松村禎三
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松村禎三の俳句 |
| 幾万の絮落ちて野の枯れつくす |
松村 禎三
京都市生まれ。1949年旧制第三高等学校を卒業後、上京。池内友次郎、伊福部昭に師事。55年、『序奏と協奏的アレグロ』が日本音楽コンクール第1位に入賞、デビュー作となる。池内流のフランス的な響き、また伊福部流の原始主義的オスティナート、そしてアジア的なエネルギーから示唆を得て、半音階的なオスティナートと、それによる群的な響きを特徴とする独自の作風を確立。作品に、尾高賞受賞の《管弦楽のための前奏曲》(68)、ピアノ協奏曲第1番(73)、同第2番(78)、オペラ「沈黙」(93)など。映画音楽、劇音楽の分野でも優れた作品を多く残した。東京芸術大学名誉教授、相愛大学客員教授等を歴任。京都音楽賞大賞、勲四等旭日小綬章受章など受賞多数。07年8月、78歳で他界した。
松村禎三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/08/10 14:00 UTC 版)
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| 松村 禎三 | |
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1956年
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| 基本情報 | |
| 生誕 | 1929年1月15日 |
| 出身地 | |
| 死没 | 2007年8月6日(78歳没) |
| 学歴 | 旧制第三高等学校理科 |
| ジャンル | 現代音楽、映画音楽 |
| 職業 | 作曲家、俳人 |
| 活動期間 | 1955年 - 2007年 |
松村 禎三(まつむら ていぞう、1929年 <昭和4年> 1月15日 - 2007年 <平成19年> 8月6日)は、日本の作曲家、俳人。東京藝術大学名誉教授。
来歴
京都市(下京区仏光寺通室町西入ル)で生まれる。両親はともに京都の町人で、父方は代々黒紋付の染物、母方は鹿の子問屋を営み、父は分家して染物と白生地の卸しを業としていた[1]。父は熱心な日蓮宗の信徒で、朝夕に店員を従えて読経しており、禎三は幼少期からその傍らに坐って法華経如来寿量品の偈を暗誦していたという[1]。父は尺八を、母は箏を嗜んでいた。
小学2年修了時に伏見の京都府立女子師範学校附属小学校へ転入し、一家は伊勢田(現在の宇治市)に移る。同校の音楽教師・樋口昌道から五線譜の読み方、合唱・輪唱、レコード鑑賞といった当時としては高度な音楽教育を受けたことが出発点となり、家にピアノがなかったため半音のない卓上ピアノで作曲の真似事を始めた[1]。10歳の頃に父をがんで失い、家業は戦時下で傾いていく。京都府立桃山中学校(旧制)在学中の中学2、3年頃、三条河原町の朝日会館で開かれたレコードコンサートでトスカニーニ指揮によるベートーヴェンの交響曲第5番を聴き、生涯の原点となる衝撃を受けたと述べている[2]。
1945年に旧制第三高等学校理科(甲類)に入学。入学直後に大阪・桜井の軍需工場へ動員されるが、同年8月に終戦を迎えた。校内に音楽部を再興して講堂のピアノを事実上独占し、授業を欠席して練習に没頭する。担任はドイツ文学者でアララギ派の歌人でもあった高安國世で、松村の音楽への志を終始支持したという[3]。京都時代は1945年から1949年まで高橋恒治にピアノを、1947年から1949年まで和声を長廣敏雄に師事。在学中に肺浸潤を患ったこともあり2年次を二度履修し、1949年に旧制第三高等学校理科を卒業した[3]。
母を失ったことをきっかけとして、作曲家への道を目指して清瀬保二を頼って上京する[4]。世田谷・祖師ヶ谷大蔵に下宿し、のちに弘田龍太郎が初代園長を務めた成城の「ゆかり文化幼稚園」に書生として寄寓した[5]。清瀬の紹介で、東京藝術大学教授の池内友次郎に和声、対位法、作曲を師事。池内のレッスンについて松村は、書法の習得以上に「音をみつめる」姿勢と様式感覚を教えられたことが決定的な意味をもったと回想している[6]。また、清瀬の家に出入りしていた武満徹とも親交を結ぶ。
1950年、藝大受験をするが結核のため受験を失敗、5年余りの闘病生活に入る。学科試験は上位であったが身体検査で両肺の病巣が発見されたもので、思い詰める松村に俳句を勧めたのは池内であった[7]。清瀬村の病院に入院して、のち東村山の病院に移って計4回の肺の手術を受けている[7]。療養中の1950年代初頭より、俳句も創作するようになった。
退院した1955年に《序奏と協奏的アレグロ》が第24回NHK毎日音楽コンクール管弦楽部門で1位に入賞、デビュー作となった。本選会が行われた日比谷公会堂の廊下で、審査員であった伊福部昭から作品を評価する言葉をかけられたことがきっかけとなり、翌1956年から伊福部に師事した[8]。入賞と前後して結婚。その後《阿知女》《クリプトガム》《弦楽四重奏とピアノのための音楽》《交響曲第1番》(「日フィルシリーズ」第14作目)などを続けて発表。
コンクール入賞は直ちに生活の糧には結びつかず、1957年に映画音楽の指揮者・吉澤博の知遇を得て、1959年の日活映画『傷つける野獣』(野口博志監督)から本格的に映画音楽の仕事を始めた。同作でチーフ助監督を務めていた熊井啓とは、これ以降長く協働することになる。[9]。
1968年に完成した《管弦楽のための前奏曲》は、NHK委嘱・明治百年記念芸術祭参加作品として同年11月7日にNHK放送初演(森正指揮、NHK交響楽団)されたのち、翌1969年2月28日に岩城宏之指揮・NHK交響楽団により舞台初演された[10]。同作は第17回尾高賞を受賞したほか、IMC(国際音楽評議会)国際ラジオ会議の作品公募において世界10か国から放送の申し込みを受け、第4位に推薦された[10]。同年10月28日にはオランダにおいても岩城宏之指揮、オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団により演奏されている[10]。
1971年、かねて念願であったインドを旅行し、ベナレスでガンジス河に祈る人々の姿やブッダガヤの大塔、ラージギルの霊鷲山で見た日の出に強い感銘を受けた。この体験は帰国後の《ピアノ協奏曲第1番》や《暁の讃歌》に直接つながっている[11]。1981年には敦煌、莫高窟、陽関址、炳霊寺などを巡り、この旅からは多数の俳句も生まれた[12]。
1978年の《ピアノ協奏曲第2番》(民音現代作曲音楽祭委嘱、野島稔独奏)は、1979年11月にアメリカで初演され、1986年と1988年にはソヴィエト連邦でも演奏された[10]。1986年のソ連公演では、モスクワで開催された日ソ音楽協会主催「日本交響作品展」において、ゲルギエフ指揮・ソ連文化省交響楽団により、芥川也寸志の《オーケストラのためのラプソディ》らとともに取り上げられている[13]。
教育者としても、1970年より東京藝術大学音楽学部作曲科にて教鞭を執る(1975年助教授、1978年教授)。現代音楽のみならず映画、舞台の分野でも活躍し、毎日映画コンクール音楽賞、イタリア放送協会賞、1989年〜1992年にかけて連続で日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞。サントリー音楽財団委嘱による遠藤周作の小説に基づくオペラ《沈黙》の作者としても知られ、その成果により京都音楽賞大賞、毎日芸術賞、モービル音楽賞、都民文化栄誉賞など数々の賞を受賞している。オペラ《沈黙》は1993年11月4日、若杉弘指揮・新星日本交響楽団、鈴木敬介演出により日生劇場開場30周年記念事業として日生劇場で初演された[10]。
《沈黙》は1980年に委嘱を受けてから完成まで13年を要した。[14]。原作にない女性の信徒オハルを設定して3つのアリアを与え、長崎近郊のトモギ村の信徒たちは長崎地方の方言で、司祭ロドリゴとフェレイラは標準語で歌うという書き分けがなされた[14]。初演後も改作が続けられ、1995年の再演にあたっては演奏用のパート譜をすべて作り直すほどの手が加えられている[15]。
1990年前後には心筋梗塞で生死の境をさまよったが回復し、以後も《交響曲第2番》《ゲッセマネの夜に》などを発表した[16]。
2007年8月6日午後2時50分、肺炎のため東京都港区の病院で死去した。78歳。墓所は、東京都稲城市坂浜の新ゆり天望の丘墓苑にある。最後の作品となった《肖像 Portrait》(チェロとピアノのための)は、チェリストの堤剛の委嘱により、旧知の実業家である佐治敬三への追悼として作曲され、2006年12月13日にサントリー小ホールにて堤剛(チェロ)、上田晴子(ピアノ)により初演された[10]。
音楽観と作風
デビュー当時から、ラヴェル、ストラヴィンスキー、アジアの伝統音楽の影響を受けた豊穣な響きと、生命の根源に直結したエネルギーと哲学的な思索に基づく創作を行った。
「アジア的な発想をもった、生命の根源に直結したエネルギー」を志向して《交響曲第1番》や《管弦楽のための前奏曲》を完成させ、《ピアノ協奏曲第1番》《ピアノ協奏曲第2番》、そして、邦楽器への作曲をへて、《チェロ協奏曲》、さらにはオペラ《沈黙》の作曲に至る。アジア、東洋に求めた創作の源泉は、オペラ《沈黙》を経て、人間性の回復や、存在そのものへの深い思索へと向かう。
「アジア的なもの」の探究
自らの拠るべき母胎をアジアに求めた松村は、インドのカジュラーホのヒンドゥー教寺院群の写真に接し、有機的な小さい像の群れが集積して一つの壮大なフォルムを形づくるあり方に決定的な示唆を得た。松村はこれをイナゴの大群が大地を席捲していくような音楽と表現し、それを管弦楽で実現しようとして《交響曲第1番》に5年以上を費やしている[17]。作曲を中断し、限定された編成で音群と音楽との関係を突き詰めようとしたのが《弦楽四重奏とピアノのための音楽》であった[6]。また、療養所で目にしていた無数の虫のイメージが、《管弦楽のための前奏曲》の細かく屈曲した音型の堆積につながったとも述べている[7]。
調性(中心音)の回復
《管弦楽のための前奏曲》の成功の後、松村は同質の発想を反復することが「アジア的」という意識の観念化と自らの衰弱を招くことを恐れ、それまで意識的に閉め出してきた要素の回復に向かった。その中心が、ヨーロッパ固有の機能和声に裏づけられた調性ではなく、より広く「一つの中心音をもつ」ことの回復であり、インドなどの音楽におけるドローンの発想であった。インド旅行の直後に書かれた《ピアノ協奏曲第1番》はほぼ全曲にわたってピアノが嬰ハ音を鳴らし続ける構造をもち、松村自身が最も愛着を感じる作品として繰り返し挙げている[6]。
日本・能への回帰
1969年に水上勉作の新派劇『霰』の音楽を担当した際、水上から海の上を渡ってくる梵鐘のような音楽を求められ、御詠歌のような旋律を用いて作曲したところ「やっぱり京都やな」と評された。京都を嫌って上京した松村にとってこれは自らの「在所」を指摘された体験であり、以後、能や尾形光琳の絵画など足元の文化への傾倒が深まっていく[7]。とりわけ能『道成寺』の乱拍子に見られる、大きな間をとった小鼓とシテの最小限の動きだけで長大な時間を持続させる方法に、ヨーロッパの時間芸術との本質的な違いを見出した[2]。《ピアノ協奏曲第2番》第2楽章は能『景清』を観た感動に触発されている[18]。
様式と「前衛」
松村は、様式をもたない芸術作品は作品として存在し得ず、新しい様式は観念やアイディアからではなく、作者個別のリアリティに支えられた優れた作品が生じたときに初めて成立すると考えた。そのうえで、既成の一般通念と化した前衛を追うことを退け、一度無に帰り、自由なところから新たに美を拾い出す姿勢こそが正当な前衛であると述べている[19]。
《交響曲第2番》では、「アジア」だけにこだわることなく、人間そのものへの深い眼差しによって、自身の音楽を展開するようになった。最晩年の《ゲッセマネの夜に》では、キリスト最後の夜を題材にしたジョットの絵画の複製を見て、人間存在が持つ逃れられない原罪と、深い哀しみを音楽に込めた。
反核
1986年、ソヴィエト連邦で開かれた会議において、広島・長崎の被爆の実相と物質文明への無反省な肯定について発言し、生きることの尊さを凝縮し放射し続けるものを作ることが文化に携わる者の仕事であると述べた。1982年に結成された「反核・日本の音楽家たち」にも参加している[20]。管弦楽曲《劫火の中で》(1983年)も同じ問題意識から書かれた[21]。
俳句
句作を始めたのは1950年、東京藝術大学の受験に失敗して療養生活に入る前後で、俳句を勧めたのは池内友次郎であった[7]。入院先では療養俳句が盛んで、松村は滝春一選のガリ版刷りの句誌「青桐」に投句し、のち山口誓子の「天狼」、秋元不死男の「氷海」に投句するようになる。「氷海」ではしばしば巻頭を得て、1953年に第1回氷海賞を受賞し、「氷海」「環礁」の同人となった[7]。当時「氷海」に投句していた青森高校在学中の寺山修司とは互いに巻頭を争う関係から文通が始まり、生涯の交友となった[22]。同じ療養所には、のちに編集者となる宗田安正がおり、その句に強い感化を受けたという[7]。
退院後、松村は俳句と作曲は両立しないと考えて句作から遠ざかったが、後年、深夜叢書社の齋藤慎爾の勧めで句集『旱夫抄』が編まれ、病床の秋元不死男が序文を寄せた[7]。1980年代には句作を再開し、1981年の敦煌・炳霊寺への旅や寺山修司の死をめぐる連作を発表している[23]。晩年には、物をみつめる俳句の姿勢と音楽とはもはや矛盾しないと述べ、「音をみつめる」姿勢は作句の体験から得られたものだと回想した[24]。高浜虚子の新年詠を、時間そのものを対象とした写生の到達点として高く評価し、三橋鷹女、橋本多佳子、杉田久女らを敬愛した[25]。
受賞・栄典
- 1969年 尾高賞(管弦楽のための前奏曲)。同作はIMC国際ラジオ会議において世界10か国からの放送申し込みを受け第4位に推薦された[10]。
- 1970年 第25回毎日映画コンクール 音楽賞「地の群れ」
- 1972年 第27回毎日映画コンクール 音楽賞「忍ぶ川」
- 1973年 第28回芸術祭優秀賞(ピアノ協奏曲第1番)、第4回福山賞(同)[10]
- 1979年 第10回サントリー音楽賞、尾高賞(2回目、ピアノ協奏曲第2番)、第34回芸術祭優秀賞
- 1990年 紫綬褒章[26]、第10回藤堂顕一郎音楽褒賞
- 1992年 第10回京都府文化賞(功労賞)
- 1994年 毎日芸術賞、都民文化栄誉章、モービル音楽賞
- 2000年 勲四等旭日小綬章[27]
主な作品
オペラ
- 沈黙(1993年)
交響曲
管弦楽曲
- 序奏と協奏的アレグロ(1955年)
- 管弦楽のための前奏曲(1968年) - 単一楽章。冒頭のオーボエ独奏の旋律とピッコロによる応唱が全曲を支配し、その多声的堆積は最大19声部に及ぶ[29]。
- 劫火の中で(1983年)
- 弦楽のためのプネウマ(1987年) - 曲名は井上洋治の著作で知ったギリシャ語で、「風」「息」「霊」の意[30]。
- オマージュ ―伊福部昭へ―(1988年) 『伊福部昭のモチーフによる讃』の1曲
- 管弦楽の捧げ物(1989年)
- ゲッセマネの夜に(2002年) - 作曲中、ジョットによる「ユダの接吻」の複製と向かい合っていた[31]。
協奏曲
声楽を含むオーケストラ曲
- 祖霊祈祷(1969年):1970年の大阪万博テーマ館のための音楽。(合唱)東京混声合唱団、(管弦楽)東京交響楽団、(指揮)石丸寛(11分08秒)<タワーレコード NCS 589-590>。
- 交響詩「やまなし」(1974年)
室内楽曲
- 弦楽四重奏による交響的断章(1950年)
- 阿知女〈アチメ〉(1957年)- ソプラノ、打楽器と11人の奏者のための。神楽歌の鎮魂(みたまふり)の儀式に詞章を求めたもの[34]。
- 隠花植物(クリプトガム)(1958年)
- 弦楽四重奏とピアノのための音楽(1962年) - 三善晃の個展のために書かれ、のち三善に献呈された[35]。
- アプサラスの庭(1971年、1974年改作)- フルート、ヴァイオリン、ピアノのための
- 祈祷歌 - 無伴奏チェロのための(1985年)
- スペルマティカ - 無伴奏チェロのための(1985年)
- ピアノ三重奏曲(1987年) - 4つの部分からなり、第3の部分は井上靖の詩「黄河」にイメージを負う[36]。
- ノクチュルヌ - ハープ独奏のための(1994年) - 映画『深い河』のために書いたフルートとハープの曲を素材としている[37]。
- 弦楽四重奏曲(1996年)
- ヴィブラホーンのために(2002年) - 吉原すみれの委嘱・献呈。三橋鷹女の3句を各楽章の題としている[38]。
- 肖像 Portrait - チェロとピアノのための(2006年)遺作。堤剛委嘱、佐治敬三の追憶として作曲。2006年12月13日、堤剛(チェロ)、上田晴子(ピアノ)によりサントリー小ホールにて初演[10]。
邦楽器のための作品
ピアノ曲
- ギリシャによせる2つの子守唄(1969年)
- 巡礼 I-III(1999-2000年)
合唱曲
映画音楽
熊井啓監督作品
黒木和雄監督作品
その他
舞台音楽
1960年、寺山修司作『血は立ったまま眠っている』(劇団四季、浅利慶太演出)で初めて演劇の音楽を担当し、以後、劇団四季や前進座の公演に関わった[45]。水上勉の戯曲では『霰』(1969年)以降、『雁の寺』『越前竹人形』『飢餓海峡』『五番町夕霧楼』『越後つついし親不知』『はなれ瞽女おりん』など多くの舞台の音楽を手がけている[16]。
雑誌への寄稿・エッセイ
以下、スリーシェルズ公式サイト掲載の関連記事リストより、松村自身の署名によるエッセイを抜粋する[10]。なお、これらを含む講演・エッセイ・自作解説の多くは、2012年刊行の『松村禎三 作曲家の言葉』に収録されている。
- 「新人発言・対岸の火事を真似るな」『音楽旬報』1959年1月5日号
- 「私のドビュッシー観 ドビュッシーとわれわれの間」『音楽芸術』1962年8月号
- 「伊福部昭という人」『音楽芸術』1963年5月号
- 「助川さんのこと」現代の音楽展'67プログラム、1967年
- 「ストラヴィンスキー"Poetics of Music"をもとにして」『音楽芸術』25巻12号、1967年12月
- 「音楽著作権に関すること」日本作曲家組合会報、1968年1月1日
- 「バッハのミサ曲を聴いて」『音楽芸術』1969年2月号
- 「私が志していること」日本フィルハーモニー交響楽団第212回定期演奏会プログラム、1971年1月14日
- 「清瀬保二のピアノ曲集『東北のわらべ唄』について」『音楽の世界』1971年10月号
- 座談会「日本人として…宗教と芸術の原点をめぐって」(佐久間彪と)『あけぼの』1972年11月号
出版楽譜・ディスコグラフィ
松村作品の楽譜は、主に音楽之友社、全音楽譜出版社、マザーアースの3社(ほか春秋社、アカデミアミュージック、アイティエスなど)から刊行されている。以下、確認できる範囲で年代順に列挙する[10]。
- 1962年 - 弦楽四重奏とピアノのための音楽(音楽之友社)
- 1967年 - 交響曲第1番 初版(音楽之友社)
- 1967年 - 阿知女〈アチメ〉(音楽之友社)
- 1968年 - ギリシャによせる2つの子守歌(春秋社)
- 1973年 - 交響曲第1番 改訂版(音楽之友社)
- 1973年 - 管弦楽のための前奏曲(音楽之友社)
- 1973年 - 軽太子のうたえる2つの歌 初版(アカデミアミュージック)
- 1977年 - 詩曲1番―箏と尺八のための―(全音楽譜出版社)
- 1977年 - 詩曲2番―尺八のための―(全音楽譜出版社)
- 1980年 - アプサラスの庭(音楽之友社)
- 1980年 - 暁の讃歌 小編成版(全音楽譜出版社)
- 1981年 - 暁の讃歌 大編成版(全音楽譜出版社)
- 1981年 - ピアノ協奏曲第1番(全音楽譜出版社)
- 1981年 - ピアノ協奏曲第2番(全音楽譜出版社)
- 1985年 - 飛天(アプサラス)(『長廣敏雄喜寿記念論文集』所収、音楽之友社)
- 1990年 - ピアノ三重奏曲(音楽之友社)
- 1991年 - プネウマ―弦楽のための―(全音楽譜出版社)
- 1992年 - チェロ協奏曲(全音楽譜出版社)
- 2000年 - 祈祷歌―無伴奏チェロのための―(全音楽譜出版社)
- 2000年 - ノクチュルヌ(全音楽譜出版社)
- 2001年 - 交響曲第1番 再改訂版(音楽之友社)
- 2002年 - 弦楽四重奏曲(全音楽譜出版社)
- 2002年 - 巡礼I(ピアノのための)(全音楽譜出版社)
- 2002年 - 巡礼II(ピアノのための)(全音楽譜出版社)
- 2004年 - 軽太子のうたえる2つの歌 改訂版(全音楽譜出版社)
- 2004年 - 貧しき信徒(全音楽譜出版社)
- 2004年 - オペラ「沈黙」台本・解説(おぺら読本出版)
- 2006年 - 篠笛と琵琶のための詩曲(マザーアース)
- 2006年 - 幻想曲―13絃箏のための―(マザーアース)
- 2006年 - 冬日抄―25絃箏のための―(アイティエス)
- 2007年 - 詩曲1番・詩曲2番 再刊(マザーアース)
なお、序奏と協奏的アレグロ、劫火の中で、オマージュ―伊福部昭へ―、管弦楽の捧げ物、交響曲第2番、ピアノと弦楽オーケストラのための朝の歌、ゲッセマネの夜に、隠花植物(クリプトガム)、アルト・サクソフォンと琵琶のための詩曲、祈祷歌―17絃箏のための―、スペルマティカ、巡礼III、ヴィブラホーンのために、肖像などは、2007年時点で未出版(貸与譜のみ)とされている[10]。
主なディスコグラフィは以下の通り。
- 「松村禎三:交響曲第1番・第2番/ゲッセマネの夜に」(Naxos「日本作曲家選輯」第24作、8.570337、2010年)-指揮:湯浅卓雄、演奏:アイルランド国立交響楽団、ピアノ:神谷郁代[46]。
- 「松村禎三:交響曲第1番」(指揮:岩城宏之、カメラータ)
- 祖霊祈祷(1970年、大阪万博テーマ館委嘱作)-指揮:石丸寛、東京交響楽団、東京混声合唱団(タワーレコード NCS 589-590)
- 交響詩「やまなし」(同名映画と一体をなす作品)-指揮:小林研一郎、東京交響楽団(81人編成)、東京混声合唱団による録音が同映画のサウンドトラックとして存在する[10]。
- 「こどものための音楽」(スリーシェルズ)-ひばり児童合唱団による演奏会「狛江から世界の松村禎三へ」のライヴ収録。ボーナストラックとして、松村自身の演奏による「ギリシャによせる2つの子守歌」を収録[47]。
著書
- 『旱夫抄 : 松村禎三句集 新版』深夜叢書社, 1991年
- 『松村禎三 作曲家の言葉』アプサラス編, 春秋社, 2012年 - 講演「わが音楽語法」「作曲に臨む態度」ほか、音楽論、自作解説、交遊録、俳句、随想を7章に編集したもの。
門下
- 肥後一郎(1940年 - 2019年)
- 北爪道夫(1948年 - )
- 池上敏(1949年 - 2024年)
- 二宮洋(1950年 - )
- 多田栄一(1950年 - )
- 吉松隆(1953年 - )
- 高橋裕(1953年 - )
- 鈴木行一(1954年 - 2010年)
- 小鍛冶邦隆(1955年 - )
- 小山薫(1955年 - 2006年)
- 甲田潤(1957年 - )
- 山本純ノ介(1958年 - )
- 川崎絵都夫(1959年 - )
- 山内雅弘(1960年 - )
- 若林千春(1961年 - )
- 柿沼唯(1961年 - )
- 阿部亮太郎(1962年 - )
- 佐藤昌弘(1962年 - )
- 田頭勉(1962年 - )
- 立原勇(1962年 - )
- 土田英介(1963年 - )
- 塚本一実(1963年 - )
- 菊池幸夫(1964年 - )
- 佐々木冬彦(1965年 -2020年 )
- 伊東乾(1965年 - )
- 正門憲也(1968年 - )
- 名倉明子
脚注
- 1 2 3 アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「少年時代のこと」(1984年)。
- 1 2 アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「音楽と風土――“新しさ”の原点」(1992年)。
- 1 2 アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「“自由”の贈りもの――旧制三高の日々」(2001年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、p.159。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「藤田妙子」(2001年)、「弘田龍太郎と弘田家の人々」(1986年)。
- 1 2 3 アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「わが音楽語法」(1994年)。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「作曲に臨む態度」(1995年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「伊福部昭」(1963年・1984年・1990年・2006年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「吉澤博」(1988年)。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 「松村禎三」スリーシェルズ、松村禎三作品リスト
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「旅に出て…1 インド・ネパール」(1971年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「旅に出て…2 敦煌」(1982年)。
- ↑ 「芥川也寸志」スリーシェルズ、芥川也寸志年譜】
- 1 2 アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「神に向き合う『沈黙』――小説のオペラ化にあたって」(1993年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「改作の意味――オペラ《沈黙》再演を前に」(1995年)。
- 1 2 アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「水上勉」(1992年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「交響曲第一番」(1965年)。
- 1 2 アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「ピアノ協奏曲第二番」(1978年・1980年・1989年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「真の前衛精神を求めて」(1999年)、「作品のリアリティのありか」(1989年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「音楽の精神――叡智の波動へ」(1986年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「劫火の中で」(1983年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「寺山修司」(1997年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「石の眼」(1986年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「俳句と私 ―没日寒―」(1990年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「近代俳句・この一句」(1996年)、「私の選ぶ女流俳人」(1986年)。
- ↑ 『官報』平成2年11月5日(号外 第140号)29頁。
- ↑ 「秋の叙勲 晴れの受章者 勲四等-勲七等」『読売新聞』2000年11月3日朝刊
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「交響曲第二番」(1998年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「管弦楽のための前奏曲」(1968年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「プネウマ―弦楽のための―」(1987年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「ゲッセマネの夜に」(2002年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「ピアノ協奏曲第一番」(1973年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「チェロ協奏曲」(1984年・1998年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「阿知女」(1957年・2003年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「弦楽四重奏とピアノのための音楽」(1962年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「ピアノ三重奏曲」(1987年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「ノクチュルヌ」(1994年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「ヴィブラフォーンのために―三橋鷹女の俳句によせて―」(2002年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「飛天(アプサラス)/詩曲一番」(1970年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「篠笛と琵琶のための詩曲」(1980年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「祈祷歌(十七絃箏のための)」(1984年)、「祈祷歌(無伴奏チェロのための)」(1985年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「暁の讃歌」(1978年・1987年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「牧歌」(1983年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「蛙」(1998年)。
- ↑ アプサラス編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年、「稽古場のベランダ――劇団四季にて」(1999年)、「芝居職人気質――前進座の人々」(1980年)。
- ↑ 「松村禎三:交響曲第1番、第2番/ゲッセマネの夜に」Naxos Music Library
- ↑ 「松村禎三 こどものための音楽」スリーシェルズ
参考文献
- アプサラス 編『松村禎三 作曲家の言葉』春秋社、2012年7月20日。ISBN 978-4-393-93569-9。
外部リンク
- 松村禎三作品リスト
- 松村禎三出版楽譜とCD一覧/マザーアース
- 松村禎三 - スリーシェルズによる詳細な作品リスト・関連記事リスト
- 松村禎三 - 日本映画データベース
- 松村禎三 - allcinema
- 松村禎三 - KINENOTE
- 松村禎三 - IMDb
- アプサラス(教え子である作曲家高橋裕を中心とする松村禎三の業績を伝え、遺志を引き継ぐために設立された会)
「松村 禎三」の例文・使い方・用例・文例
- 昔からの友人である松村邦(くに)洋(ひろ)さんや元相(あい)方(かた)の大森うたえもんさんが電話をかけてきた。
- AEDは,今年3月に東京マラソンでテレビタレントの松村邦(くに)洋(ひろ)さんの命を救ったときに大きな注目を集めた。
- 彼は3つのボギーをたたき,2位の松村道(みち)央(お)選手(29)に1打差に迫られた。
- 石川選手と松村選手はともに18番ホールでバーディーだったため,石川選手がリードを守り,その大会で優勝した。
- 松村康(こう)平(へい)選手が日本人男子選手の中でトップの完走者だった。
- 松村選手は東京での成功で,アジア大会の日本代表入りの可能性が高まった。
- 「松村選手は大きな失敗がない。彼はまだ3回しかマラソンを走っていないが,レースごとに速くなっている。」と宗さんは話した。
固有名詞の分類
| 日本の作曲家 |
Keyz 服部克久 松村禎三 渡邉貢 田中カレン |
| 近現代の作曲家 |
アレクサンドル・スペンジアリャン ボリス・ブラッハー 松村禎三 ハンス・イェリネク ヤン・クーツィール |
| 近現代音楽の作曲家 |
篠原眞 ボリス・ブラッハー 松村禎三 田中カレン マデリーン・ドリング |
| 日本のクラシック音楽の作曲家 |
鈴木行一 篠原眞 松村禎三 田中カレン 細野真由美 |
| オペラ作曲家 |
エッリーコ・ペトレッラ ヨハン・アブラハム・ペーター・シュルツ 松村禎三 清水脩 アッリーゴ・ボーイト |
| 日本の映画音楽の作曲家 |
鈴木行一 服部克久 松村禎三 栗山和樹 鈴木慶一 |
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