秦
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秦(しん、拼音: 、紀元前905年 - 紀元前206年)は、中国の王朝である。周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて中国全土を統一、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間を秦朝、秦代と呼ぶ。紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした王の姓は
注釈
- ^ 前905年、周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、秦の地に封ぜられた。
- ^ 前770年(平王元年)、襄公は伯爵となった。
- ^ 325年(顕王44年)、恵王は王となった。
- ^ 前288年(赧王27年)、昭王は西帝となった。
- ^ 前221年に始皇帝は中華を統一して大秦帝国を創立。
- ^ a b 皇帝ではなく秦王を称した。
- ^ この時代の中国では「姓」と「氏」は別である。秦の家系は遠祖「革」以来一貫して姓は「嬴姓」であり、氏は「趙氏」である。なお通常、男性は「氏」を、女性は「姓」を名乗ったので、始皇帝が「嬴政」と自称したり人から呼ばれたりしたことはありえない(正しくは「趙政」)。
女防生旁皋,旁皋生太幾,太幾生大駱,大駱生非子。以造父之寵,皆蒙趙城,姓趙氏。
秦之先為嬴姓。其後分封,以國為姓,有徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、將梁氏、黄氏、江氏、修魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏。然秦以其先造父封趙城,為趙氏。(司馬遷『史記』秦本紀) - ^ 『史記』始皇本紀では衛となっている。
- ^ 鄴攻めではなく平陽の戦いを統一戦争の始まりとすることもある。
- ^ 代は燕と連携をとり秦に対抗する。王賁により代王嘉が捕虜になる紀元前222年まで命脈を保った(燕攻略も参照)。
- ^ この時点で趙の滅亡とすることもある。
- ^ 即位して3日後に死去した。
- ^ 中国統一後に皇帝を称した。
- ^ 在位46日。
参考文献
- ^ 鸟虫篆文体
- ^ 『史記 巻四 周本紀』:幽王以虢石父為卿,用事,国人皆怨。石父為人佞巧善諛好利,王用之。又廢申后,去太子也。申侯怒,與繒・西夷犬戎攻幽王。幽王挙烽火徴兵,兵莫至。遂殺幽王驪山下,虜褒姒,盡取周賂而去。於是諸侯乃即申侯而共立故幽王太子宜臼,是為平王,以奉周祀。
- ^ 『史記 巻四十二 鄭世家』:二歳,犬戎殺幽王於驪山下,並殺桓公。
- ^ 佐藤信弥 2016, pp. 209–210.
- ^ 島崎晋 2019, pp. 79–81.
- ^ 『史記 巻六 秦始皇本紀』:(始皇)六年,韓・魏・趙・衛・楚共撃秦,取寿陵。秦出兵,五国兵罷。
- ^ 『史記 巻四十三 趙世家』:(悼襄王)四年,龐煖将趙・楚・魏・燕之鋭師,攻秦(蕞),不抜;移攻斉,取饒安。
- ^ 『史記 巻四十 楚世家』:(考烈王)二十二年,與諸侯共伐秦,不利而去。
- ^ 『史記 巻七十八 春申君列伝』:攻秦至函谷関。
- ^ 島崎晋 2019, pp. 32–34.
- ^ (中国語) 秦滅趙之戦 [Qin's conquest of Zhao] (wiki), Hudong Baike
- ^ 『史記』秦始皇本紀「十三年,桓齮攻趙平陽,【正義】:括地志云:「平陽故城在相州臨漳県西二十五里。」又云:「平陽,戦国時属韓,後属趙。」殺趙将扈輒,【正義】:「扈音戸。輒,張猟反,趙之将軍。」斬首十万。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,【正義】:括地志云:「宜安故城在常山城県西南二十五里也。」破之,殺其将軍。桓齮定平陽、武城。【正義】:「即貝州武城県外城是也。七国時趙邑。」」
- ^ 『史記』廉頗藺相如趙奢李牧列伝「七年,秦破殺趙将扈輒于武遂,斬首十万」
- ^ 『史記』趙世家「二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻赤麗、宜安...」
- ^ a b 巻二十一 趙策四
- ^ 『資治通鑑 巻六 秦紀一』:桓齮伐趙,敗趙將扈輒於平陽,斬首十萬,殺扈輒。 〔冬,十月,桓齮復伐趙〕桓齮伐趙,〔殺其趙將〕,取宜安、平陽、武城。〔趙王以李牧為大將軍,戰於宜安、肥下,秦師敗績,桓齮奔還。趙封李牧為武安君〕。
- ^ 『史記 巻六 秦始皇本紀 第六』:十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙將扈輒,斬首十萬。王之河南。……十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,破之,殺其將軍。桓齮定平陽、武城。
- ^ 『史記 巻八十一 廉頗藺相如列伝』:後七年,秦破殺趙將扈輒於武遂,斬首十萬。趙乃以李牧為大將軍,撃秦軍於宜安,大破秦軍,走秦將桓齮。封李牧為武安君。
- ^ 『史記 巻四十三 趙世家』:二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻 赤麗、宜安,李牧率師與戰肥下,卻之。封牧為武安君。
- ^ a b c “秦滅韓和破趙”. 中華文化信息网. 2015年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月3日閲覧。
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- ^ 廉頗藺相如列傳第二十一
- ^ 趙世家第十三
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- ^ (中国語) 秦滅魏之戦 [Qin's conquest of Wei] (wiki), Hudong Baike
- ^ 『史記』楚世家
- ^ 秦滅楚 Archived 2015-09-23 at the Wayback Machine. 中華文化信息网
- ^ 馮夢竜『東周列国志』“王賁兵渡鴨緑江,圍平壌城,破之,虜燕王喜,送入咸陽,廢為庶人。”但純属小説家之言,不足為信。
- ^ a b 秦滅燕、趙和破斉 Archived 2015-09-23 at the Wayback Machine. 中華文化信息网
- ^ a b Duiker, William J. Spielvogel, Jackson J. Edition: 5, illustrated. (2006). World History: Volume I: To 1800. Thomson Higher Education publishing. ISBN 0495050539, 9780495050537. pg 78.
- ^ 柿沼2015
- ^ Ren, Changhong. Wu, Jingyu. (2000). Rise and Fall of the Qin Dynasty. Asiapac Books Pte Ltd. ISBN 9812291725, 9789812291721.
秦国
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「コウラン伝 始皇帝の母」の記事における「秦国」の解説
嬴稷(えい しょく) - 賀強(ホー・チアン)[声:山路和弘] 秦の国王。 嬴柱(えい ちゅう)/安国君 - 王茂蕾(ワン・マオレイ)(中国語版)[声:咲野俊介] 秦の太子。異人の父。 嬴子傒(えい しけい)- 王雨(ワン・ユー)[声:山野井仁] 安国君の息子。異人の異母兄。 華陽(かよう)夫人 - 譚卓(タン・ジュオ)(中国語版)[声:小松由佳] 嬴柱の正室。 夏姫(かき) - 何佳怡(ホー・ジアイー)(中国語版)[声:魏涼子] 嬴柱の側室で、異人の母。 范雎(はん しょ) - 譚建昌(タン・ジエンチャン)(中国語版) [声:坂東尚樹] 秦の丞相。 白起(はく き) - 于彦凱(ユー・イエンカイ)[声:中村浩太郎] 秦の将軍。 羋絲蘿(び しら) - 方安娜(ファン・アンナー)(中国語版) [声:本名陽子] 異人の側室。
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秦国
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「達人伝-9万里を風に乗り-」の記事における「秦国」の解説
昭王(しょうおう) 作中で「虎狼の国」と呼ばれる秦国の王。白起の提言する覇業を受け容れた後は、戦を旧来の馴れ合いじみた物から征服のための苛烈な戦に変え、有能な人材を集め強国化を推し進め天下を狙う。 安国君(あんこくくん)→ 孝文王 昭王の太子。昭王の死に伴い、秦王に即位することとなるも、父親と同じような威を保てるか不安を抱いており、孝文王として即位後3日で急逝した。 異人(いじん)→ 子楚(しそ) 昭王の孫。趙への人質として暮らしていたが、呂不韋に「奇貨」として見出され、秦の公子となる。呂不韋のところにいた朱姫を見染め、妻に貰い受ける。安国君の太子となってからは名を子楚と改める。急逝した父孝文王の跡を継ぎ秦王となるが、その重圧に苦しみ、体調を崩し早世した。 嬴政(えい せい) 朱姫が異人の子として産んだ男児。幼少期より周囲を圧する威を備え持ち、両親や呂不韋らを戸惑わせる。昭王の墓を暴き罪人として縛についていた黥骨を教育係として配下にする。早世した子楚の後を受け秦王となるや、呂不韋の構想を全く意に介せず、トップダウンの人事や命令を連発する。 華陽夫人(かようふじん) 秦の太子・安国君の寵愛する夫人だが、跡継ぎとなる子が居ない。呂不韋の持ちかけた話にその才覚を認め、異人を自分の養子とする。楚人。 朱姫(しゅき) 荘丹の故国の高貴な家柄に育つが、黥骨により家と家族を奪われ、ショックで記憶まで失う。旅芸人の一座に拾われて音曲舞踊の才を発揮し、呂不韋に「奇貨」と見出され身請けされる。幼いころは雛朱(すうしゅ)、後に朱姫と呼ばれるようになる。呂不韋の子を身籠るが、それを隠して異人に嫁がされ、男児・政を出産する。成長した政が教育係として見出した黥骨と再会して記憶が蘇るが、そのために精神に変調をきたす。 華陽夫人の姉 異人を秦の次の太子にせんとする呂不韋が入秦直後に最初に面会した女性。呂不韋が華陽夫人と会うきっかけを作った。 魏冄(ぎ ぜん) 范雎の前の秦の宰相。昭王の元、長年権力の座に就き白起を重用し続けてきた。 范雎(はん しょ) 秦の宰相。魏で仕官していたが、機密情報を漏らしたといわれのない疑いをかけられ、半死半生となるほどの迫害を受ける。その後、秦に亡命。次第に重用されるようになり、宰相となった。一飯の恩にも睚眦(がいさい)の恨みにも必ず報いる人物。 蔡沢(さい たく) 范雎に推挙され、秦の宰相となった男。 呂不韋(りょ ふい) 秦の宰相。元は諸国を股にかける気鋭の商人だった。若き日に市中で三侠と出会って以来、行く先々で彼らと関わることになる。雛朱、異人を「奇貨居くべし」として庇護し、秦に入ると無一文から数千人の食客を抱えるまでにのし上がり昭王亡き後、商人出身としては異例の宰相となる。朱姫(雛朱)は元々、呂不韋の寵愛を受けており、異人に差し出したときには既に身籠っていたため、その子・政の実父である。安国君と子楚を支え秦の政治に関与し、嬴政の即位後は相国となる。その手腕は蒙驁には評価されているものの、嬴政の想像を絶する命令には圧倒されている。 李斯(り し) 楚で荀子の門下生として学んでいた。荀卿からは野心家と評される。春申君の弔問団に韓非と共に同行する。その後、出世の見込みのない楚を見限り、呂不韋の食客となり、その後、嬴政に重用される。魏王と信陵君、趙王と廉頗の関係を悪化させる策を放つ。 甘羅(かん ら) かつて秦の宰相をつとめた甘茂の孫。齢12でありながら呂不韋の上客として遇される。 嫪毐(ろう あい) 呂不韋の食客となった人物。巨根の持ち主で正気を失った趙姫のもとへ送り込まれる。 黥骨(げいこつ) 秦の刺客として荘丹の国に現れ、琰王と王族、玄信らを手にかけた。曲芸のような超絶武技を操る褐色肌の巨漢で、片言で話す。信陵君暗殺に失敗した際に寵愛する従者を失ったことで精神の平衡を失い、その恨みの矛先を荘丹の郷里に向ける。長平で昭王の御者を務めていた際に玄峻の復讐の刃を受けるが生存しており、隻手隻眼の姿で昭王から白起への使者として再登場する。昭王の死後は再び精神の平衡を失い、王の陵墓を暴くという暴挙に出る。蒙驁に取り押さえられ拘束されていたが、政の目に留まり配下とされる。黄河周辺から撤退する秦軍を追撃する連合軍の背後を脅かすが、丹の三侠らと交戦し最後は9代目盗跖(玄修)の報仇の刃に討ち取られる。 白起(はく き) 桁違いの武技と、苛烈かつ神速の用兵で戦場を支配する秦の猛将。将軍となる前の経験から敵の降伏を許さず連戦連勝を続け、その名を大陸中に鳴り響かせ、楚の攻略では王の墓陵を焼く、長平では王命に逆らい降伏した趙軍40万を阬殺、自らの信じる覇業のためには手段を選ばず悪名も意に介さない。長平の戦いの際の王命を無視した暴走を恐れた昭王と范雎により召喚、蟄居を命じられのちに昭王より自裁を命じられる。 王齕(おう こつ) 秦の老将軍。老いても血気盛んで、単騎で敵城の守備軍を蹂躙するなど無敵の武を振るうが昼間は動きが鈍くなる、両脇の守りが甘いという弱点がある。虫の幼虫などをよく食べる。その外見からは野蛮な印象さえ与えるが、実は白起の心情をよく理解する人物でもある。廉頗との一騎打ちで燃え尽き、その名と軍を甥の王齮に譲り息絶えた。 王齮(おう き) 王齕の甥。若年ながら武においても将器においても優れており、王齕の死に際にその軍と名を譲ってもらう。制圧地の晋陽で叛乱に遭い、2年後に死亡した。 張唐(ちょう とう) 衛尉、長平の戦いの時董摎とともに各3万を率いて向かう。後の嬴政の即位の儀において、呂不韋に蒙驁に代わりとして軍総帥に推されるが嬴政に却下される。 王陵(おう りょう) 長平攻略軍、のちに白起の後任として邯鄲攻略軍を率いる将軍。攻城戦が得意。 鄭安平(てい あんぺい) 長平攻略軍、のちに白起の後任として邯鄲攻略軍に加わる将軍の一人。 曹賁(そう ほん) 長平攻略軍に加わる将軍の一人。五大夫。 董摎(とう きゅう) 白起の後任の一人として邯鄲攻略軍に加わる将軍の一人。他の将軍と比べて洞察力に優れる。劣勢となった邯鄲包囲戦の中断を決断する。白起亡き後は秦軍を代表する将となっていたが、三川郡から撤退中に丹の三侠と交戦し最後は蔡要の刃にかかって打ち取られる。 司馬梗(しば こう) 長平攻略軍、のちに白起の後任として邯鄲攻略軍に加わる将軍の一人。 司馬靳(しば きん) 長平攻略軍の指揮官の一人。范雎の命で白起の抑え役となるよう密命を受けていた。流刑中の白起の傍らにあり、その半生の聞き手となり、白起自裁の折には殉死した。 蒙驁(もう ごう) 秦の衛尉(宮中警備長官)→秦軍総帥。斉から流れてきて、伝もないまま出世し高官となっていたが、宰相となった呂不韋にさらに抜擢され秦の全軍を任される。丸腰で黥骨を一蹴し項燕を圧倒するほどの拳法の達人。 蒙武(もう ぶ) 蒙驁の息子。父と共に韓と西周君の合従軍制圧に従事。後、父の命で董摎の下で三川郡攻略軍を率いる。 麃公(ひょうこう) 函谷関の警護部隊隊長。好色な人物であり、面倒な部下達の操縦は副官の王翦に任せていたが、かなりの実力を秘めており、それを嬴政に見いだされ将軍に抜擢される。 王翦(おう せん) 函谷関警備部隊副官。麃公が将軍となってからも、引き続き配下として軍をまとめている。 桓齮(かん き) 麃公と王翦配下率いる函谷関守備隊の指揮官の一人。その戦い方は大物狙いの博打打ちと麃公に評される。麃公が将軍となってからも、引き続き配下となっている。 楊端和(よう たんわ) 麃公と王翦配下率いる函谷関守備隊の指揮官の一人。その戦い方は農夫の様に黙々と敵を狩ると麃公に評される。麃公が将軍となってからも、引き続き配下となっている。 黄壁(こう へき) 史上最後の合従軍において廉頗に対峙して窮地の王翦軍のもとに兵1万を率いて援軍に来る。 司馬錯(しば さく) かつての秦の将軍。司馬靳の祖父で白起が若手の将軍だったころに面識があり、かつて白起の生き様を司馬靳と同じ言葉で評した。 羋戎(び じゅう) 華陽君。孟嘗君が連合軍を率いて函谷関に攻めてきた際の秦軍総帥。連合軍に鄭奐率いる一軍をぶつけるも、鄭奐の敗死を受け即座に和睦を申し出る。この際に敗北の苦渋と理不尽を知った白起はその後、旧来の戦の慣例を無視した覇業の志を抱くに至る。 鄭奐(てい かん) かつての秦の将軍。少年兵だった白起を見出し、副官だった任鄙と彼に兵法や様々な戦を学習・経験させて育て上げた。函谷関にて孟嘗君率いる連合軍に半ば捨て駒の形でぶつけられ、任鄙と白起を残して突入するも命を失った。彼の死は白起の生き方に多大なる影響を与えることとなった。 任鄙(じん ぴ) 鄭奐の副官。少年兵だった白起を見出し、白起の才に惚れ込み上官だった鄭奐と共に彼を育て上げた。鄭奐亡き後は漢中の太守となり白起を一軍の将として魏冄に推挙した。 向寿(しょう じゅ) 秦のかつての将軍。秦が韓の新城を攻めた際の総大将。一軍の将としては初陣だった白起が諸国間の戦の慣例を破ったことを昭王の前で弁護したが、白起の説く覇業を容れた昭王と魏冄により将軍職を解かれてしまう。 范束(はん そく) 王齕の参謀。王齕の持ち味を十分に引き出す戦略家だったが、長平の戦いにて盗猿に殺害される。 黥骨の部下 常に黥骨に付き随う人物。性別名前共に不明。彼(彼女)が亡くなった際、黥骨は遺骸の顔の肉を喰らい半身が朽ちてもなお手元に置き、葬いと称して一城を滅ぼす程の異常な妄執を見せた。 名も無き弓兵 長平の戦いの終盤、趙括に関して白起とある賭けをする。黒子と出っ歯が特徴的。 獄卒 呂不韋の屋敷で捕らえられた丹の三侠を牢に入れ、荘丹に拷問を加えようとした7人の獄卒(2名は拷問担当)。名前は不詳。リーダー格の獄卒は始終、荘丹の言葉に翻弄された。
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