幼少期・少年期
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1896年(明治29年)8月27日、父宮澤政次郎と母イチの長男として花巻川口町(現:花巻市)に生まれる。戸籍上の誕生日は8月1日で生前の賢治も履歴書に1日と書いているが、27日と推定されている。母イチの実家、鍛冶町の宮澤善治家で出生したが、5日後の8月31日、秋田県東部を震源とする陸羽地震が発生。イチは賢治を収容したエジコ (乳幼児を入れ守る籠) を両手で抱えながら上体を覆って念仏を唱えていたという。政次郎は仕事で旅行中だったため、政次郎の弟の治三郎が「賢治」と名付けた。 3歳の頃、婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが「正信偈」「白骨の御文章」を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという。1902年(明治35年)、赤痢で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、大腸カタルを起こして胃腸が生涯弱くなった。1903年(明治36年)、花巻川口尋常小学校(2年後に花城尋常小学校へ改名)に入学。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を担任した八木英三は生徒たちに『未だ見ぬ親』(五来素川の翻案によるマロ作『家なき子』)や『海に塩のあるわけ』(民話『海の水はなぜ辛い』)などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた。後に賢治は八木と再会した折に「私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです」と語っている。鉱物採集、昆虫の標本づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から「石コ賢さん」とあだ名をつけられる。父の主催する花巻仏教会の夏季講習会にも参加、招いた講師の暁烏敏の世話係もした。 1909年(明治42年)4月、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学。寄宿舎「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}自彊(じきょう)寮」に入寮。祖父の喜助は商人の息子で跡継ぎの賢治に学問は不要という考えで、父の政次郎が説得して進学させた。家業の古着屋を嫌っていた賢治は将来を悲観し、成績は落ち込んでゆく。鉱物採集や星座に熱中、岩手山、南昌山、鞍掛山など盛岡近在の山を歩き、大量の岩石標本を集めた。3年生の頃から石川啄木の影響を受けた短歌を制作。1913年(大正2年)、4年生の時、二学期から交代した新しい舎監に生徒たちが夜中足を踏み鳴らすなどの嫌がらせを行ったため、4、5年生全員が退寮させられるという事件が発生。賢治は盛岡市北山の清養院に下宿する。 1914年(大正3年)3月、盛岡中学卒業。4月、盛岡市岩手病院に入院、肥厚性鼻炎の手術を受ける。術後も熱が下がらず、発疹チフスの疑いで5月末まで入院。この時看病に当たった政次郎も感染して入院。自分の看病で2度も倒れた父に賢治は後までも負い目を感じていたという。入院中に出会った岩手病院の看護婦に思いを寄せ、退院後、両親に結婚したいと申し出たが「若すぎる」という理由で反対される。政次郎は「あれはひどく早成なところがあって、困ったんじゃ……」と困惑した。実家で店番や養蚕の手伝いで鬱々とした日々を過ごす賢治を見かねた政次郎は盛岡高等農林学校への進学を認める。賢治は今までと打って変わって、受験のため猛勉強に励んだ。同時期に、島地大等訳『漢和対照 妙法蓮華経』を読み、その中の「如来寿量品」に体が震えるほどの感銘を受ける。
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幼少期・少年期
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「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「幼少期・少年期」の解説
幼い頃から負けん気が強かったといい、幼いヴィルヘルムを見たロシア帝国外相アレクサンドル・ゴルチャコフは「幼いホーエンツォレルンは、プロイセンの歴代国王の中でも最も異彩を放つであろう。やがてはドイツの中心機関となって、世界にその威を示すに違いない。その時機が到来する時には必ずヨーロッパを驚かせることをするだろう。」と予言したという。また幼い頃から海上に興味を示し、7歳のころには水兵たちから海の伝説について興味深そうに聞いていたという。 カルヴァン派のゲオルク・ヒンツペーター(ドイツ語版)博士が教育係となり、厳格な教育を受けた。しかしインテリであった母ヴィクトリアはヴィルヘルムに非常に多くのことを要求したため、母からの評価はいつも低かったという。また彼女はヴィルヘルムが身体障害者であることもひそかに嫌っていたという。これが母への憎悪、ひいてはイギリスへの憎悪に繋がったといわれる。 1869年1月27日に10歳の誕生日を迎えると第1近衛歩兵連隊(ドイツ語版)に入隊し、少尉(Leutnant)に任官した(即位までに少将まで昇進)。ポツダムの近衛将校団に囲まれてフリードリヒ大王以来のプロイセン軍国主義に深く心酔していった。しばしばイギリスの自由主義的な制度を称えたがる「イギリス女」のヴィクトリアは彼ら近衛将校団の憎悪の対象であった。1870年に普仏戦争が発生するとヴィルヘルムも従軍を希望したが、年少すぎるとして認められず、軍人としての無念さを訴えていたという。 普仏戦争中の1871年1月18日に祖父であるプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝(カイザー)に即位し、ドイツ帝国が成立した。この直後にヴィルヘルムが12歳になると母同様に自由主義的だった父フリードリヒ皇太子は「私の跡継ぎとして公平無私になることを希望する」としてヴィルヘルムを普通の児童が通う小学校に入学させることを布告した。ヴィルヘルムは小学校を卒業後、1874年にカッセルのヴィルヘルムスヘーエ(Wilhelmshöhe)の離宮に移り、同じく普通の子供たちが通う同地のギムナジウムに入学した。ヴィルヘルムが普通の児童の学校へ通うことになったのはヒンツペーター博士と母ヴィクトリアの相談の結果であるという。市民的な教育を与えるためであったが、保守的なヴィルヘルム1世や帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク侯爵はこれに反対していた。 学校での教育の他、ヒンツペーター博士の教育も続けられた。フェンシング、乗馬、製図の訓練もあり、朝5時から夜10時まで続くという過密教育だった。学校の成績は上位であり、1877年1月にギムナジウムを卒業した時には第10位の好成績であり、表彰も受けている。とりわけ語学に優れており、英語とフランス語を自由に扱えるようになり、ギリシア語の古典もよく読んでいた。 ヴィルヘルムと母ヴィクトリアの関係は悪化の一途をたどった。ヴィクトリアは息子について「旅行しても博物館には興味を示さず、風景の美しさにも価値を見出さず、まともな本も読まなかった」「ヴィルヘルムには謙虚さ、善意、配慮が欠けており、彼は高慢で、エゴイストで、心がぞっとするほど冷たい」などと酷評するほどだった。ビスマルクはヴィルヘルム1世が崩御した場合、自由主義的なフリードリヒ皇太子やヴィクトリアの下で帝国が自由主義化することを懸念していた。そのためビスマルクもこのヴィルヘルムとヴィクトリアの争いを「ドイツの真の継承者」対「イギリス女」として煽り、ヴィルヘルムにイギリスや自由主義への敵意を強めさせることに努めた。 祖父ヴィルヘルム1世もプロイセン保守的な人物であったから、自由主義的な息子フリードリヒよりも保守的に育っていく孫ヴィルヘルムに期待しており、ヴィルヘルムは祖父から大変に可愛がられた。ヴィルヘルムも父ではなく祖父を模範として育っていった。 1862年のフリードリヒ皇太子一家を描いた絵。母ヴィクトリアの左に座っているのがヴィルヘルム。母の膝の上にいるのは妹のシャルロッテ。 1863年、ヴィルヘルムと父フリードリヒ皇太子 1874年のヴィルヘルム 1877年のヴィルヘルム
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幼少期・少年期
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幼少期より、死について考えていた。死ぬと全く何もなくなってしまう、ということが耐え難い恐怖であった。目を閉じ耳をふさぎ、死がどのようなものか知ろうとし、そのように知ろうとしている自分がなくなってしまうのだと気づき、慄然としたことがある[要ページ番号]。兄・河合雅雄によると、幼少期の隼雄は繊細で泣き虫で、靴下がはけない、霜焼けがかゆい、好きな先生が転任だというような些細なことで泣いていた。一方で理屈で相手を言いくるめることが得意で逆に理屈で言い負かされたりすると相手を涙目で睨み返すようなことがあったが、同時に人の心を見透かす能力を備えており、母親は「隼雄はこわい」とつぶやくこともあった。このため家族内では「見抜き人」というあだ名を付けられていた。既成概念にとらわれず自分の頭で考え、ときに過激な発言もし、小学5年の時には「進化論的に言えば、天照大神は一番サルに近いということか」と言ったという。 感受性の強い時期に軍国主義が台頭、「日本精神」、「大和魂」などの洗礼を受けたため、「日本嫌悪症」が強くなり、文学、芸術などは西洋一辺倒となり日本に関する文化にはすべて無関心に過ごす。その後、海外へ行く機会が多くなったことでようやく日本嫌悪症は治まり、老年期に至りようやく関心を持ち始める。しかし、能だけは若いころより関心があった。のちに世阿弥の『九位』に特に関心を示したが、心理療法家として人間の「心の成熟」を常に考えていたため興味をそそられたと述べている[要ページ番号]。
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