民俗学の道へ
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小学校を退職後、上京し東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学。三郎は清子が入学する一年前に東洋大に入学しているのでその影響があったと思われる。1924、25年(大正13、14年)に国語科免許状、漢文科免許状を取得、卒業。その年から私立川村学院教諭として勤めるが、翌1926年(大正15年)、第一東京市立中学校(現・東京都立九段高等学校)に職場を移した。以後、1944年(昭和19年)までここで働くことになる。 瀬川が民俗学の道へと入っていく契機となったのは、1931年(昭和6年)、夏季休暇中に三郎と共に40日間旅行した小笠原諸島の紀行文を一中の校友雑誌に掲載したことによる。小笠原の旅行から帰京した瀬川は、郷土会のメンバーだった地理学者小田内道敏の東京府多摩郡恩方村(現・八王子市恩方町)の調査に参加するなど、積極的な実地調査を行うようになるが、1933年(昭和8年)夏季休暇中に三郎がギリシャへ旅立った際、一人で行った能登半島舳倉島の海女の調査と、その見聞記である「舳倉の海女」を柳田國男と比嘉春潮が編集する『嶋』に投稿したことは、瀬川のその後の運命を決定づけることになった。柳田はこれを高く評価し、自宅で開催していた研究会、木曜会に瀬川を召喚。当時計画されていた全国山村調査、海村調査に瀬川を参加させることにする。
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民俗学の道へ
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1931年(昭和6年)、中学を卒業し、慶應義塾大学に入学。予科3年の時、初めて採集した昔話が関敬吾の編集する『昔話研究』第二巻に 「祖谷 美馬郡昔話」として掲載され、関の紹介で柳田を自宅に訪ねる。以後、柳田の指導の下、全国の山村漁村を瀬川清子らと調査し「福島県 双葉郡昔話」、「難題聟の昔話」等を『昔話研究』に発表。大学本科では、加藤守雄、関正道、池田弥三郎らと国文学を折口信夫より学ぶ。 1937年3月(昭和12年)、慶應義塾大学国文科を卒業し、4月、大学院文学研究科に進む。大学卒業論文は「福富草紙考」。 1937年5月(昭和12年)、渋沢敬三の「アチック・ミューゼアム」が主催する水上大学に参加し、「瀬戸内海島嶼巡訪日記」を宮本常一、桜田勝徳らと共同執筆した。
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