民俗学の道へとは? わかりやすく解説

民俗学の道へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 10:12 UTC 版)

瀬川清子」の記事における「民俗学の道へ」の解説

小学校退職後、上京し東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学三郎清子入学する一年前東洋大入学しているのでその影響があったと思われる192425年大正1314年)に国語科免許状漢文免許状取得卒業。その年から私立川村学院教諭として勤めるが、翌1926年大正15年)、第一東京市立中学校現・東京都九段高等学校)に職場移した以後1944年昭和19年)までここで働くことになる。 瀬川が民俗学の道へと入っていく契機となったのは、1931年昭和6年)、夏季休暇中に三郎と共に40日間旅行した小笠原諸島紀行文一中校友雑誌掲載したことによる小笠原旅行から帰京した瀬川は、郷土会メンバーだった地理学者小田内道敏の東京府多摩郡恩方村(現・八王子市恩方町)の調査参加するなど、積極的な実地調査を行うようになるが、1933年昭和8年夏季休暇中に三郎ギリシャ旅立った際、一人行った能登半島舳倉島海女調査と、その見聞記である「舳倉の海女」を柳田國男比嘉春潮編集する『嶋』に投稿したことは、瀬川その後運命決定づけることになった柳田はこれを高く評価し自宅開催していた研究会木曜会瀬川召喚当時計画されていた全国山村調査海村調査瀬川参加させることにする。

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民俗学の道へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/09 06:34 UTC 版)

武田明」の記事における「民俗学の道へ」の解説

1931年昭和6年)、中学卒業し慶應義塾大学入学予科3年の時、初め採集した昔話関敬吾編集する昔話研究第二巻に 「祖谷 美馬郡昔話」として掲載され、関の紹介柳田自宅訪ねる以後柳田指導の下、全国山村漁村瀬川清子らと調査し福島県 双葉郡昔話」、「難題聟の昔話」等を『昔話研究』に発表大学本科では、加藤守雄関正道池田弥三郎らと国文学折口信夫より学ぶ。 1937年3月昭和12年)、慶應義塾大学国文科卒業し4月大学院文学研究科に進む。大学卒業論文は「福富草紙考」。 1937年5月昭和12年)、渋沢敬三の「アチック・ミューゼアム」が主催する水上大学参加し、「瀬戸内海島嶼訪日記」を宮本常一桜田勝徳らと共同執筆した。

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