薔薇戦争 第二次内乱

薔薇戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 02:30 UTC 版)

第二次内乱

ウォリック伯の反乱

A Chronicle of England、1864年。
未亡人となったエリザベス・ウッドヴィルがエドワード4世の元へ領地の返還を請願に訪れたことが出会いとなった。彼女との身分違いの結婚が後の動乱を招くことになった。

エドワード4世擁立の立役者となったウォリック伯は、イングランド最大の土地所有者になっていた。妻の財産によってすでに傑出した大貴族になっていたが、その上に父の領地を相続し、さらには没収されたランカスター派貴族の領地をも与えられていた。彼には五港長官職とカレー守備隊司令職が与えられた[92]。ウォリック伯は親仏派の立場をとり、エドワード4世とフランス王族との縁組をルイ11世と交渉していた[93]。しかし、エドワード4世はランカスター派騎士の未亡人のエリザベス・ウッドヴィルと1464年に秘密結婚をしていた。後にエドワード4世はこれを「くつがえせない事柄」(fait accompli)として公表し、縁談を進めていたウォリック伯の面目を失わせることになった[94]

エドワード4世はエリザベス王妃の父リチャード・ウッドヴィルをリヴァーズ伯に、弟のアンソニーをスケールズ卿に、そして連れ子のトマス・グレイ英語版をドーセット侯となし、親族の多くを貴族と結婚させ、その他の者たちも爵位や官職を授与した[95]。エドワード4世はウッドヴィル一族の重用に留まらず、側近たちにも爵位を与え、さらにはネヴィル一族の宿敵であるパーシー家の遺児ヘンリー・パーシーにノーサンバランド伯爵位を返還させ、独自の党派形成を策した[90]

ウォリック伯リチャード・ネヴィル。
第一次内乱ではエドワード4世即位に大功あり、第二次内乱ではヘンリー6世を復位させたことにより、後世「キングメーカー」(国王製造人)の異名を受けた[n 4]

エドワード4世がフランス国王との同盟ではなく、ブルゴーニュ公シャルル(突進公)に王妹マーガレットを嫁がせて同盟を結んだことや、弟のクラレンス公、グロスター公とウォリック伯の娘たちとの縁組に乗り気でなかったこともウォリック伯を失望させる要因となっていた[96]。エドワード4世もウォリック伯の弟のヨーク大司教英語版ジョージ英語版を尚書部長官職から解任して、ネヴィル一族排除の動きを見せる[97]

ウォリック伯は任地のカレーから国王の不正を糾弾するとともに、エドワード4世の意に反してウォリック伯の娘イザベルと結婚した王弟クラレンス公ジョージと盟約を結んだ[98]。1469年4月、ウォリック伯の扇動によって北部地方でレデスデールのロビン英語版の反乱が起き、エドワード4世は鎮圧に赴いた。ウォリック伯はカレーの軍勢を率いてケントに上陸するが、エドワード4世は7月6日のエッジコート・ムーアの戦いで反乱軍に敗れていた[90]。エドワード4世はバッキンガムシャーのオルニーで捕らえられ、ヨークシャーのミドルハム城に幽閉された[90]。ウォリック伯は王妃の父リヴァーズ伯と弟ジョン英語版を処刑し、エドワード4世の側近たちも粛清したが、エドワード4世自身の非合法性を唱えてクラレンス公を擁立する動きをすぐには起こさなかった[99][n 6]

国内は大混乱に陥り、貴族たちは再び私兵を用いた抗争を始め、ランカスター派は反乱を扇動した[100]。ウォリック伯の権力掌握を支持する貴族はわずかだった。エドワード4世はヨーク大司教ジョージに伴われてロンドンに入り、ウォリック伯と表面的な和解をなした。

1470年3月、リンカンシャーでさらなる反乱が起った。エドワード4世はウォリック伯と疎遠な者を選んで国王軍を召集し[90]ルーズコート・フィールドの戦いで反乱軍を打ち破った。捕虜になった首謀者はウォリック伯とクラレンス公の教唆による反乱であったと証言した[90]。彼らは反逆者と宣告され、フランスへの逃亡を余儀なくされた。

ヘンリー6世の復位と死

マーガレット王妃に忠誠を誓うウォリック伯。
A Chronicle of England,1864年
ウォリック伯の最後。
A Chronicle of England,1864年

フランスにはマーガレット王妃とその息子が既に亡命していた。エドワード4世と彼の義弟にあたるブルゴーニュ公シャルル(突進公)との同盟に危機感を持ったフランス王ルイ11世はウォリック伯とマーガレット王妃との同盟を提案した[101]。不倶戴天の敵同士だった両者は同盟に合意し、ウォリック伯は王妃に敵対行為を謝罪して忠誠を誓い、ウォリック伯の娘アンとマーガレット王妃の子エドワード・オブ・ウェストミンスターとの婚姻が成立した[67][102]

この時、エドワード4世はヨークシャーでの反乱を鎮圧すべく軍を率いて北上中だった。従兄弟のトマス・ネヴィル英語版率いる艦隊の支援を受けたウォリック伯とクラレンス公はイングランド南西部のダートマスに上陸した[90]。ウォリック伯は10月にロンドンを占領し、幽閉されていたヘンリー6世を復位させてロンドン市街を行進させたが、獄中生活で憔悴しきり、文字通りの「影の薄い」姿だったという[103]。新たにモンターギュ侯爵位(実際の所領はなかった)を与えられたジョン・ネヴィルは、大軍を率いてスコットランド辺境部へと兵を進めた。この事態はエドワード4世にとって予想外のことであり、軍隊を解散させると王弟グロスター公とともにドンカスターから海岸部に逃れてホラントに渡り、ブルゴーニュに亡命した。だが、この段階になってもマーガレット王妃とエドワード王子はウォリック伯を信用せず、フランスから動こうとしなかった[90]

ウォリック伯の成功は短命なものであった。親仏派のマーガレット王妃とウォリック伯が牛耳るイングランドとフランスとの同盟成立に危機感を持ったブルゴーニュ公シャルルはこれに対抗すべく、エドワード4世にイングランド奪回のための軍を集める資金を提供する[104]

1471年3月15日、エドワード4世はドイツとフランドルの傭兵からなる少数の軍勢とともにヨークシャー海岸のレーヴェンスパー英語版に上陸した[105]。彼はすぐにヨークの町を手に入れ、支持者たちを集めた。これを討つべくノーサンバランド伯、エクセター公、オックスフォード伯、ウォリック伯の軍が差し向けられた。討伐軍をすり抜けてロンドンに向けて南下するエドワード4世の軍に、ウォリック伯を見限ったクラレンス公が合流した[105]。4月11日、エドワード4世とクラレンス公はロンドンに入城し、ヘンリー6世を逮捕した[106]

4月14日、エドワード4世とウォリック伯の軍はバーネットの戦いで決戦をした。この会戦は深い霧の中で戦われ、ウォリック伯軍の一部は同士討ちを演じている[105]。裏切りが発生したと思い込み混乱状態になったウォリック伯軍にエドワード4世軍の騎兵が突入し、ウォリック伯軍は総崩れになった[105]。ウォリック伯は馬に乗ろうとしたところを斬られ、モンターギュ侯も戦死した。

テュークスベリーの戦いに敗れ、連行されるマーガレット王妃。
John Gilbert画。1875年。

一方、マーガレット王妃とエドワード王子はバーネットの戦いの数日前に西南地方(ウェスト・カントリー)に上陸していた。フランスに引き返すよりはウェールズのランカスター派と合流することを選んだマーガレット王妃は、セヴァーン川の渡河を図るが、グロスター公が通行を阻止したために失敗した[105]。第4代サマセット公エドムンド・ボーフォートが指揮する彼女の軍隊は捕捉され、5月4日のテュークスベリーの戦いで壊滅した。

捕らえられたエドワード王子とサマセット公は処刑された。戦いからしばらく後の5月14日にヘンリー6世も、ヨーク王朝を強固たらしめるために殺害された。マーガレット王妃はフランス王ルイ11世が身代金を支払うまでの5年間、ロンドン塔に幽閉された[107]。帰国後はフランス王にアンジュー家領の相続権を剥奪され、失意と貧窮の中で1482年に没した[108]

第二次内乱関係図表

エッジコート・ムーア
ルーズコート
フィールド
バーネット
テュークスベリー
ロンドン
カレー
ダートマス
青文字:ヨーク軍勝利
赤文字:ウォリック伯&ランカスター軍勝利
番号 会戦名 年月日 結果
エッジコート・ムーアの戦い 1469年7月26日 ウォリック伯軍勝利
ルーズコート・フィールドの戦い 1470年3月12日 ヨーク軍勝利
バーネットの戦い 1471年4月14日 ヨーク軍勝利
テュークスベリーの戦い 1471年5月4日 ヨーク軍勝利
主要人物
ヨーク派 ウォリック伯& ランカスター派
–戦死または処刑
–ヨーク派に寝返り。

注釈

  1. ^ a b 紋章ではなく使用人のお仕着せ(定服)やスタンダード(軍旗)に用いるシンボル。森(2000),p.274.
  2. ^ 対外平和主義のヘンリー6世は和平派と立場が一致しやすく、ヨーク公と対立するサフォーク公やサマセット公の影響力が増すことになった。青山他(1991),p.418-419.
  3. ^ a b サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポールは1444年に侯爵、1448年には公爵に昇進している。
  4. ^ a b 「キングメーカー」の異名は同時代のものではなく、半世紀後のジョン・メージャーの『大英国史』(1521年)が初出である。森(2000),pp.275-276.
  5. ^ ワイズ(2001)(p.13.)による。両軍の兵力および犠牲者数は資料によって差異がある。
  6. ^ ウォリック伯はエドワード4世は母セシリー・ネヴィルの不義密通による私生児であり、クラレンス公こそがヨーク公リチャードの正統な血筋であるとの噂を流していた。この醜聞話はリチャード3世の簒奪時にも利用された。
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  7. ^ ヘンリー5世の死後にキャサリン・オブ・ヴァロワ(ヘンリー6世の母)とオウエン・テューダーが秘密結婚をして3男1女が生まれた。石井(2006),pp.12-13.
  8. ^ ヘンリー6世在位時の16家の大貴族のうち、無傷だったのはアランデル伯家とウェストモーランド伯家の2家のみだった。ワイズ(2001),pp.4-5.
  9. ^ 1590年代後半につくられた『リチャード二世』、『ヘンリー四世 第1部』、『ヘンリー四世 第2部』、『ヘンリー五世』は「第2・四部作」と呼ばれている。シェイクスピア大事典(2002),p.25,28.

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  172. ^ BBC Shakespeare collection, BBC édition, 14/11/2005. VO anglaise sans sous titrages français. Ref. BBCDVD1767 Cette série a été diffusée sur fr:France 3 au milieu des fr:années 1980 (Diffusion de Henri VI sur fr:France 3 en nov. 1984 ; source : fr:Le Nouvel Observateur du 09/11/1984, p.23)
  173. ^ 商品詳細|白薔薇の女王(下)”. メディアファクトリー. 2012年7月1日閲覧。






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