教育年限短縮問題とは? わかりやすく解説

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教育年限短縮問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

井上成美」の記事における「教育年限短縮問題」の解説

1943年昭和18年5月に、同年12月入校する75期採用数が3,500名と決まり、その受け入れのため、山口県岩国海軍航空隊教育施設増改築して、11月19日に「海軍兵学校岩国分校」として開校させ、75期入校間に合わせた76期(1944年昭和19年10月9日入校)以降受け入れのための「海軍兵学校大原分校」(1944年昭和19年10月1日開校江田島本校近く)、1945年昭和20年4月入校78期のために長崎県佐世保軍港近く針尾海兵団施設改築し1945年昭和20年3月1日開校した海軍兵学校針尾分校」、いずれも井上校長在任中に建設進め開校こぎつけたのである1943年昭和18年12月1日75期の3,500名は、兵学校史上空前人数で、採用試験選考受け入れには多くの困難があった。75期志願者5万名に達し全国各地試験場での身体検査でまず35%を落し、残る65%から学術試験でさらに70%を落し採用候補者は約20%の9,700余名絞り込まれその中で兵学校当局者が選考し入校許可した75期の3,500名は「全国中学校から、身体学術共に最優秀の若者大半江田島集めた」ものだったが、戦争激化により、中学生学力は、主に「教員応召による不足」と「勤労作業による授業時間減少」によって戦前より一般に低下しており、さらに学術軽視風潮もあり、特に理数科学力低下甚だしかった井上75期入校直後理数科について全員実力査定行い成績不良者には特別教育行って落伍者退校者)を出すな」という自身教育方針実践した海軍省軍務局は、75期大量採用決定する一方で士官搭乗員の急速養成策を検討していた。軍務局兵学校修業年限短縮し早期飛行教育移行させよう考えていた。井上兵学校長に着任した直後1942年昭和17年11月14日卒業した71期までは3年修業年限確保していたが、72期については、軍務局兵学校当局協議して修業年限を2か月短縮して2年10か月とし、1943年昭和18年9月卒業させた。軍務局兵学校さらなる修業年限短縮検討し73期は修業年限2年6か月として1944年昭和19年6月に、74期2年として同年11月それぞれ卒業させる案を、兵学校所管する海軍省教育局提示した。だが、海軍省教育局長は井上第四艦隊長官だった時に参謀長務めた矢野志加三少将であり、兵学校長の井上直に連絡取りながら兵学校教育年限短縮強硬に反対続けた矢野井上意見反映させて「兵学校卒業した兵科将校は、直ち海軍中堅幹部として指揮権行使するため、充分な基礎的教養が必要。航空将校であっても航空専門技能だけでなく、海軍全般について基礎知識部下指揮統率するための識量兵学校で学ぶべきなのは同じ。本来、このためには4年修業年限必要だが、今では3年短縮されている。いかに兵学校当局工夫凝らしても、3年でも不十分なのが現状であるのに、さらに修業年限短縮されては、粗製濫造兵科将校ばかりになってしまう。中学生学力体力低下見られることも重視すべき。兵学校3年教育年限これ以上短縮しないことで、士官搭乗員量的要求応えられなくなったとしても、海軍幹部中心確固たらしめるためには甘受すべきと考える。」という意見書1943年昭和18年4月15日推定)に提出した。この日、矢野井上直接電話し明日16日午前戦備打ち合わせ会で、軍務局提案通り73期・74期修業年限短縮決定される見通しである。私(矢野独り反対しても、押し切られそうな情勢である」と伝えた矢野からの電話連絡受けた井上は、即座に、自ら「これ以上年限短縮されては、兵学校長として生徒教育自信持てない」旨の電文を自ら書き海軍次官沢本頼雄宛に発信するよう副官命じ加えて電報を打つと同時に海軍省副官対し『この校長からの電報は、明日戦備打ち合わせ会の開会前に必ず沢本次官見てもらうよう取り計らってくれ』と電話をかけること」を指示した矢野井上努力により、4月16日戦備打ち合わせ会では軍務局年限短縮案は決定に至らなかった。その後中央から井上への説得がしきりに行われ軍令部航空本部中堅大挙して江田島押しかけたこともあったが、井上態度は変らなかった。しかし、1943年昭和18年11月ろ号作戦ギルバート諸島沖航空戦での海軍航空隊甚大な被害により、海軍大臣嶋田繁太郎が、73期の教育年限を8か月短縮して2年4か月短縮して1944年昭和19年3月卒業させるよう発令した井上も、直属上司である嶋田決定には従わざるを得ず73期に対しては、夜間授業まで含む「終末教程」を作成して、少しでも多くのことを学ばせた。 一方で海軍中央では74期75期修業年限をかねての軍務局案のように2年程度短縮しようとしていた。1944年昭和19年3月22日73期の卒業式には、天皇名代として、大佐軍令部員だった高松宮宣仁親王臨席した。卒業式の後、高松宮井上に「教育年限をもっと短縮できないか」と下問し、井上が「その御下問は、宮様としてでございますか。それとも軍令部員としてでございますか」と反問すると宮は「むろん後者である」と答えた井上は「お言葉ですがこれ以上短くすることは御免こうむります」と答え高松宮生徒教育について日頃考えていることを説明した井上は「宮様は 『そうか、そうか』 とうなずいておられました。年限短縮問題宮様ご自身のお考えではなく軍令部あたりの者が宮様頼んで頑固な井上動かそうとしたのでしょうその人たちは『前線士官不足して困っているときに…』と、私が卒業早めることに反対するのを怒っていたようです。私を私か国賊だなどという者がいたのもその頃だった」と回想する5月19日永野修身元帥兵学校視察した永野井上に「修業年限短縮」を切り出したが、井上は「青田刈ったって米はとれません」とはっきり断ったこの頃海軍省教育局兵学校企画課との間で交渉重ねた結果下記のような結論出た74期就業期間は73期と同じく2年4か月とし、これ以上短縮はしないその代わり74期以降在校中から航空班と艦船班に分け適当な時期から軍事学についての教育分離する航空班の生徒については、霞ヶ浦練習航空隊における飛行学生基礎教程一部を、生徒時代から繰り上げて実施する。この案は、長期的に見ると、兵科将校養成上、多少歪みもたらすことになるが、戦時下の特別措置として止むを得ないとし、井上も、「年限短縮」にブレーキかかったので同意した。しかし、軍令部などでは一層の兵学校修業年限短縮求め意見強かった井上が、兵学校の教育年限短縮問題で一部の者から国賊呼ばわりされていた頃、鈴木貫太郎大将兵学校訪れた鈴木は、井上兵学校卒業後の遠洋航海で乗組んだ巡洋艦宗谷」の艦長だった。校長室鈴木が「教育成果現れるのは20年さきだよ、井上君」と言うと井上大きく頷いたその後二人暫く黙って向かい合っていた。 1944年昭和19年)に入ると、「戦勝見込みがつくまで、兵学校術科学校化して、すぐに役立つ初級士官養成すべし」とする意見が、海軍中央もとより兵学校武官教官多数から発せられるようになっていた。兵学校武官教官中には、職を賭して兵学校教育理念(普通学重視)と修業年限守ろうとする井上態度奇異感じていた者もいた。中央の一部の者から井上国賊呼ばわりされるのも止むを得ない時代であった井上は「もうその頃になると、戦争将来がどうなるかははっきり見通しがついていました。仮に戦争勝ったとしても、戦後海軍に残るのは一部の者だけで、相当数社会出て働かなければならない。まして敗戦場合なおさらです。生徒対し、どうしてもまとまった教育をしておくのは今の時期しかない思ったのです。今やっておかずに、卒業後に自分でやるといって実際はできるものではない。まして戦時中なおさらのことです。戦争だからいって早く卒業させ、未熟のまま前線出して戦死させるよりも、立派に基礎教育今のうちに行ない戦後復興に役立たせたいというのが私の真意でした。しかし、当時敗戦場合のことなど口に出して言えるものではありませんでしたし、また言うべきことでもありません」と回想する戦後井上兵学校の話となると必ず75期言及した75期兵学校入って1年8か月生徒のまま敗戦迎え戦後社会各分野散らばった下記は、井上が、75期クラス会1971年昭和46年12月送ったメッセージ一部である。「諸君昭和20年8月帝国海軍滅亡と共に誠に無情な世の中放り出されて、その日から、食べることから、寝ることまで、自分で何とかしなければならなかった人もあり、会いたい近親消息知れなかった人もあったことでしょうまた、家族的恵まれたでも、大学受験すれば1割までしか入学許せぬとの差別扱いや、世の中から冷やかな目で見られる等、悔し目に遭った様でしたが、これらの不遇見事に克服し今日では「吾ここに在りと胸たたいて堂堂立派な社会活動をやっており、世人高い評価受けております。この2、3年の海軍ブーム!! これを招来したのは諸君!吾が教え子でなくてほかに誰がありますか!! 吾が教え子よ、春秋に富む諸君よ、今後も、健康で、現在の堂堂たる態度で、社会貢献して世の後進導き海軍精神後世残したまえ」。 兵学校武官教官で、兵75期生徒採用委員一人であった前田一郎少佐(兵57期、のち中佐)が、地方兵学校採用試験会場で、「脚に軽い障害があるが、現地での身体検査では合格した筆記試験成績は優秀で前田観察では人格も優秀」な受験生が、「入校予定者」として江田島に来た。脚の障害見て取った前田の上官(生徒監事)が「あの入校予定者は不合格直ちその旨言い渡せと言った前田自身、脚に障害のあるその入校予定者が、兵学校厳し訓練に耐えられない生徒監事判断するのは理解できた。前田躊躇見て取った生徒監事は「兵学校練兵場トラックを、他の予定者と、あの予定者と一緒に全力疾走させるんだ。一番ビリ、しかもずうっと遅れたら、自分納得するよ」と前田指示した400メートル全力疾走結果は、生徒監事予想通りで、前田ほっとした。だが、ゴールにようやくたどり着いた入校予定者は「教官、私をこの兵学校鍛えて下さい。私は、あの人たちに負けない生徒になってみせる自信あります」と、生徒監事前田が全く予想しないことを言った当惑した前田を、一部始終遠くから見ていた井上呼んだ井上は、前田に「あの生徒はどんな人物か」と聞き前田が「実に立派な人物です」と答えると、無造作に海軍生徒になってから事故怪我をしたと思えばいい。将来航空関係技術士官に向ける道もあろう」と言った井上決断で兵75期一員として兵学校入校し、敗戦まで1年8か月無事に過ごしたこの生徒は、某国立大学で宇宙航空研究所教授となっている(1982年昭和57年)現在)。後の資料から、このは砂川恵東京大学名教授である事が確認されている。

※この「教育年限短縮問題」の解説は、「井上成美」の解説の一部です。
「教育年限短縮問題」を含む「井上成美」の記事については、「井上成美」の概要を参照ください。

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