教育年限短縮問題
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1943年(昭和18年)5月に、同年12月に入校する75期の採用数が3,500名と決まり、その受け入れのため、山口県・岩国海軍航空隊に教育施設を増改築して、11月19日に「海軍兵学校岩国分校」として開校させ、75期の入校に間に合わせた。76期(1944年(昭和19年)10月9日入校)以降の受け入れのための「海軍兵学校大原分校」(1944年(昭和19年)10月1日開校、江田島本校近く)、1945年(昭和20年)4月入校の78期のために長崎県・佐世保軍港近くの針尾海兵団の施設を改築して1945年(昭和20年)3月1日に開校した「海軍兵学校針尾分校」、いずれも、井上が校長在任中に建設を進め、開校にこぎつけたものである。 1943年(昭和18年)12月1日、75期の3,500名は、兵学校史上空前の人数で、採用試験、選考、受け入れには多くの困難があった。75期の志願者は5万名に達し、全国各地の試験場での身体検査でまず35%を落し、残る65%から学術試験でさらに70%を落し、採用候補者は約20%の9,700余名に絞り込まれ、その中で、兵学校当局者が選考して入校を許可した75期の3,500名は「全国の中学校から、身体・学術共に最優秀の若者の大半を江田島に集めた」ものだったが、戦争の激化により、中学生の学力は、主に「教員の応召による不足」と「勤労作業による授業時間の減少」によって戦前より一般に低下しており、さらに学術軽視の風潮もあり、特に理数科の学力低下が甚だしかった。井上は75期の入校直後に理数科について全員の実力査定を行い、成績不良者には特別教育を行って「落伍者(退校者)を出すな」という自身の教育方針を実践した。 海軍省軍務局は、75期の大量採用を決定する一方で士官搭乗員の急速養成策を検討していた。軍務局は兵学校の修業年限を短縮し、早期に飛行教育に移行させようと考えていた。井上が兵学校長に着任した直後の1942年(昭和17年)11月14日に卒業した71期までは3年の修業年限を確保していたが、72期については、軍務局と兵学校当局が協議して、修業年限を2か月短縮して2年10か月とし、1943年(昭和18年)9月に卒業させた。軍務局は兵学校のさらなる修業年限短縮を検討し、73期は修業年限を2年6か月として1944年(昭和19年)6月に、74期は2年として同年11月にそれぞれ卒業させる案を、兵学校を所管する海軍省教育局に提示した。だが、海軍省教育局長は井上が第四艦隊長官だった時に参謀長を務めた矢野志加三少将であり、兵学校長の井上と直に連絡を取りながら兵学校の教育年限短縮に強硬に反対し続けた。 矢野は井上の意見を反映させて「兵学校を卒業した兵科将校は、直ちに海軍中堅幹部として指揮権を行使するため、充分な基礎的教養が必要。航空将校であっても、航空専門の技能だけでなく、海軍全般についての基礎知識、部下を指揮統率するための識量を兵学校で学ぶべきなのは同じ。本来、このためには4年の修業年限が必要だが、今では3年に短縮されている。いかに兵学校当局が工夫を凝らしても、3年でも不十分なのが現状であるのに、さらに修業年限を短縮されては、粗製濫造の兵科将校ばかりになってしまう。中学生の学力・体力の低下が見られることも重視すべき。兵学校の3年の教育年限をこれ以上短縮しないことで、士官搭乗員の量的要求に応えられなくなったとしても、海軍幹部の中心を確固たらしめるためには甘受すべきと考える。」という意見書を1943年(昭和18年)4月15日(推定)に提出した。この日、矢野は井上に直接電話し「明日、16日午前の戦備打ち合わせ会で、軍務局の提案通りに73期・74期の修業年限短縮が決定される見通しである。私(矢野)独り反対しても、押し切られそうな情勢である」と伝えた」矢野からの電話連絡を受けた井上は、即座に、自ら「これ以上に年限を短縮されては、兵学校長として生徒教育に自信が持てない」旨の電文を自ら書き、海軍次官の沢本頼雄宛に発信するよう副官に命じ、加えて「電報を打つと同時に海軍省副官に対し『この校長からの電報は、明日の戦備打ち合わせ会の開会前に必ず沢本次官に見てもらうよう取り計らってくれ』と電話をかけること」を指示した。 矢野と井上の努力により、4月16日の戦備打ち合わせ会では軍務局の年限短縮案は決定に至らなかった。その後、中央から井上への説得がしきりに行われ、軍令部や航空本部の中堅が大挙して江田島に押しかけたこともあったが、井上の態度は変らなかった。しかし、1943年(昭和18年)11月のろ号作戦やギルバート諸島沖航空戦での海軍航空隊の甚大な被害により、海軍大臣・嶋田繁太郎が、73期の教育年限を8か月短縮して2年4か月に短縮して、1944年(昭和19年)3月に卒業させるよう発令した。井上も、直属上司である嶋田の決定には従わざるを得ず、73期に対しては、夜間授業まで含む「終末教程」を作成して、少しでも多くのことを学ばせた。 一方で、海軍中央では74期・75期の修業年限をかねての軍務局案のように2年程度に短縮しようとしていた。1944年(昭和19年)3月22日の73期の卒業式には、天皇の名代として、大佐で軍令部員だった高松宮宣仁親王が臨席した。卒業式の後、高松宮は井上に「教育年限をもっと短縮できないか」と下問し、井上が「その御下問は、宮様としてでございますか。それとも軍令部員としてでございますか」と反問すると宮は「むろん後者である」と答えた。井上は「お言葉ですが、これ以上短くすることは御免こうむります」と答え、高松宮に生徒教育について日頃考えていることを説明した。井上は「宮様は 『そうか、そうか』 とうなずいておられました。年限短縮の問題は宮様ご自身のお考えではなく、軍令部あたりの者が宮様に頼んで、頑固な井上を動かそうとしたのでしょう。その人たちは『前線で士官が不足して困っているときに…』と、私が卒業を早めることに反対するのを怒っていたようです。私を私かに国賊だなどという者がいたのもその頃だった」と回想する。 5月19日、永野修身元帥が兵学校を視察した。永野は井上に「修業年限短縮」を切り出したが、井上は「青田を刈ったって米はとれません」とはっきり断った。 この頃、海軍省教育局と兵学校企画課との間で交渉を重ねた結果、下記のような結論が出た。74期の就業期間は73期と同じく2年4か月とし、これ以上の短縮はしない。その代わり、74期以降は在校中から航空班と艦船班に分け、適当な時期から軍事学についての教育を分離する。航空班の生徒については、霞ヶ浦練習航空隊における飛行学生基礎教程の一部を、生徒時代から繰り上げて実施する。この案は、長期的に見ると、兵科将校の養成上、多少の歪みをもたらすことになるが、戦時下の特別措置として止むを得ないとし、井上も、「年限短縮」にブレーキがかかったので同意した。しかし、軍令部などでは一層の兵学校の修業年限短縮を求める意見が強かった。井上が、兵学校の教育年限短縮問題で一部の者から国賊呼ばわりされていた頃、鈴木貫太郎大将が兵学校を訪れた。鈴木は、井上が兵学校卒業後の遠洋航海で乗組んだ巡洋艦「宗谷」の艦長だった。校長室で鈴木が「教育の成果が現れるのは20年さきだよ、井上君」と言うと、井上は大きく頷いた。その後、二人は暫く黙って向かい合っていた。 1944年(昭和19年)に入ると、「戦勝の見込みがつくまで、兵学校を術科学校化して、すぐに役立つ初級士官を養成すべし」とする意見が、海軍中央はもとより、兵学校武官教官の多数から発せられるようになっていた。兵学校武官教官の中には、職を賭しても兵学校の教育理念(普通学重視)と修業年限を守ろうとする井上の態度を奇異に感じていた者もいた。中央の一部の者から井上が国賊呼ばわりされるのも止むを得ない時代であった。井上は「もうその頃になると、戦争の将来がどうなるかははっきり見通しがついていました。仮に戦争に勝ったとしても、戦後海軍に残るのは一部の者だけで、相当数は社会に出て働かなければならない。まして敗戦の場合はなおさらです。生徒に対し、どうしてもまとまった教育をしておくのは今の時期しかないと思ったのです。今やっておかずに、卒業後に自分でやるといっても実際はできるものではない。まして戦時中はなおさらのことです。戦争だからいって早く卒業させ、未熟のまま前線に出して戦死させるよりも、立派に基礎教育を今のうちに行ない、戦後の復興に役立たせたいというのが私の真意でした。しかし、当時敗戦の場合のことなど口に出して言えるものではありませんでしたし、また言うべきことでもありません」と回想する。 戦後、井上は兵学校の話となると必ず75期に言及した。75期は兵学校に入って1年8か月で生徒のまま敗戦を迎え、戦後社会の各分野に散らばった。下記は、井上が、75期のクラス会に1971年(昭和46年)12月に送ったメッセージの一部である。「諸君は昭和20年8月、帝国海軍の滅亡と共に、誠に無情な世の中に放り出されて、その日から、食べることから、寝ることまで、自分で何とかしなければならなかった人もあり、会いたい近親の消息も知れなかった人もあったことでしょう。また、家族的に恵まれた人でも、大学を受験すれば1割までしか入学を許せぬとの差別扱いや、世の中から冷やかな目で見られる等、悔しい目に遭った様でしたが、これらの不遇を見事に克服し、今日では「吾ここに在り」と胸をたたいて、堂堂と立派な社会活動をやっており、世人の高い評価を受けております。この2、3年の海軍ブーム!! これを招来したのは諸君!吾が教え子でなくてほかに誰がありますか!! 吾が教え子よ、春秋に富む諸君よ、今後も、健康で、現在の堂堂たる態度で、社会に貢献して世の後進を導き、海軍精神を後世に残したまえ」。 兵学校の武官教官で、兵75期生徒採用委員の一人であった前田一郎少佐(兵57期、のち中佐)が、地方の兵学校採用試験会場で、「脚に軽い障害があるが、現地での身体検査では合格した。筆記試験の成績は優秀で、前田の観察では人格も優秀」な受験生が、「入校予定者」として江田島に来た。脚の障害を見て取った前田の上官(生徒隊監事)が「あの入校予定者は不合格。直ちにその旨言い渡せ」と言った。前田自身、脚に障害のあるその入校予定者が、兵学校の厳しい訓練に耐えられないと生徒隊監事が判断するのは理解できた。前田の躊躇を見て取った生徒隊監事は「兵学校練兵場のトラックを、他の予定者と、あの予定者と一緒に全力疾走させるんだ。一番ビリ、しかもずうっと遅れたら、自分で納得するよ」と前田に指示した。400メートル全力疾走の結果は、生徒隊監事の予想通りで、前田もほっとした。だが、ゴールにようやくたどり着いた入校予定者は「教官、私をこの兵学校で鍛えて下さい。私は、あの人たちに負けない生徒になってみせる自信があります」と、生徒隊監事と前田が全く予想しないことを言った。当惑した前田を、一部始終を遠くから見ていた井上が呼んだ。井上は、前田に「あの生徒はどんな人物か」と聞き、前田が「実に立派な人物です」と答えると、無造作に「海軍生徒になってから事故で怪我をしたと思えばいい。将来は航空関係の技術士官に向ける道もあろう」と言った。井上の決断で兵75期の一員として兵学校に入校し、敗戦までの1年8か月を無事に過ごしたこの生徒は、某国立大学で宇宙航空研究所の教授となっている(1982年(昭和57年)現在)。後の資料から、このは砂川恵東京大学名誉教授である事が確認されている。
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