十返舎一九
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/30 00:02 UTC 版)
十返舎一九 | |
---|---|
![]() | |
誕生 |
明和2年(1765年) 駿河国 府中(現静岡県 静岡市 葵区) |
死没 |
天保2年8月7日(1831年9月12日) 武蔵国 江戸(現東京都) |
墓地 | 東陽院(東京都中央区) |
職業 | 戯作者 |
国籍 |
![]() |
活動期間 | 1789年 - 1822年 |
ジャンル | 黄表紙・滑稽本・合巻 |
代表作 | 『東海道中膝栗毛』 |
デビュー作 | 『心学時計草』 |
![]() |

生涯
家系や出生には不明な点が多い[1]。千人同心(十人同心)の子とする説や、駿河国府中(駿府:現在の静岡市葵区)で代官丹後の子として生まれたとする説もある[1]。生家は駿河で、駿府町奉行の重田氏に養われたことは確かである[1]。葵区両替町一丁目に、生誕の地の碑が建っている。
江戸に出て武家奉公をし、天明3年(1783年)までに大坂へ移り、大坂町奉行・小田切直年に勤仕したとされるが、確たる証拠はない[1]。寛政元年(1789年)(25歳)、近松与七の名前で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』(このしたかげはざまがつせん)を合作した[1]。材木商に入り婿として入るが、ほどなく離縁する[1]。
寛政6年(1794年)(30歳)、江戸へ戻り、通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)の版元・蔦屋重三郎方に寄食して[1]、用紙の加工や挿絵描きなどを手伝った。寛政7年(1795年)、蔦屋に勧められて黄表紙『心学時計草』ほか3種の黄表紙を出版し[1]、翌年からは毎年10種以上の黄表紙を刊行した[1]。一九は文才にくわえ絵心があり、文章だけでなく挿絵も自分で描き、版下も書くという、版元に便利な作者であった。狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語、川柳などに詳しく、狂歌は三陀羅法師に学び神田派に属した[1]。
また、黄表紙のほか、洒落本、人情本、読本、合巻、狂歌集、さらには教科書的な文例集まで書いた。筆耕・版下書き・挿絵描きなど、自作以外の出版の手伝いも続けた[要出典]。寛政から文化期に自ら「行列奴図」や、遣唐使の吉備真備を描いた「吉備大臣図」などの肉筆浮世絵を残している。
享和2年(1802年)に出した『東海道中膝栗毛』が大ヒットして、一躍流行作家となった[1]。当時の生活について「最近ではいつも出版元から係の人がきて、机の横で原稿ができあがるのを待ってます」と、現代にも通じる作家生活を描写している[要出典]。文政5年(1822年)までの21年間、次々と『膝栗毛』の続編を書き継いだ[1]。頻繁に取材旅行に出かけ、山東京伝、式亭三馬、曲亭馬琴、鈴木牧之らとも交わった。また並行して出した『方言修行 金草鞋』(むだしゅぎょうかねのわらじ)も広く読まれた。
文化7年(1810年)46歳のときに眼を病み、しばしば再発した。文政5年(1822年)58歳のときに中風を患い、その後は「名を貸しただけなのでは」と疑われる、一九らしくない作風の「著書」も混ざった[要出典]。晩年は創作には手を出さず、飲酒により身体に不自由をきたし、孤独な最後だったとされる[1]。天保2年(1831年)8月7日、67歳で没した。辞世の句は「此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには 灰左様なら 」。
浅草の東陽院に葬られた[2]。戒名は心月院一九日光信士。墓碑は東京都中央区勝どき四丁目に移転した同院に残る[2]。墓碑には辞世の句として「此の世をは とりやお暇に線香の 煙とともに灰さようなら」とある[2]。天保3年(1832年)遺族・門弟らによって、長命寺に建てられた記念碑が残る。また、静岡市葵区研屋町(とぎやちょう)の医王山顕光院には重田一族の墓が建ち、一九の戒名が刻まれている。
一九の死後、糸井武が二世十返舎一九と名乗るものの失踪したため[1]、三亭春馬が二世十返舎一九を名乗った[1]。
作風
山東京伝や曲亭馬琴に比べると、知的な教養に欠け、創意工夫や緻密さに欠ける[1]。その一方で、読者の嗜好をいち早く察知し、先行作品を巧みに脚色編集する能力に長けていた[1]。総作品数は580種を超え、馬琴と並ぶ近世文学史上の最多作者とされる[1]。また、戯作の執筆のみで生計を立てた最初の人物とも言われる[1]。
- 1 十返舎一九とは
- 2 十返舎一九の概要
- 3 人物・逸話
- 4 主な作品
- 5 刊本(膝栗毛以外)
- 6 伝記など
十返舎一九と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 十返舎一九のページへのリンク