで焼失した白河小峰城

なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として別記する。

概要

文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保京都守護職に就任し、新撰組を配下にするなどして尊皇攘夷志士の取り締まりを強力に推進し、禁門の変においても幕府方の中核として、尊皇攘夷派の排除を行った。

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した松平容保は、明治新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って、自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、それを察知していた新政府側でも、会津の恭順姿勢を信用してはいなかった。

慶応4年(1868年)3月11日江戸城が無血開城され(江戸開城)、慶喜が水戸藩で謹慎すると、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府の矛先は、佐幕派の重鎮として敵視されていた容保に向けられる。

追討を命じられていた仙台藩米沢藩など、東北諸藩は会津に同情的で、会津赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成して結束を強めた。奥羽14藩では会議を開いて、会津藩と庄内藩の赦免嘆願を目的として、新政府の奥羽鎮撫総督・九条道孝に嘆願書を提出したが、東征大総督府下参謀・林通顕による「会津は実々死謝を以ての外にれなく」という基本方針は既に決定しており[5]朝廷へ直接建白を行う(太政官建白書)も認められることはなかった。

奥羽越藩同盟の結成時点(白石会議)では、赦免嘆願を目的としていたが、会津が明治新政府の通達に対して罪を認めず、謝罪を拒否する回答書を示した事と、明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が、仙台藩士によって殺害された事件から、戦争に傾くことになる。

戦闘準備

会津藩家老西郷頼母は、戦況が圧倒的に不利と見て、従来から主張していた和議恭順を藩主・容保に勧めるが[6]、容保は徹底抗戦を主張し、徴兵に乗り出した。また、藩側に逃げてきた農民町人らも、武器を渡され戦うことを命じられることとなった。

しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して苛酷な租税を課していたため、重税さらには戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く、逃走者が後を絶たなかった。意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える会津藩士とは対照的であった。

特に(藩の軍資金確保を名目に)、資産の殆どを徴発された会津の町人たちに至っては、征服者である新政府軍を「官軍様」と呼び、会津藩士を「会賊」と呼び捨てにした。

また、新政府軍の拠点確保を阻止するため、一部の村々を焼き払ったことも、領民たちの恨みを深くした。

そのため、後に進軍してくる新政府軍が、会津領の村々から大量の人夫・軍資金などを徴発しても、反発するどころか、歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。

経過

白河口の戦い

白河藩は当時国替えにより藩主不在となり、幕府直轄領であった。旧幕府軍は西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日 (1868年6月10日)に白河城を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮のもと、閏4月25日(6月15日)に白河への攻撃を開始し、5月1日6月20日)に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。

二本松の戦い

慶応4年6月24日(1868年8月12日)に棚倉城が落城、7月16日9月2日)に三春藩が列藩同盟を脱退し、明治新政府軍はじりじりと北上した。7月29日9月15日)、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつき新政府軍は二本松城を攻撃。城は落城し二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れた。二本松藩は少年兵部隊を動員しており、彼らは後世、二本松少年隊と呼ばれた。特に木村銃太郎率いる20名は攻城戦の最中にそのほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り継がれた。 

若松城下への侵攻

二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津への攻撃を主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津を攻撃することとなった。

二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。8月21日10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロメートル余りを急進して8月23日(10月8日)朝に若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃する[7]などの悲話が後世に伝えられている。

降伏

会津軍は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続け、新政府軍も若松城に砲撃を加えた。

しかし、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日11月6日)、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。

会津藩が降伏したことで、今まで藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起きた[8]

戦後処理

損傷した会津若松城(降伏後に撮影)

薩摩藩の軍監・桐野利秋や長州藩の参謀・前原一誠[9]の計らいで容保は死一等を減じられて謹慎となり、養子の喜徳とともに江戸(東京)に護送されることになった。

本来であれば、家老上席にあった西郷頼母・田中玄清神保内蔵助切腹するところであったが、西郷は行方知れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していたため、次席の萱野長修が、戦争責任を一身に負って切腹した。

江戸に送られることになった容保を、家臣たちは断腸の思いで見送りに来たが、これまで重税に苦しめられてきた領民たちは何の関心も示さず、見送りにも殆ど現れなかった[10]

会津藩の領土は明治政府の直轄地として占領され、若松城下には政府機関である「明治政府民政局」が設置された。その後、各地で打ち壊しを行うヤーヤー一揆の農民たちに対して、明治政府は積極的に鎮圧はせず会津藩の旧村役人に交渉させ、一揆勢力の要求の多くを実現させた。

従来は新政府軍が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料、『戦死屍取仕末金銭入用帳』の写しが会津若松市で見つかり、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が新政府軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある[11]

領土を失った会津藩の武士らは、翌年の明治3年(1870年)謹慎を解かれて転封先として「猪苗代町(福島県耶麻郡)」と「斗南(現在の青森県むつ市)」のどちらかを明治政府により提示され、最終的に斗南を選択し、旧会津藩士4700名余が移住して三戸藩を立て、明治3年6月に名称を斗南藩と改めた。

会津出身の軍人・柴五郎によると「斗南」は漢詩からとったとの説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士・秋月悌次郎が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方、当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとの解釈もある[12]

会津藩一の成績優秀者で、年齢による白虎隊士除隊後から国費留学を経て、東京帝国大学総長など歴任した山川健次郎は、会津藩は兵法や武器が時代遅れで、松平容保は幕府への忠誠心は厚かったが、情報に疎く藩主として藩内の多数派だった主戦論を抑えられなかったことを評している。

京都御所警備という朝廷の付近での任務に就いていたのに、情報軽視や身分が硬直していた会津藩は、武士や地主以外の領民軽視で戦争の準備も軍制改革も遅かったとしている。和平主張する者を戊辰戦争末期まで排斥したことにも、国際感覚もあった神保修理の助言通り恭順するか、最低でも鳥羽・伏見の戦い後にでの圧倒的敗北後にもいた藩内強硬派こそ、藩主として処罰するか説得するなどして、時代の変化を理解して上手く立ち回るべきだったと述べている。

山川は自身が戦後に物理学を選考した理由に、会津藩の朱子学など儒教重視で、理系軽視だったことを挙げている。しかし兄と共に旧会津地域の支援をし、兄の死後も明治34年(1901年)に、困窮した会津松平家のために、明治天皇から下賜された金銭を渡したりしている[13]

戦後と観光史学の影響

近年でも観光史学の影響で、会津地方の人々が「一方的に『朝敵』『賊軍』扱いされた遺恨がある」軋轢が報じられる事が多いが、史実では一般の会津民からではなく、会津藩士(やその親族)による薩長への遺恨のみ存在していた。前述の通り、徴税や藩士優遇の前時代的な会津藩の苛烈な統治に不満を持つ会津民が多く、会津藩士や親族らの敵である新政府軍に協力した者も多数出た。移住処分や処罰も会津藩士やその親族のみに行われた上に、実際に会津戦後に明治政府が会津藩時代の統治を残そうとした際、逆に藩民から反発運動が起きたなど、会津藩の統治への不満が根強く、反発を受けて直接行うことにした明治政府による統治では、不和は起きなかった。旧会津藩士族らによる薩長への遺恨が、時代がくだり観光史学が普及以降は、会津藩打倒に協力者が続出していた旧会津藩地域の非藩士の子孫らから、薩長藩出身者への遺恨があったことになってしまっている[14]

西南戦争では、旧会津藩士らやその親族が薩摩の巨魁である西郷隆盛への恨みを晴らすために、かつて会津戦争で戦った明治政府軍に志願したといわれる。会津藩士・柴佐多蔵の五男である明治政府軍(後の大日本帝国陸軍)軍人の柴五郎などは、西郷や大久保利通など、薩摩出身の政治家の非業の死に対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている[15]

昭和61年(1986年)には長州藩の首府であった萩市が、会津藩の首府であった会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と、会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は『まだ120年しか経っていない』として拒絶した。一方、会津藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主であった庄内藩の首府に当たる鶴岡市昭和44年(1969年)に、薩摩藩の首府・鹿児島市と兄弟都市盟約を締結している。

平成19年(2007年)、山口県第4区選出の衆議院議員安倍晋三は、内閣総理大臣として会津若松市を訪問した際に「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語った[16]

平成23年(2011年3月11日に発生した東日本大震災において、会津若松市は萩市から義援金福島第一原子力発電所事故避難者用の救援物資の提供を受け[17]、会津若松市長・菅家一郎が萩市をお礼の意味で訪問したが[18]、菅家は「和解とか仲直りという話ではない」と述べた[16]。また、原発事故に於ける放射性物質除染作業に、自衛隊の山口県の部隊が携わった際には、部隊長が福島県知事佐藤雄平に直々に作業報告に出向いた。

平成24年(2012年11月26日、萩市長・野村興児は、会津支援の一環として、会津若松市を訪問し、白虎隊士の墓前に献花を行った[19]

2013年(平成25年)に放送された、NHK大河ドラマ八重の桜』では、幕末の会津藩が舞台となっており、会津戦争のシーンでは、実際の歴史ではほとんど参戦しなかったはずの長州藩がの如く会津に攻め入ったかのように描かれていた為、山口県民からは不評を買っていた[20]

平成28年(2016年)の報道によると、親から「長州の男との結婚だけは絶対に許さん」と言われ続けて育った子供が会津地方にはおり[21]国道49号についても「明治時代に制定された会津を通る国道が縁起の悪い「49」にされたのは長州の嫌がらせだ」と虚偽を信じて、真顔で述べる住人がいる[16]。しかし、実際に会津に国道が制定されたのは、明治時代ではなく昭和であり、国道49号が誕生したのも昭和38年(1963年)である。

平成30年(2018年2月17日に放送された『新婚さんいらっしゃい!』では、福島県会津地方出身の男性が鹿児島県出身の女性と交際し結婚しようとしたものの、「夫が会津出身であること」を理由に、女性の父から結婚を認められず破局、30年以上経って父が他界した後に再会し、ようやく結婚することができたという夫婦が出演した[22]

  • このように結婚が反対されたという事例が見受けられるが、松平容保の五男・英夫が長州藩士で山田顕義の長女梅子と、山川浩山川健次郎の妹・山川捨松が西郷隆盛の従弟で薩摩藩士・大山巌とそれぞれ結婚している事実は、余り知られてない。



  1. ^ 水戸藩諸生党奥羽越列藩同盟側に加勢、北越戦争参加後、1868年会津戦争・篭城戦で北越戦線から会津へ戻り会津藩内の婦女子を救済、各地で会津藩兵らと共に奮戦した。福島県会津若松市一箕町の白虎隊記念館敷地内に、会津で命を落とした水戸藩士らの「諸生党鎮魂碑」がある。『茨城新聞』2014年(平成26年)5月2日金曜日、17頁、福島会津若松、殉難志士の冥福祈る。
  2. ^ うち少年兵500余
  3. ^ 旧幕府兵・民兵など含む、諸説あり
  4. ^ 城内防衛
  5. ^ 大山柏『戊辰戦争史』
  6. ^ ゆかりの人物一覧 | 会津武家屋敷
  7. ^ 最年少隊士の飯沼貞吉のみは蘇生し、昭和6年(1931年)まで生き抜いた。
  8. ^ 牧野登「会津人が書けなかった会津戦争」より
  9. ^ 敵ながら会津藩の態度や戦いぶりに、ある種の共感に似た感情を抱いていた前原は、木戸孝允に会津藩への厳罰を避ける旨の手紙を書いている(『幕末悲劇の会津藩主 松平容保』中経出版、2013年)
  10. ^ 中須賀哲朗・訳「英国公使館員の維新戦争見聞記」より
  11. ^ 会津藩士埋葬の史料発見 「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し”. 福島民報. 2017年9月25日閲覧。
  12. ^ 『野辺地町史 通説編第二巻』 48頁
  13. ^ 「会津戊辰戦史」、会津戊辰戦史編纂会、昭和8年刊
  14. ^ 『野辺地町史 通説編第二巻』 53頁
  15. ^ ある明治人の記録:会津人柴五郞の遺書(柴 五郎著)”. 駒澤大学. 2017年7月15日閲覧。
  16. ^ a b c 会津VS長州だけじゃない日本の郷土紛争 彦根VS薩摩の争点」『週刊ポスト』2013年8月30日号、NEWSポストセブン2015年7月11日閲覧。
  17. ^ 池田拓哉 (2011年4月2日). “2011年4月2日 会津若松へ長州・萩から義援金 旧敵でも「ありがたい」”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104020272.html 2016年3月26日閲覧。 
  18. ^ 萩市 平成23年 萩市の主な出来事”. 2012年11月25日閲覧。
  19. ^ 福島民報 2012年11月25日 山口の萩市長が観光支援で若松訪問”. 2012年11月25日閲覧。
  20. ^ “『八重の桜』描写 山口・福島県民の怒り温度差にNHKが配慮”. 週刊ポスト (小学館). (2013年3月31日). http://www.news-postseven.com/archives/20130331_178752.html 2016年6月20日閲覧。 
  21. ^ “『八重の桜』の長州藩描写 山口県民は受け入れ難いの意見多し”. 週刊ポスト (講談社). (2013年3月31日). http://www.news-postseven.com/archives/20130331_178740.html 2016年7月5日閲覧。 
  22. ^ 新婚さんいらっしゃい 【婿養子は見た!妻家族の怪奇風習&37年越しの愛の奇跡!】 の番組概要ページgooテレビ番組(関東版) 2019年2月17日


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