慰安婦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:14 UTC 版)
詳細は「日本の慰安婦」を参照 日本(大日本帝国)から日本人や台湾人、朝鮮人(当時は日本国籍)が慰安婦として戦地に赴いた他、現地で採用されたインドネシア人やフィリピン人、中国人など様々な出自の慰安婦が存在した。
※この「慰安婦」の解説は、「慰安所」の解説の一部です。
「慰安婦」を含む「慰安所」の記事については、「慰安所」の概要を参照ください。
慰安婦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:48 UTC 版)
日中戦争・太平洋戦争中の慰安婦について、「慰安婦は売春婦だ」との言い方で、性奴隷であったことを否定する立場をとる者の一人。ただし、南方等で一部は強制的に監禁・強要された例も認めている。日本軍による「朝鮮半島において婦女子を(肉体的な暴力、物理的な実力で)強制連行し慰安婦とした」ことについてはほぼ全面的に否定している。1999年、それまでの議論や様々な資料を広く参照し、おもに時代背景やその変化などから慰安所制度や慰安婦の実態を明らかにすることを試みたとする著書『慰安婦と戦場の性』を出版した。 米国の公立高校で使われている世界史教科書に、慰安婦問題について事実と異なる記述があるとして、米大手教育出版社「マグロウヒル」に訂正を求める声明を公表した日本の歴史家のメンバーの一人。なお、このとき、秦は、当時海外に展開した日本軍の兵力は約100万人で、教科書に従い、慰安婦が20万人いたのであれば、20万人が1日5回サービスすると100万になるので、兵士たちは戦闘する暇なく、毎日慰安所に通わなければ計算が合わなくなると発言しているが、この発言にある日本陸軍の兵力100万人という数字は、通常、中国本土にいた兵力のみについて指す場合に使われる言葉で、当然陸軍は他の外地にも多数展開していた。また、終戦までに230万人軍人・軍属の死者が出ていたことや、慰安婦にも死者が出て補充されていったであろうことも無視している。 また、藤岡信勝(新しい歴史教科書をつくる会の創設者メンバーの一人で会長を務めたこともあり、また、2007年6月14日、ワシントン・ポスト紙に「慰安婦は売春婦である」、「性奴隷ではない」との全面広告を出したメンバーの一人。)によれば、1995年6月自由主義史観研究会が主催する南京事件をめぐるパネルディスカッションで、招かれた秦から慰安婦問題を取り上げることをサジェストされ、その後も折に触れて情報を得ていて、藤岡が教科書記述をめぐって慰安婦問題に取組むきっかけになったとする また、2013年06月13日TBSラジオの「荻上チキ・Session-22」で、「歴史学の第一人者と考える『慰安婦問題』」で実証主義歴史学者の吉見義明と慰安婦問題について、対立する立場で討論した。2013年5月、日本維新の会所属だった桜内文城(ふみき)前衆院議員が、当時日本維新の会共同代表だった橋下徹・前大阪市長が慰安婦問題をめぐる発言に関して開いた会見に同席し、慰安婦に関する吉見氏の著書が紹介された際、「これはすでに捏造だということが明らかとされております」と発言した。このため、吉見義明・中央大名誉教授が、「自著を捏造と言われ、名誉を傷つけられた」として損害賠償などを求めて訴訟を行い、対して秦郁彦は裁判で桜内側に立った証言を行った。この秦証言の内容に関しては、渡辺春巳が『秦郁彦証言とその非学問性』という論文で批判した。裁判自体は、秦の主張する説とは関係なく、一審・二審とも桜内の「『これ』とは慰安婦が性奴隷だとする説のことで、吉見の著書を捏造と言ったわけではない」との弁解を認め、吉見の請求を却下、2017年最高裁第一小法廷(小池裕裁判長)が6月29日付決定で吉見氏の上告を退け、判決が確定した。 済州島での慰安婦狩り調査 1992年3月、済州島において慰安婦狩りをおこなったとする吉田証言について現地調査を行い、そのような事実は確認できず虚構と主張する。ただし、済州島ではそもそも1948年以降、白色テロによる弾圧と殺戮が繰り返され、28万人いたとされる島民の内、2万数千人~8万人が殺害され、さらにその後も度々弾圧・殺害事件が繰り返されたため、恐怖にかられた島民が次々に島を離れ、一時は島民が3万人弱にまで減ったとも言われている。(済州島四・三事件、済州島事件、四・三事件とも。)今田真人は、そのため当時のことを語れる人間がもはや居ないため、話しても迷惑する人間がいないから差支えないとして、吉田が済州島について話すことにしたと聞いたとする。今田は、自身が裏付け証言が取れなかったというだけで秦が吉田証言をウソと断定する手法、また、自身を棚に上げ他人を詐話師呼ばわりして人格を貶めることで、事実の実際の真偽とは関係なく証言の信憑性をなくそうとする秦の手法を批判している。秦はこの件に関し現地紙の許栄善記者から「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と言われたとする。 しかし、韓国仁徳大学の講師である言語心理学者 吉方べきによれば、許栄善記者はその後会った他の取材者らに「自分は何人か(の島民)に話を聞いただけで、これが吉田氏の告白全てを否定する証拠のように扱われるのは不本意」と語ったとされ、さらに「記事が日本で予想外の注目を受け不自由な思いをしたため、これ以上関わりたくない」と吐露したとされる。一方で、遺族会の抗議に従来の見方を引っ込めるしかなかったとの見方も韓国にあることを、吉方は伝えている。吉方によれば、許栄善からはインタビューに現在応じて貰えないものの、そもそもの記事の4年後の1993年に許栄善が慰安婦狩りについての署名記事を書いており、そこで吉田証言を取上げ、別に吉田証言を否定的に扱っていないという。また、吉方は、済州島で聞き取り調査を行ったことのある者は皆、済州島四・三事件の後遺症が強く、(秦郁彦のような)よそ者が聞いたからといって簡単に話すわけはないとするという。 なお、秦郁彦は吉田の証言が二転、三転していると批判するが、これらはあくまで電話などで吉田から秦自身が聞いたとする話ばかりである。また、秦自身の証言も、「済州島の城山浦に貝ボタン工場が4~5箇所あったとされるが、老人クラブで5人ほどの貝ボタン工場出身の老人と話し合って吉田証言が虚言らしいと確認した」としていたものが、後になると「城山浦の貝ボタン工場を訪れ、近くの老人に話を聞いた」に変化している。 その他には、西野瑠美子がその著作で、当時下関市警察にいた吉田と面識のある人物に、労務報告会で済州島に慰安婦狩出しに行ったという話を聞いた事があるかと尋ねたところ、「いやぁ、ないね。(略)しかし管轄が違うから何とも言えませんがね」と回答され、さらに、下関の大坪からも在日の朝鮮人女性を集めたようですがと尋ねたところ、「(略)やったかもしれん。やったとしたら、特高でしょうなぁ。県の特高の出張所が下関署内にありましたから」と書いていることを、秦が自身の著書では、西野留美子は済州島の慰安婦狩りについて、「吉田と面識のある元警察官から『いやあ、ないね。聞いたことはないですよ』との証言を引き出した」という風に書き、特高の可能性の部分については引用すらしていない等、内容を自己の主張に都合の良いように編集して、歪めていることを、今田真人、林博史、前田朗らから指摘されている。 その他の例 フィリピンでは問題はレイプが主体とし、軍末端では組織的に女性を監禁して、いわば私設慰安所を設けていた例を報告、一方で、募集すればいくらでも人が集まったとし、女性を慰安婦として募集した事例を記す。 2007年3月5日、首相の安倍晋三が参議院予算委員会において「狭義の意味においての強制性について言えば、これはそれを裏付ける証言はなかったということを昨年の国会で申し上げたところでございます。」と答弁した。秦はこの答弁について、「現実には募集の段階から強制した例も僅かながらありますから、安倍総理の言葉は必ずしも正確な表現とはいえません。「狭義の強制は、きわめて少なかった」とでも言えば良かったのかもしれませんが、なまじ余計な知識があるから、結果的に舌足らずの表現になってしまったのかもしれません(苦笑)。」とコメントしている。 一方で、その著書で、慰安婦が強制的に集められたのではない証拠として、シンガポールにおいて、軍が慰安婦を募集すると「次々と応募し」「トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた」という総山少尉の回想録を引用しているものの、実際には、原文では、すぐ後に、次々と何人も相手にしなければならないという、彼女らが想像もしていなかった大変な激務が待ちうけていたため、体が持たないと前を押さえてしゃがみこみ、悲鳴をあげて拒否しようとした慰安婦が、手足を寝台に縛りつけられ、続けさせられたことを、いたたまれずに逃げ帰った部下から聞いた話が続いているのだが、秦はこれらの部分はカットし、彼女らが性交を強要される奴隷状態にあったことを伏せていることを、林博史から批判されている。 2014年、政府による「河野談話」の検証チームのメンバーとなる。 2015年2月23日、産経新聞付朝刊の「正論」欄で「大弁護団抱える植村訴訟の争点」と題する論考を発表し、その中で朝日新聞記者だった植村隆について「植村氏は訴訟までの約1年、被告ばかりか日本メディアの取材を拒否し、手記も公表していない」と事実ではない記述をした。産経新聞は2015年6月8日付朝刊7面でこの記載は誤りとし「植村氏は複数の日本メディアの取材に応じており、手記も発表しています。産経新聞のインタビューの申し込みには応じませんでした。訂正しておわびします」と誤報を認めた記事を掲載した。 『慰安婦と戦場の性』英語版をアメリカの出版社から刊行する準備を進めている。
※この「慰安婦」の解説は、「秦郁彦」の解説の一部です。
「慰安婦」を含む「秦郁彦」の記事については、「秦郁彦」の概要を参照ください。
慰安婦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:01 UTC 版)
2013年6月7日の維新代議士会で、日本による慰安婦の募集に強制性があったとする韓国の主張について、「自分の子や近所の娘が連行されるのを黙って見ていたのか。そんなに朝鮮人は弱虫だったのか」「日本人をおとしめ、彼らの先祖もおとしめている。(応酬は)お互いにやめよう」と発言した。 2013年11月、朝日新聞が、「慰安婦だったと証言するインドネシアの女性」を記事にした。ただ、この女性たちは、「日本兵かは定かではないが、言語と顔つきがインドネシア人と違うことから、日本兵だと思った」と話している。これについて、「記事にするのは恥ずかしいような証言だ。どうしても日本を悪者にしたいらしい。」と意見を言った。
※この「慰安婦」の解説は、「中山成彬」の解説の一部です。
「慰安婦」を含む「中山成彬」の記事については、「中山成彬」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から慰安婦を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 慰安婦のページへのリンク