民俗学と宗教論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 05:43 UTC 版)
「聖書における近親相姦」も参照 南方熊楠は、仏教において親族姦は戒めの対象になったが、そもそもこういったことが問題になったのは釈迦が活躍した時代は親族姦が多かったからではないかと論じている。釈迦の祖先も兄妹婚を行った。『陀羅尼雑集』には、釈迦が前世において母親と交わり父親を殺害した罪を除くために用いたとする陀羅尼が載せられている。瀬戸内寂聴は母親が夫と関係を持ったという蓮華色比丘尼の話について、こういった女性を教団に抱え込んだ釈迦が徹底して淫欲を戒めたのは正しいと自らの見解を語っている。やがて仏教は方向性をめぐり上座部と大衆部に分裂することになるが、射精のごとき生理的反応は煩悩ではないと主張しこの分裂の原因を作ったとされる大天は、近親相姦関係にあった母親を殺害した過去を持つ男性だったと伝えられている。チベットの密教の一つのタントラ教は母と妹と娘を愛欲することで、広大なる悟りを得られると主張する。姉妹を妻にした三蔵法師もおり、『宝物集』では、実母と通じた明達律師や、娘を妻にした順源法師が共に往生の素懐を遂げた人物といわれる。南方熊楠は、仏典に親族姦の話がよく見受けられることに注目し、明達律師が母親と交わったとか順源法師が娘を娶ったといった類の日本の話は、仏典を参考に創作されたものである可能性を指摘している。 なお『古事記』には「上通下通婚(おやこたわけ)」という用語が見られ、これが国つ罪の親子相姦禁止規定につながったという見方もある。「上通下通婚」という言葉について、本居宣長は『古事記伝 三十之巻』で、実の親子を対象としたものなら「祖子婚」という用語になるはずであり、そうならないのは「上通下通婚」は性的関係を持った女性の母や娘も含む概念だからだと論ずる。橋本治は「親子丼」と通称される代物まで含むのは、この話がタブーではなくモラルに関する規定だからではないかと論じている。また、日本が形作られた天地開闢ではイザナギとイザナミは兄妹であり、近親相姦というタブーを犯した結果にヒルコが生まれたとする説がある。タブーの末にこうした不具の子が生まれたり罰を受けたりする事象は神話ではよく見られ、ノアの方舟のような洪水の話は、兄妹だけが生き残ってしまったが故に近親相姦はやむを得なかったとしてタブーを乗り越えるための説話であるとされる。 中国語では倫理を乱す行いのことを「乱倫 (luàn lún)」というが、この用語は近親相姦の意味で使われることがある。武則天が偏見の目で見られる一因は、ある男とその子供の両方と性的関係を持つことは儒教の考えでは禽獣同然とされていたためである。玄宗は息子の寿王の嫁だった楊貴妃を寵愛したが、彼女を後宮に入れるにあたり、非難を免れるため一旦道教の寺院である道観に入れるという措置が採られた。ラテン語で近親相姦を意味するincestumは「不敬な」などという意味であり、ドイツ語で近親相姦の意味で用いられるBlutschandeは「血の冒涜」のことを表現している。 近親相姦の禁止について宗教上の聖典に明記されている場合もあり、旧約聖書の『レビ記』18章6 - 18節においては姻族も含めた近親相姦の禁止について言及されている。橋爪大三郎は、『申命記』23章1節に父親の妻に関する規定があることに触れた上で、父親のセクシュアルティを侵害してはならないというのは、父親を敬えということと一緒になった規定のようだと論じている。旧約聖書創世記19章のロトが娘二人と近親相姦をして子をなしたという話はある。ただし、ロトが娘二人と近親相姦をしたという話について、佐藤優はこの話は異常だからこそ話として残された側面があり、近親相姦がタブーではなかったとはいえないのではないかと論じている。また、中村うさぎは、子供を儲けることに焦点を当てているため、ロトの話では近親相姦よりも同性愛のほうが罪深いように書かれているが、我々の感性からすると近親相姦のほうが同性愛より問題に感じると語っている。だが、逆に近親相姦によって偉大な力を得られるという考えもあり、アフリカのマラウィにおいては、母や姉妹との交わりは戦いにおける弾よけになるという信仰もあった。ゾロアスター教においては父と娘、母と息子、兄弟姉妹の結婚は最高の善行であったが、これはフヴァエトヴァダタと呼ばれる。現代でも、経済的な都合上から文化的に許容されている場合もあり、シエラマドレ山脈に住むインディアンの父親と娘は、経済的な理由から近親相姦を行うことがよくあるという。 イスラム教の伝承では、人類最初の夫婦アーダムとハウワーは最初にカービールとカービールの双子の妹を生み、その次にハービールとハービールの双子の妹を生んだ。預言者アーダムは子供たちが成熟すると、カービールはハービールの双子の妹と結婚し、ハービールはカービールの双子の妹と結婚するように指示した。ハービールはその指示に同意したが、カービールは自身の双子の妹と結婚することを望んだ。 南方熊楠はヨーロッパでは肛門性交がかつては伝統的に行われており、ロレーヌ王であるロタール2世は自らの妻であるテウトベルガがフクベルトと妹と兄という関係でありながら肛門性交を行ったと前代未聞の主張をする一幕もあったと論じている。『大乗造像功徳経』によれば、女装をすることや親族関係にある女性を犯すなど四つの縁によって、身体上の性と性欲上の性に不一致が生じ、男に犯されて悦ぶ男に転生するとされる。『池北偶談』には済寧の話として姑が嫁に性的欲望を覚え関係を持つに至った話があるが、この話について南方熊楠は男性器の付いた女性もいるのだがこの話は精神だけ男性化した話のようだと述べている。 未来において近親相姦が広く許容される時代が来るという宗教もある。ユダヤ教シャブタイ派の預言者アブラハム・ナタン(ガザのナタン)によると、シャブタイ・ツヴィが棄教したこの世界をモーセ律法に対してクルアーンが支配する世界だとしたが、それは間もなく来るメシアの時代の前駆的な形態にすぎず、メシアの時代のもとでは既存の規範が有効性を失う。その時、近親相姦を含む全ての性の禁忌が取り去られ、自由な世界において生命の樹の神秘に与ることができるという。 ヒンドゥー教のシャクティ派やモルモン教も兄弟姉妹婚を行っていた。インドのヒンドゥー・サクタセクトの間では近親者間の性交は高次の性関係であって、宗教的完成への一つのステップだった。 カール・グスタフ・ユングは近親相姦は高度に宗教的な側面を有しており、そのために近親相姦はほとんど全ての宇宙進化論や神話の中で決定的な役割を演じていると述べ、フロイトは字義通りの解釈に執着したため、近親相姦の霊的な意義を把握することができなかったと指摘している。 朝鮮の新羅の王族において近親婚が繰り返された理由は、骨品制という身分制度において天降種族たる王族の血の純潔性を尊んだことが一因ではあるが、血が混ざると呪力が落ちてしまうという信仰の影響もあるのではという見方も存在する。 日本では男女の双子は心中者の生まれ変わりと考える文化があり、夫婦にしてやらなければならないと考えた。そのため、片方を養子に出して成人してから他人として結婚させるということが行われた。この場合は双子であっても近親相姦とは考えない傾向があった[要出典]。 バリ島やサモアでは、男女の双子は母親の胎内で近親相姦をしていると考えられている。バリ島では、この双子が母の胎内にいる時から既に親密であったとして、兄弟姉妹間での性交が許されていた。また、サモアの貴族階級では姉と弟が結婚するという事例が見られる。 13世紀の後半から15世紀の初頭にドイツを中心として興ったキリスト教の一派自由心霊派は、自由心霊を得た人間と神との同一性を説き、母親や姉妹と性交をすることができるとした。他人よりも姉妹と関係することが自然であり、姉妹はこの交接によってかえって貞節を増すものであると考えた。輪廻転生を信じるカタリ派においても、信仰者の中には男女を問わず自分の夫や妻よりも、兄弟や姉妹、息子や娘、甥や姪を相手に関係を持つものが多いという。一人一人がキリストであり聖霊であると説くアモリ派や、古代キリスト教の一小分派アダム派においても近親相姦が認められている。 オナイダ・コミュニティを建設した19世紀の宗教家のジョン・ハンフリー・ノイズは、有性生殖の第一原則である近親者同士の交接を行うとして、弟の娘との間に子供を作った他、妹の娘との間にも子供を作った。彼が引用した品種改良家の親等計算方法によると、兄弟姉妹は両親から50%ずつ血を受け継いでいるので、その血は100%同じであり、兄妹や姉弟間で生まれた子供は父娘や母息子間で生まれた子供よりも近いという。この計算方法に従えば、伯父姪や伯母甥の場合も父娘・母息子の交接と同じことになる。 スコラ哲学者・神学者のトマス・アクィナスは、キリスト教において近親婚がタブーである理由について、人は自然本性的に同じ血縁の者を愛するのであるから、これに性的な愛情が加われば欲望があまりにも激しくなり、貞潔に反するためであるからだと述べている。鷲田小彌太はトマス・アクィナスと同様の主張をしており、姉と弟は人体骨格も似ており、気心も知れているため、性交の相手としてはぴったりだが、性交の相手として良すぎるために近親相姦がタブーとされるとしている。
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