新潟の景浦家・小林家
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「あぶさんの登場人物」の記事における「新潟の景浦家・小林家」の解説
景浦 安造(かげうら やすぞう) 安武の実の父。魚河岸で働いていた。安武は下戸と聞いていたが実は大酒豪(その酒豪ぶりは友人・半兵衛の口から語られる)で、安武誕生と共にきっぱり断酒した。安武が子どもの頃病気に罹った時には、3人の医者を連れてきて誰が一番先にその病気を治せるか競わせようとしたこともあるほど、安武を可愛がる父親の側面も持っていた。1952年没。 小林 花子(こばやし はなこ) 安武の実の母。生年月日不詳。新潟県新潟市中央区学校裏町在住。魚河岸で働いていた。結婚前は呉服問屋の一人娘だった。 「女うわばみ」と異名を取り、息子である安武にも勝るとも劣らない酒豪。安造と死別後、満の父と再婚。連れ子の満を実子と同じ深い愛情を注いでいる。むしろ、野球の勝負については安武に厳しく満に甘く、安武が勝つと怒るほど。なお再婚に際しては「(安武が帰郷しやすい様に)自分の住んでいた家で暮らすこと」を条件にしている。1974年夏、藤井寺球場で行われた高校軟式野球の全国大会に出場した満の応援で来阪。その夜に「大虎」を訪れ安武を取り巻く温かな環境を知り、安心して夜行寝台特急・つるぎに乗る。そのときは虎次郎もサチ子も安武の実母だとは全く気が付かなかった。1978年の自主トレの際はトラックで中百舌鳥に乗りつけ、鰤を土産に広瀬監督らに挨拶している。 但し、満が甲子園初戦でサヨナラ負けしたことが描かれている回の最後のコマで身分を明かしていないという設定にも関わらず、「大虎」で「終わったんじゃのお、満の夏も」と身内そのものの発言をしている。 基本的に鷹揚で大らかな女性だが、安武が野花食品野球部を退部して帰郷してきた時には、心を鬼にして有無を言わせず追い返す非情さも見せている。一方、西武時代の満が頭部に死球を受けた時には、即見舞いに飛び出していったこともある。真田母子との同居もすんなり引き受けるなど度量も大きい。 安武の引退にあたっては最後に着用していたユニホームをそのままプレゼントされ、感謝の言葉を受けた。2000年の開幕時に安武から小林共々試合に招待されていた(その試合は安武の3000試合出場試合でもあった)が、病気で倒れて入院したため観戦はかなわなかった(景虎は見舞いに訪れたが、安武はそのまま試合に出た)。その後、程なく回復。 新潟開催の試合は足繁く観に行っていたほか、神宮・東京ドームなどで安武や満のプロ入り後の試合を観戦したことがある。 小林(こばやし) 花子の夫であり満の実父。下の名前は不詳。年齢は不詳だが、1984年の定年退職直後の時点で自分の人生について「もっと中身のある32年を過ごせたんじゃないかと後悔している」という台詞がある。 下戸で温厚な紳士。勤務先は「朱鷺」を製造する酒造会社。趣味は将棋で、大山名人署名入りの駒が自慢。安武とも実の親子同様に心が通じ合っている。定年退職後は書道教室を開き、少しずつ酒も飲めるようになる。宛名書きのアルバイトをしたことがある。 花子との再婚に応じたきっかけとして、安武の存在があったことを明かしている。花子について試合を観に行くことも多い。満の現役引退の際は、その意思をいち早く察知した。 小林 満(こばやし みつる) 日本ハム(1977年 - 1980年) - 南海(1981年 - 1984年) - ヤクルト(1985年 - 1989年) - 西武(1990年 - 1997年) - ダイエー(1998年) - 阪神(1999年 - 2000年) - 近鉄(2001年) 安武の義理の弟(父・小林の連れ子)。プロ野球選手→中学校教諭。1958年度生まれ。 1973年暮れに安武と初対面。翌年に軟式野球の全国大会に出場するも1回戦負け。1976年、監督以下チームメイト等の説得で軟式野球から硬式に転向、強肩強打の外野手として甲子園出場を果たす。甲子園では初戦、最終回無死満塁のピンチにリリーフに立つも大暴投でサヨナラ負け。 しかし、その肩の地力を日本ハムファイターズの瓜生スカウトに見抜かれ、投手としてドラフト4位指名で入団。背番号は「景浦安武(90番)を超える」という意味から当時の大沢啓二監督の一言で「91」番となる(小林本人は「89」番を所望した)。ちなみにノンプロ新潟水産に就職が内定していた。1977年のオープン戦、安武との初対決では死球を与え、安武が担ぎ込まれた病院に見舞いに行きかけるが、直前で引き返した。 南海の野村選手兼任監督(当時)は「越後の新米」と絶妙のあだ名をつける。同年は2軍で鍛え、1軍デビューは翌1978年、安武を三振に討ち取り、大沢監督は「これぞ火の玉投手でぇ!」と誇らしげに哄笑する。翌1979年、近鉄戦で連続スクイズによるサヨナラ負けを喫するが、対戦した佐々木恭介も栗橋茂もバットを折られた挙句の苦し紛れのスリーバントだった。 ただ、プロ入り当初はプロ野球選手としての自覚に欠ける部分があり、そのことを安武に看破され、言葉でなく行動で猛叱咤を受けたため、心機一転の意味も込めて丸坊主にしたこともある。また、若い頃は少々血気にはやる部分のある性格だった(後述の、肩の故障で投手を断念せざるを得なくなった時など)。 1981年、俵星外野手とのトレードで南海ホークスに移籍。背番号は日本ハム時代と同じ「91」。 同年、阪急戦に松本幸行と投げ合い、1-0で勝利。その試合で和子にほのかな恋心が芽生えた。また景虎と夏子の子守をするシーンも多く見られた。この頃には自動車の免許を取得していたらしく、枡幸から借りた軽トラックを運転して引っ越しの荷物を運ぶ描写がされたことがある。 プロ7年目の1983年、キャンプ途中で肩を痛め、野手に転向。当初は荒れ狂って、見かねた虎次郎や山田屋から叱責されるも、「なにわ荘」自室にあった安武のバットを手にして思い直し、必死のリハビリと努力の末、義兄・安武とともに打者として活躍する。安武がやるような酒しぶきを披露したこともある。 プロ9年目の1985年、ヤクルトスワローズに移籍(その直前には、プロゴルファーへの転身も真剣に考えていた)。背番号は当初日本ハム・南海時代と同じ「91」だったが、その後当時の空き番号「2」に変更している。当時の水島作品である『虹を呼ぶ男』ではヤクルトが舞台なため、台詞こそないが後ろ姿で登場している。 1989年には倉田洋子と結婚(後に西武への金銭トレードの際に離婚するが、その後復縁して一児をもうける)。 この頃三塁手にコンバートされたことがあり、長嶋一茂やデシンセイらとレギュラーの座を争っているといった話はあったが、三塁手としてのプレー描写はほとんどされなかった。また、「大虎」に長嶋一茂やボブ・ホーナーを連れてきたことがある。ライオンズ移籍後は外野手に戻っている。 ホークスでの打者転向以来、スワローズ、ライオンズ(背番号「0」→「00」)と主に代打として活躍してきたが、西武ライオンズ時代の1995年、プロ19年目・37歳でオリックスのイチローと同率首位打者に輝き、かなりの遠回り・遅咲きではあるが外野(主に左翼手)のレギュラーを獲得する。この際、片平晋作コーチとの共同作業により一本足打法を習得しているほか、石毛宏典らの助言で長打を捨てセンター返しを狙う打撃スタイルに変えた。それらのことが首位打者獲得の一因とも言える。また、そのスタイルの徹底ぶりから、ダイエーの根本陸夫監督に専用シフトを作らせるまでに至った。 その後、1997年オフにFA宣言して、福岡ダイエーホークスに移籍。背番号は「93」。1998年の1年間だけ再び安武と兄弟でプレーし、一時は引退を決意するが、当時の阪神タイガース・野村克也監督の誘いで捕手として阪神に入団(背番号「92」)。その後、現役最晩年には大阪近鉄バファローズに移籍し、甥の景虎とバッテリーを組んだ(背番号は同じく「02」)。 2001年オフに現役引退。引退後は監督に就任した元同僚・石毛宏典の引きでオリックス・ブルーウェーブにコーチとして入団。石毛解任後も残り、球団合併後もオリックス・バファローズでコーチを勤めていた。 投手(1977年~1982年)としての6年間は素質の割にはさほど華々しい実績はなく、打者転向後(1983年~2001年)も前半の10年近くを控えの外野手・内野手・代打として数球団を渡り歩きながら、後年は首位打者や遅咲きのレギュラーを獲得したり最晩年は捕手に転向して甥の景虎とバッテリーを組むなど、苦労しながらもコツコツと野球を続けて44歳で引退するまでのべ7球団(その間、安武と2回チームメイトになっている)、複数のポジション・打順を渡り歩きながら、首位打者のタイトルを獲得するまでになり、合計26年間に及ぶ現役生活を勤め上げた。同時に、年齢を経るごとに精神的な落ち着きや洞察力、更には思考の柔軟性も出てきた。そのことが景虎の選手生活の選択にも影響を与えることとなる。 退団後、中学校の教員免許を取得し、教職の道に進む。岐阜県在住の後、2012年、春野和子の長男、安武の通う中百舌鳥北中学校に赴任し、野球部の監督に就任した。その後は「大虎」の常連客ともなっている。 後述の大山哲矢からライバル視されていた時期がある。憧れの人物でもあった安武には当初は基本的に「です・ます」調で話していたが、加齢と共にフランクな口調も使うようになった。女性とは、目立った関係は描かれず、新潟の同級生、カコ、そして倉田洋子との交流があった程度。交際までしたのは洋子のみ。 倉田 洋子(くらた ひろこ) 満の妻。倉田は旧姓。満のヤクルト在籍時に婚約者として「酒の店」で安武と店主・鈴木(その際、鈴木に仲人を依頼しようとした)に引き合わせた。その後結婚。父親はその時点でも反対していたが、披露宴の最中に夏子のとった行動によって心がほぐれ、結婚を認めた。満を見初めたのは巨人戦で一生懸命にプレーをする姿をたまたま目撃したことがきっかけ。 しかし、西武移籍を巡って対立し一度は離婚。だがその後、東京ドームでのオールスター戦を観戦した際に小林夫妻と再会。溌剌としたプレーを見せる満の姿を見て、自分の判断が間違っていたと小林夫妻に告白。更にその試合後に安武や満と再会したことをきっかけに満と復縁した。復縁後に子ども(長男・真)を授かった。
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