秦国外戚集団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 14:07 UTC 版)
嬴政即位時の外戚勢力は「楚系」「韓系」「趙系」の三つに分けられると、歴史学者の李開元は著書で挙げている :60-63。主な外戚勢力と構成は以下の通り 楚系 華陽太后、昌平君、昌文君 韓系 夏太后、成蟜 趙系 趙姫、呂不韋、嫪毐 秦国の王廷三派勢力に関連する事件は以下の通り 秦王政5年(紀元前242年)、成蟜が韓に赴き百里の土地の割譲を受け、その功により長安君に封じられる :65-66。 秦王政7年(紀元前240年)、夏太后薨去。これにより韓系外戚集団の力は弱まり朝廷勢力図に変化が起きる:65-69。 秦王政8年(紀元前239年)、王弟成蟜が叛乱。嫪毐がこの叛乱鎮圧の功により長信侯に封じられ封地を賜る:76-80、87。趙系勢力の力が一時圧倒的に強まり、楚系勢力はこれを危惧する事に。 秦王政9年(紀元前238年)、嫪毐が秦都咸陽にて秦王嬴政に対する叛乱を起こす。:86-89嫪毐の乱は最終的に呂不韋・昌平君・昌文君の指揮する兵によって鎮圧され趙姫はこの事件の後雍にしばらくの間、幽閉される。:332 秦王政10年(紀元前237年)、呂不韋が嫪毐叛乱に連座し、宰相の地位から罷免される。これにより趙系勢力の力が著しく衰退し、楚系勢力の力は絶頂期を迎える :94。 史書に記載はないものの、これまでの慣例から秦王嬴政の婚姻には華陽太后が大きく影響力を持っていたと考えられ、嬴政の長子扶蘇の母親となった女性は華陽太后や昌平君・昌文君らが自らの祖国である、楚の公族から選んだ者であったのではないかと日本の考古学者で愛媛大学名誉教授の藤田勝久は主張している。
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