柳本監督時代とは? わかりやすく解説

柳本監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:12 UTC 版)

バレーボール日本女子代表」の記事における「柳本監督時代」の解説

2003年柳本晶一監督就任同年ワールドカップではキャプテンとして全日本復帰した吉原知子佐々木みき竹下佳江といったベテランと、大山加奈栗原恵などの若手選手融合したチーム作り上げて5位となった2004年5月アテネオリンピック世界最終予選では最終戦ロシア敗れたものの、6勝1敗の1位で2大会ぶりとなるオリンピック出場獲得同年8月の本大会で準々決勝中国敗れベスト8となったオリンピック出場その後ワールドグランプリ世界選手権での躍進によってチーム一時期低迷脱し2007年第14回アジア選手権では木村沙織荒木絵里香など若手活躍によって24年ぶりに金メダル獲得同年ワールドカップでは7位に終わりオリンピック出場翌年世界最終予選へと持ち越されたが、2008年5月行われた北京オリンピック世界最終予選ではFIVB大会期間中出場規定変更通知するというトラブル発生したものの6勝1敗の3位出場獲得同年8月の本大会で準々決勝ブラジル敗れアテネ同じく5位に終わった。 「日本女子バレーボール過去栄光」。オリンピック逃しその後低迷状態に対して世間一般人はそうみていた。「試合前にジャニーズ歌って踊って試合負けスポーツでしょ?」というくらいの意識だった。 柳本就任時も、全く期待はされていなかったといっていい。原因監督選手どうこうではなくプロ化時に揉めした際に協会負った傷が、未だに癒えておらず、代表をバックアップできる体制がないのは明白だったからだ。 だが、日本女子現れる指導者には、強心臓人物が多い。柳本生粋勝負師だった。「勝負事トップ目指すのが当たり前です。ちまちました目の前小さ勝利囚われたら、もうそこで終わりです」と断言する柳本選出した全日本候補には、竹下佳江高橋みゆき杉山祥子といったシドニー組、高卒してすぐの大山加奈栗原恵といったメンバーと共に、「吉原知子」の名があった。 吉原は、かつてシドニー五輪代表選出時にて、年齢制限によって外された事に大きな違和感覚えていた。明らかに過去プロ化経緯での嫌がらせによる吉原外しであり、世のバレーボールファンの「おかしい」という声を協会黙殺した。 柳本は「吉原キャプテンに戦う事が絶対必要です」と、吉原起用非難する協会説得して押し通した吉原は「今頃何の御用ですか?と思いましたけど、次のアテネ逃したら、女子バレー本当に終わると思ったんです。私の個人的感情考えている場合じゃない思ったので、要請受けました」と述懐する。 そして、竹下佳江選出にも、同じく協会から非難の声があがったが、これも柳本は「竹下より上手いセッターがどこにおるんですか?」と押し通した竹下自身悩み抜いて現役復帰ではあったし、前回バッシング経験から「代表でのプレーもうない」と思っていたが、「やれると思うし、挑みたい」という強い気持ちで代表復帰決めた高橋みゆきは、シドニー五輪後、前年度世界選手権にて、主将任命されプレーしていた。高橋は、その時成績低迷責任一方的に負わされ「代表に使っては駄目な選手」という烙印押されていた。 柳本は「高橋明る性格チームに必要ですし、高橋の高い能力も明らかです」と押し通した要は柳本は「協会から絶対に使うな、と釘を刺され選手3名」を中心に置いた。この3人に加えて、まだ粗さはあるものの、大山加奈栗原恵日本人離れしたパワー加われば世界で勝てると踏んだ果たして、柳本読みあたった。まず吉原は、勝利意識全員認識させる吉原は代表合流時のチームへの印象を「私の知る代表の姿ではなかった。負け犬根性見え隠れしていた」と述べる。 吉原は、当時から「日本一センター」と評される実力があったが、朝6時から自主練行い夕食後も自主練を行うのが日課だった。雑に言うなら、日本一バレーボールの上手な人間が、代表での練習量も一番多いという事になる。 この様子に驚いた選手達が、吉原続いた吉原竹下は、朝4時から練習場にいる事もあった。吉原は、選手全員練習姿勢変えチーム勝利意識植え付けた実力行動チーム引っ張る吉原中心にチーム結束していく。 そして、当時まだ高校2年生17歳だった木村沙織が、この時代全日本現れた。レジェンド達から「バレーボール申し子のような存在」とまで評価される木村は、練習合流初日から、非凡な能力見せた眉毛細かった竹下佳江をして「サオリは、教えた事の吸収力、こうしてほしいという対応能力がハンパない才能って凄いと思った」とまで言わせる彼女は、全日本煌く才能達の中でも、とびきわ強く輝く光だった。 一方で、その木村は、吉原竹下がいるこのチームの中で「オリンピックワールドカップって、何が違うんですか?」と真顔尋ね天真爛漫さがあった。周囲は、木村のド天然発言連続に、笑いが止まらなかった。 吉原は、情熱の炎を産む為に自分の魂をとしてくべて燃やし周囲焼き尽くすような所があるが、木村も、眩し才能の光をキラキラ発しながらも「できる為に練習をする。それって努力じゃないですよね」と捉える選手だった。 この時、大友愛も代表に選ばれ全日本現れていたが、当時は、大山栗原若手コンビ控えとして回されビデオを撮るデータ係を担当していた。大友は「これなら、NEC練習をした方がいいと思った」と、自ら代表を辞退する柳本との初面談時にも、(上からモノをいう、なんか嫌な人だな)と柳本嫌悪感感じた大友は「私、監督とはうまくやれませんけど、日本為に頑張ります」と本人ハッキリ言うような人物だ。 柳本は、大友ハッキリとした物言い態度気性強さ好感持った。かつて柳本は、所属チームにて、試合中指示出していた際に、コート内の吉原から、「うるっさい!」と一喝され経験がある。 しかし、柳本は「勝ちたいがゆえです。そういう子がチーム勝たせるんですわ」と笑って吉原を許すような人物だ。その後大友身内の不幸から代表復帰決意しアテネ五輪最終予選直前に、柳本頭を下げて代表復帰求めた時、 柳本大友復帰快く許している。大友は、吉原許されるまでに時間が少しかかったが、大友の本気度を認めた吉原は、身勝手チーム離れた大友許し以降両者は非常に仲の良い間柄となった。 「昔、日本強かったスポーツ」の代表的アイコンになっていたバレーボールが、柳本剛腕によって、人気スポーツ地位返り咲こうとしていた。選手才能頑張りがあっての事だが、この結果産んだ柳本功績計り知れない。 彼女達は、実業団所属であり、立場はあくまでアマチュアであってプロではない。金銭的収入でいえば、実業団所属である以上、年収200万円500万円相場だ。世間からはプロ選手と見られるが、実際セミプロという立場に近い。 しかし柳本は、彼女達バレーボール選手としてのプロ意識植え付け激し選手競争をあえて促しつつも、集団として団結し世界の中で、勝利を目指し戦えチーム作った柳本は「抜擢した人材、特に大山意図的に多く叱りました。どこかでバランス取らないといけないから」集団指導難しさ語った当時、まだ若かった大山には気の毒な話ではあるが、この手微妙な指導感覚必要なのだろう。 いつの時代もそうだが、この時代の代表競争は特に激しかった柳本初回の代表招集時は32名を選出し容赦なく絞っていった。後に日本引っ張る荒木絵里香ですら、アテネ最終予選直前落選憂き目を見るレベルの高さであった競争指導によって、チーム強くなり、テレビ中継視聴率20%越え連発した。いつもなら、耐えきれず負けているはずの場面でも、彼女達負けなかった。特に、韓国キューバ勝った事は、女子バレーへの注目度大きく引き上げた。 「ワールドカップでは上位チーム五輪出場」というルールの中、日本は5位に終わるが、前回大会で逃した五輪切符手にする事が、大い期待できる内容となった。しかし、柳本は、なおも勝利への道を探ってチーム変化行ったアテネ五輪大会最終予選初戦は、2002年世界選手権覇者イタリアだった。イタリアに勝つ為、そして最終予選突破する為に選手編が行われた。まずは、上記理由で、チーム離れていた大友愛合流している。 そして「シドニー十字架」を背負った成田郁久美旧称:大懸)が代表に復帰した成田は、シドニー燃え尽き症候群陥った後、引退していたが、久光にて現役復帰しテレビでみる全日本女子の姿に、自身の代表への情熱再燃していた。 かつて、FIVBベスト6プレイヤー、アジアベストプレイヤーに選ばれている日本実力者成田は、代表復帰後「ポジション教えてもらえない」ままの苦し日々乗り越え持ち前サーブ・レシーブ力を活かしたリベロプレーし日本最終予選突破に大貢献する事になる。日本は、最終予選順当に勝ち進み韓国戦にて勝利しアテネ五輪出場獲得した。 この時、テレビ瞬間視聴率は48%を越えた日本社会バレーボールに対して五輪出場は当たり前の事」から「五輪出場悲願」という見方変わっており、国民期待応えた女達は、一躍スター軍団となったアテネメダル期待され日本女子だったが、五輪独特の重圧空気飲まれてしまい、初戦から、普段の彼女達からは考えられないイージーミス連発してしまう。「オリンピックから少しでも遠ざかってしまう事で産まれる副作用」であると吉原語り子供の頃から、国内での大きな大会出場し緊張慣れたはずの彼女達ですら耐えられない五輪大会特殊な空気に、彼女達飲み込まれてしまった。 しかし、主将吉原が、厳し檄を飛ばす事で、チーム落ち着かせ、全日本女子は、予選リーグ突破した。そして、全日本女子は、準々決勝にて中国激突。各選手奮起があったものの、アテネ大会で中国は、あまりに強く0-3でのストレート負け喫し日本女子敗北し無冠大会から去る結果となったオリンピックメダルを取る為には、まずはベスト4に入らなければいけない理屈なのだが、これには、あまりに難し道のりを辿る事になる。バレーボールオリンピック出場12か国で、地球上で12か国しか出られない競技だ。それぞれ6か国ずつに分けたA組B組において予選リーグ行いそれぞれの組で下位2国をカットし合計上位8か国でメダルを争う方式をとる。 そうなると、特に準々決勝課題となる。「A組1位対B組4位」「B組1位対A組4位」の組み合わせになる為に、もし予選リーグを4位で突破してしまうと、自然と他組1位と当たる。その試合負ければ、すぐにメダル圏外となる。 アテネ大会金メダルは、最終的に中国獲ったのだが、日本は、この大会にて予選リーグを4位で突破した為にアテネ五輪世界最強君臨した中国と、準々決勝にて、当たる事になってしまった。当時世界のトップグループは、中国・米国・イタリア・ブラジル・キューバ・ロシアなどの国で争われ当時日本女子は、まだセカンドグループに位置していた。現実的にトップグループの壁は高く五輪予選リーグにて、日本3位食い込むのは至難の業であった中国との敗戦後大友は「また来ましょう」と吉原に声をかけた。主将吉原は、この時34歳大友暖かい声に涙を浮かべたが、すでに代表引退決意していた。2006年に膝の怪我影響もあり、吉原36歳現役引退。 もし、この時代吉原がいなければ、さらに、その吉原応える能力のある選手達がいなければおそらくはこの時代以降日本における女子バレーボール地位は、「体育で少しやった事があるスポーツ程度のものになっていただろう。 柳本から、直々に次世代エースとして将来日本を担う役割期待されたのは「大山加奈栗原恵」だった。しかし、大山アテネ以降腰痛悪化して長期離脱栗原故障重なり、代表から離脱する機会多くなってしまう。 2005年ワールドグランプリにおいて、大山栗原のいない全日本女子引っ張ったのは、大友愛だった。だが大友は、当時マスコミ攻勢に強い嫌悪感抱き自身写真集DVD出版する流れ断ち切れない周囲環境うんざりしていた。 2006年大友は、自身妊娠に驚くものの「この命を守らなければ」と24歳全盛時にて、現役引退全日本女子は、容赦なく再編迫られていく事態になる。 だが、日本には隠れていない才能があふれ、世に出たがっていたし柳本は、なおも宝石掘り続け努力惜しまなかった。 そして、全日本女子代表に、荒木絵里香現れた。アテネ五輪では落選憂き目をみた彼女だったが、「同期全日本呼ばれて活躍をしている。私もその場に行く」と落選悔しさバネに、日本リーグMVP実績引っさげて、代表入りした。大友に代わって、センター任され荒木は、見事に期待応えた。そして、2007年アジア選手権では、全日本女子24年ぶりに優勝を果たす。北京五輪向かっていく準備整いつつあったが、またも怪我による離脱続きメンバー固定しない苦し時期が続くも、乗り越えていく。 2008年北京五輪予選代表メンバー選出なされた竹下引き続き主将据え栗原高橋木村荒木といった常連組に、シドニー組の杉山祥子と、ベテラン多治見麻子加えアテネ組の大村加奈子リベロには佐野優子櫻井由香選ばれた。「映像をみて、なお、数字中心に選びました」と柳本選考理由説明した柳本前回アテネ五輪敗北理由を「初選出選手が多すぎた」とコメントしており、五輪難易度身をもって知った経緯から、経験者選出した傾向みられる。なお、経験者だけではなく当時30歳越えた狩野深雪が、主要大会では初選出メンバーとして選ばれている。幾多綺羅星から選び抜かれ選手達は、北京五輪最終予選では、五戦全勝予選突破決めた。当然、メダルへの期待大きくなっていった2008年北京五輪大会では、準々決勝にて、ブラジル対戦し全日本女子敗北した準々決勝抜けられない難しさ仕組みは、先ほど上記たように日本予選リーグ突破順位=4位」にある。 日本は、予選リーグにて、キューバ・アメリカ・中国と同リーグになり、4位で通過した3位通過した所で次も強敵かいないのだが、日本準々決勝対戦したブラジルは、この2008年北京大会で、金メダル獲った最強存在だった。 「日本メダル獲る為には、あと何が必要なのか」という問いは、バレーボール関係者にとって、果てしない難問であった。いわば「数学上の未解決問題」に匹敵する難問であったろう。 ミレニアム懸賞問題として有名だったポアンカレ予想は、2006年グリゴリー・ペレルマンによって証明されたが、この日本女子バレーボール問題は、2012年眞鍋政義率い女子バレーボールチームによって証明された。 2012年ロンドンでの成功物語は、大小様々な出来事積み重ね翻弄されても、決し諦めず立ち向かった監督選手・スタッフ・バレーボール関係者全ての想い組み合わさった事で産まれ奇跡の物語であろう

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