柳本監督時代
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「バレーボール日本女子代表」の記事における「柳本監督時代」の解説
2003年に柳本晶一が監督に就任、同年のワールドカップではキャプテンとして全日本に復帰した吉原知子、佐々木みき、竹下佳江といったベテランと、大山加奈や栗原恵などの若手選手が融合したチームを作り上げて5位となった。2004年5月のアテネオリンピック世界最終予選では最終戦でロシアに敗れたものの、6勝1敗の1位で2大会ぶりとなるオリンピック出場権を獲得。同年8月の本大会では準々決勝で中国に敗れベスト8となった。 オリンピック出場とその後のワールドグランプリ、世界選手権での躍進によってチームは一時期の低迷を脱し、2007年の第14回アジア選手権では木村沙織や荒木絵里香など若手の活躍によって24年ぶりに金メダルを獲得。同年のワールドカップでは7位に終わりオリンピック出場権は翌年の世界最終予選へと持ち越されたが、2008年5月に行われた北京オリンピック世界最終予選ではFIVBが大会期間中に出場規定の変更を通知するというトラブルが発生したものの6勝1敗の3位で出場権を獲得。同年8月の本大会では準々決勝でブラジルに敗れアテネと同じく5位に終わった。 「日本女子バレーボールは過去の栄光」。オリンピックを逃し、その後の低迷状態に対して、世間の一般人はそうみていた。「試合前にジャニーズが歌って踊って、試合は負けるスポーツでしょ?」というくらいの意識だった。 柳本の就任時も、全く期待はされていなかったといっていい。原因は監督や選手がどうこうではなく、プロ化の時に大揉めした際に協会が負った傷が、未だに癒えておらず、代表をバックアップできる体制がないのは明白だったからだ。 だが、日本女子に現れる指導者には、強心臓の人物が多い。柳本は生粋の勝負師だった。「勝負事はトップを目指すのが当たり前です。ちまちました目の前の小さい勝利に囚われたら、もうそこで終わりです」と断言する。 柳本が選出した全日本候補には、竹下佳江・高橋みゆき・杉山祥子といったシドニー組、高卒してすぐの大山加奈・栗原恵といったメンバーと共に、「吉原知子」の名があった。 吉原は、かつてシドニー五輪代表選出時にて、年齢制限によって外された事に大きな違和感を覚えていた。明らかに、過去のプロ化経緯での嫌がらせによる吉原外しであり、世のバレーボールファンの「おかしい」という声を協会は黙殺した。 柳本は「吉原をキャプテンに戦う事が絶対必要です」と、吉原起用を非難する協会を説得して押し通した。 吉原は「今頃、何の御用ですか?と思いましたけど、次のアテネを逃したら、女子バレーが本当に終わると思ったんです。私の個人的感情を考えている場合じゃないと思ったので、要請を受けました」と述懐する。 そして、竹下佳江の選出にも、同じく協会から非難の声があがったが、これも柳本は「竹下より上手いセッターがどこにおるんですか?」と押し通した。 竹下自身、悩み抜いての現役復帰ではあったし、前回のバッシングの経験から「代表でのプレーはもうない」と思っていたが、「やれると思うし、挑みたい」という強い気持ちで代表復帰を決めた。 高橋みゆきは、シドニー五輪後、前年度の世界選手権にて、主将に任命されてプレーしていた。高橋は、その時の成績低迷の責任を一方的に負わされ「代表に使っては駄目な選手」という烙印を押されていた。 柳本は「高橋の明るい性格がチームに必要ですし、高橋の高い能力も明らかです」と押し通した。 要は、柳本は「協会から絶対に使うな、と釘を刺された選手3名」を中心に置いた。この3人に加えて、まだ粗さはあるものの、大山加奈・栗原恵の日本人離れしたパワーが加われば、世界で勝てると踏んだ。 果たして、柳本の読みはあたった。まず吉原は、勝利意識を全員に認識させる。吉原は代表合流時のチームへの印象を「私の知る代表の姿ではなかった。負け犬根性が見え隠れしていた」と述べる。 吉原は、当時から「日本一のセンター」と評される実力があったが、朝6時から自主練を行い、夕食後も自主練を行うのが日課だった。雑に言うなら、日本一バレーボールの上手な人間が、代表での練習量も一番多いという事になる。 この様子に驚いた選手達が、吉原に続いた。吉原や竹下は、朝4時から練習場にいる事もあった。吉原は、選手全員の練習姿勢を変え、チームに勝利意識を植え付けた。実力と行動でチームを引っ張る吉原を中心に、チームは結束していく。 そして、当時まだ高校2年生の17歳だった木村沙織が、この時代の全日本に現れた。レジェンド達から「バレーボールの申し子のような存在」とまで評価される木村は、練習合流初日から、非凡な能力を見せた。眉毛も細かった。 竹下佳江をして「サオリは、教えた事の吸収力、こうしてほしいという対応能力がハンパない。才能って凄いと思った」とまで言わせる彼女は、全日本で煌く才能達の中でも、とびきわ強く輝く光だった。 一方で、その木村は、吉原と竹下がいるこのチームの中で「オリンピックとワールドカップって、何が違うんですか?」と真顔で尋ねる天真爛漫さがあった。周囲は、木村のド天然発言の連続に、笑いが止まらなかった。 吉原は、情熱の炎を産む為に、自分の魂を薪としてくべて燃やし、周囲を焼き尽くすような所があるが、木村も、眩しい才能の光をキラキラと発しながらも「できる為に練習をする。それって努力じゃないですよね」と捉える選手だった。 この時、大友愛も代表に選ばれ、全日本に現れていたが、当時は、大山・栗原の若手コンビの控えとして回され、ビデオを撮るデータ係を担当していた。大友は「これなら、NECで練習をした方がいいと思った」と、自ら代表を辞退する。 柳本との初面談時にも、(上からモノをいう、なんか嫌な人だな)と柳本に嫌悪感を感じた大友は「私、監督とはうまくやれませんけど、日本の為に頑張ります」と本人にハッキリ言うような人物だ。 柳本は、大友のハッキリとした物言いと態度、気性の強さに好感を持った。かつて柳本は、所属チームにて、試合中に指示を出していた際に、コート内の吉原から、「うるっさい!」と一喝された経験がある。 しかし、柳本は「勝ちたいがゆえです。そういう子がチームを勝たせるんですわ」と笑って、吉原を許すような人物だ。その後、大友が身内の不幸から代表復帰を決意し、アテネ五輪最終予選直前に、柳本に頭を下げて代表復帰を求めた時、 柳本は大友の復帰を快く許している。大友は、吉原に許されるまでに時間が少しかかったが、大友の本気度を認めた吉原は、身勝手でチームを離れた大友を許し、以降、両者は非常に仲の良い間柄となった。 「昔、日本が強かったスポーツ」の代表的アイコンになっていたバレーボールが、柳本の剛腕によって、人気スポーツの地位に返り咲こうとしていた。選手の才能と頑張りがあっての事だが、この結果を産んだ柳本の功績は計り知れない。 彼女達は、実業団所属であり、立場はあくまでアマチュアであって、プロではない。金銭的収入でいえば、実業団所属である以上、年収は200万円~500万円が相場だ。世間からはプロ選手と見られるが、実際はセミプロという立場に近い。 しかし柳本は、彼女達にバレーボール選手としてのプロ意識を植え付け、激しい選手間競争をあえて促しつつも、集団として団結し、世界の中で、勝利を目指して戦えるチームを作った。 柳本は「抜擢した人材、特に大山は意図的に多く叱りました。どこかでバランスを取らないといけないから」集団指導の難しさを語った。当時、まだ若かった大山には気の毒な話ではあるが、この手の微妙な指導感覚が必要なのだろう。 いつの時代もそうだが、この時代の代表競争は特に激しかった。柳本は初回の代表招集時は32名を選出し、容赦なく絞っていった。後に日本を引っ張る荒木絵里香ですら、アテネ最終予選直前に落選の憂き目を見るレベルの高さであった。 競争と指導によって、チームは強くなり、テレビ中継視聴率は20%越えを連発した。いつもなら、耐えきれず負けているはずの場面でも、彼女達は負けなかった。特に、韓国とキューバに勝った事は、女子バレーへの注目度を大きく引き上げた。 「ワールドカップでは上位3チームが五輪出場」というルールの中、日本は5位に終わるが、前回大会で逃した五輪切符を手にする事が、大いに期待できる内容となった。しかし、柳本は、なおも勝利への道を探って、チームの変化を行った。 アテネ五輪大会最終予選の初戦は、2002年世界選手権覇者、イタリアだった。イタリアに勝つ為、そして最終予選を突破する為に、選手編成が行われた。まずは、上記理由で、チームを離れていた大友愛が合流している。 そして「シドニーの十字架」を背負った成田郁久美(旧称:大懸)が代表に復帰した。成田は、シドニーで燃え尽き症候群に陥った後、引退していたが、久光にて現役復帰し、テレビでみる全日本女子の姿に、自身の代表への情熱が再燃していた。 かつて、FIVBベスト6プレイヤー、アジアベストプレイヤーに選ばれている日本の実力者成田は、代表復帰後「ポジションを教えてもらえない」ままの苦しい日々を乗り越え、持ち前のサーブ・レシーブ力を活かしたリベロでプレーし、日本の最終予選突破に大貢献する事になる。日本は、最終予選を順当に勝ち進み、韓国戦にて勝利し、アテネ五輪出場権を獲得した。 この時、テレビの瞬間視聴率は48%を越えた。日本社会はバレーボールに対して「五輪出場は当たり前の事」から「五輪出場は悲願」という見方に変わっており、国民の期待に応えた彼女達は、一躍スター軍団となった。 アテネでメダルを期待された日本女子だったが、五輪独特の重圧の空気に飲まれてしまい、初戦から、普段の彼女達からは考えられないイージーミスを連発してしまう。「オリンピックから少しでも遠ざかってしまう事で産まれる副作用」であると吉原は語り、子供の頃から、国内での大きな大会に出場し、緊張に慣れたはずの彼女達ですら耐えられない五輪本大会の特殊な空気に、彼女達は飲み込まれてしまった。 しかし、主将吉原が、厳しい檄を飛ばす事で、チームを落ち着かせ、全日本女子は、予選リーグを突破した。そして、全日本女子は、準々決勝にて中国と激突。各選手の奮起があったものの、アテネ大会での中国は、あまりに強く、0-3でのストレート負けを喫し、日本女子は敗北し、無冠で大会から去る結果となった。 オリンピックでメダルを取る為には、まずはベスト4に入らなければいけない理屈なのだが、これには、あまりに難しい道のりを辿る事になる。バレーボールのオリンピック出場枠は12か国で、地球上で12か国しか出られない競技だ。それぞれ6か国ずつに分けたA組・B組において予選リーグを行い、それぞれの組で下位2国をカットし、合計上位8か国でメダルを争う方式をとる。 そうなると、特に準々決勝が課題となる。「A組1位対B組4位」「B組1位対A組4位」の組み合わせになる為に、もし予選リーグを4位で突破してしまうと、自然と他組1位と当たる。その試合で負ければ、すぐにメダル圏外となる。 アテネ大会の金メダルは、最終的に中国が獲ったのだが、日本は、この大会にて予選リーグを4位で突破した為に、アテネ五輪で世界最強に君臨した中国と、準々決勝にて、当たる事になってしまった。当時の世界のトップグループは、中国・米国・イタリア・ブラジル・キューバ・ロシアなどの国で争われ、当時の日本女子は、まだセカンドグループに位置していた。現実的にトップグループの壁は高く、五輪の予選リーグにて、日本が3位に食い込むのは至難の業であった。 中国との敗戦後、大友は「また来ましょう」と吉原に声をかけた。主将吉原は、この時34歳。大友の暖かい声に涙を浮かべたが、すでに代表引退を決意していた。2006年に膝の怪我の影響もあり、吉原は36歳で現役を引退。 もし、この時代に吉原がいなければ、さらに、その吉原の檄に応える能力のある選手達がいなければ、おそらくはこの時代以降、日本における女子バレーボールの地位は、「体育で少しやった事があるスポーツ」程度のものになっていただろう。 柳本から、直々に次世代エースとして将来の日本を担う役割を期待されたのは「大山加奈・栗原恵」だった。しかし、大山はアテネ以降、腰痛が悪化して長期離脱。栗原も故障が重なり、代表から離脱する機会が多くなってしまう。 2005年ワールドグランプリにおいて、大山と栗原のいない全日本女子を引っ張ったのは、大友愛だった。だが大友は、当時のマスコミ攻勢に強い嫌悪感を抱き、自身の写真集やDVDを出版する流れが断ち切れない周囲環境にうんざりしていた。 2006年、大友は、自身の妊娠に驚くものの「この命を守らなければ」と24歳全盛時にて、現役引退。全日本女子は、容赦なく再編を迫られていく事態になる。 だが、日本には隠れていない才能があふれ、世に出たがっていたし、柳本は、なおも宝石を掘り続ける努力を惜しまなかった。 そして、全日本女子代表に、荒木絵里香が現れた。アテネ五輪では落選の憂き目をみた彼女だったが、「同期が全日本に呼ばれて活躍をしている。私もその場に行く」と落選の悔しさをバネに、日本リーグMVPの実績を引っさげて、代表入りした。大友に代わって、センターを任された荒木は、見事に期待に応えた。そして、2007年アジア選手権では、全日本女子は24年ぶりに優勝を果たす。北京五輪に向かっていく準備が整いつつあったが、またも怪我による離脱が続き、メンバーが固定しない苦しい時期が続くも、乗り越えていく。 2008年北京五輪予選代表メンバーの選出がなされた。竹下を引き続き主将に据え、栗原、高橋、木村、荒木といった常連組に、シドニー組の杉山祥子と、ベテラン多治見麻子を加え、アテネ組の大村加奈子、リベロには佐野優子、櫻井由香が選ばれた。「映像をみて、なお、数字を中心に選びました」と柳本は選考理由を説明した。柳本は前回アテネ五輪の敗北理由を「初選出の選手が多すぎた」とコメントしており、五輪の難易度を身をもって知った経緯から、経験者を選出した傾向がみられる。なお、経験者だけではなく、当時30歳を越えた狩野深雪が、主要大会では初選出メンバーとして選ばれている。幾多の綺羅星から選び抜かれた選手達は、北京五輪最終予選では、五戦全勝で予選突破を決めた。当然、メダルへの期待は大きくなっていった。 2008年北京五輪本大会では、準々決勝にて、ブラジルと対戦し、全日本女子は敗北した。準々決勝を抜けられない難しさの仕組みは、先ほど上記したように「日本の予選リーグ突破順位=4位」にある。 日本は、予選リーグにて、キューバ・アメリカ・中国と同リーグになり、4位で通過した。3位で通過した所で次も強敵しかいないのだが、日本が準々決勝で対戦したブラジルは、この2008年北京大会で、金メダルを獲った最強の存在だった。 「日本がメダルを獲る為には、あと何が必要なのか」という問いは、バレーボール関係者にとって、果てしない難問であった。いわば「数学上の未解決問題」に匹敵する難問であったろう。 ミレニアム懸賞問題として有名だったポアンカレ予想は、2006年にグリゴリー・ペレルマンによって証明されたが、この日本女子バレーボール問題は、2012年、眞鍋政義率いる女子バレーボールチームによって証明された。 2012年のロンドンでの成功物語は、大小様々な出来事の積み重ねに翻弄されても、決して諦めずに立ち向かった、監督・選手・スタッフ・バレーボール関係者達全ての想いが組み合わさった事で産まれた奇跡の物語であろう。
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