放送期間中の出来事
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「笑っていいとも!増刊号」の記事における「放送期間中の出来事」の解説
1982年10月4日から『笑っていいとも!』放送開始。本放送開始からは20日後の1982年10月24日より『笑っていいとも!』のダイジェスト番組として本番組放送開始。 番組開始当初のオープニングは、対象の週の通常の放送のVTRであり、放送開始とともに番組テーマ曲である「ウキウキWATCHING」に合わせてタモリ・いいとも青年隊が歌うシーンが流されつつ出演者やスタッフのロールが流された(「笑っていいとも!」ロゴが出た後に「増刊号」のテロップが飛んでくる)が、サビの最後で映像が静止画となり、観客の拍手の音が大きくなりテーマ曲は演奏を終えここで制作著作テロップが出た(その直後にCM)。1990年代に入ると、タイトルは増刊号独自の3DCGで入れるようになり、演奏を終えた後CMに入らず、そのまま曜日レギュラーが登場するシーンにナレーションをかぶせて最初のコーナーに移っていた。 番組開始当初は作家の嵐山光三郎が「増刊号編集長」として、一週間のダイジェストの案内役で出演しており、ゲストと嵐山のトークコーナーや番組の最後には「編集後記」ならぬ「編C後記」というコーナーがあった。嵐山は1987年10月をもって降板し、2代目として関根勤(末期金曜レギュラー)に引き継いだ。更にアシスタントとして当時フジテレビアナウンサーであった岩瀬惠子が就く。岩瀬は関根に「顔が服部まこに似ている」と評され、「服部なまこ」というアダ名をつけられていた。 放送ライブラリーで、1989年1月15日放送分が視聴可能である。 2004年初頭より、「いいとも!」に縁の深い大物芸能人が「増刊号特別責任編集長」に就任し、「曜日対抗いいとも!選手権」のゲームや「各曜日日替わりコーナー」など番組内での想い出等を語るコーナーが新設されたが、2004年9月に終了した。 毎年、8月の最後の週に放送されている『24時間テレビ』(日本テレビ)には、久本雅美、香取慎吾 (SMAP)、草彅剛 (SMAP)、南明奈、ベッキー、大島美幸(森三中)などが生出演していたが、本番組は予定通り放送された。 年末年始の『増刊号スペシャル』では、『特大号』の名場面をダイジェストで放送している。また、年に1度、『FNSの日』の中で「増刊号生スペシャル」として放送される。また、爆笑問題の2人は裏番組の「サンデージャポン」(TBS)の生放送が終了してから『増刊号』に出演するため、毎年、終了時間近くの十数分程しか出演できないのがお決まりである。 オープニングは、番組開始当初から2000年(平成12年)3月30日までは、『いいとも!』レギュラー放送5日分(1週間)の中でタモリといいとも青年隊が「ウキウキWATCHING」(作詞:小泉長一郎、作曲:伊藤銀次)を歌っている様子をそのまま紹介していた。『いいとも!』のタイトルロゴもそのまま出た後、「増刊号」の文字が横から飛んでくる形のタイトルロゴだった。2009年10月11日放送分からオープニングの簡略化に伴い、「ウキウキWATCHING」のテーマ曲に乗せてタモリが登場するオープニングシーンは廃止され、番組スタートからいきなり日替わりコーナーに突入する形に変更された。 このため、番組タイトルロゴは画面左端上部に表記される形に変更された。 2004年(平成16年)7月11日には『緊急生放送 笑っていいとも!増刊号 選挙SP』がお台場のフジテレビ本社屋より生放送され、増刊号特別企画『いいとも!総選挙』として、各曜日から推薦された若手お笑い芸人5組が番組に登場し、携帯電話による視聴者投票で1位になった者が次週の『増刊号』で特別に自分のコーナーが持てるという特別企画を行い、青木さやか 87,956票が1位となり当選となった。月曜日推薦:青木さやか 87,956票 火曜日推薦:チャイルドマシーン 32,880票 水曜日推薦:BOOMER 33,472票 木曜日推薦:オジンオズボーン 59,791票 金曜日推薦:スピードワゴン 83,206票 2004年の「FNS27時間テレビ めちゃ2オキてるッ! what A wide awake↑we are! 楽しくなければテレビじゃないじゃ〜ん!!」での「増刊号生スペシャル」では、ナインティナインの岡村隆史が『テレフォンショッキング』の司会・進行を務め、タモリがテレフォンゲストとして初登場した(矢部浩之(ナインティナイン)と火曜日レギュラー中居正広 (SMAP) は客席で観覧していた)。通常『いいとも!』ではタモリ型の携帯電話のストラップが用意されるが、この時は特別に岡村型のストラップが作られていた。 新いいとも!レギュラー陣の記者会見は3月末または9月末の金曜日に『いいとも!』が生放送されている新宿スタジオアルタで行われ、翌週の『増刊号』でその模様が放送される。 2005年7月31日放送分からは、新宿スタジオアルタの同年6月25日 - 7月24日の間のデジタルハイビジョン化工事完了に伴い、ハイビジョン制作となり地上デジタル放送ではデジタルハイビジョン放送を開始した。地上アナログ放送ではサイドカット放送となる。 2009年10月4日放送分からは金曜日レギュラーである関根勤とオードリー(若林正恭・春日俊彰)がナビゲート役として「いいとも! 5DAYS」のコーナーが開始された。 2010年2月28日、当日に起こったチリ大地震による日本列島に大津波警報が発表されたため、日本地図が画面右下に当番組放送終了時間まで表示されていた。 2010年7月19日から23日までの1週間、動画生中継配信サイトUstreamにて、11:50 - 12:00(生放送開始)の間、AD隊(クルット&ハリー)の前説の模様を特別に配信していた。 2011年7月24日に地上アナログ放送が停波するのに伴い、2010年(平成22年)7月5日から地上デジタル放送への完全移行を前提に、アナログ放送の全番組が画角16:9のレターボックス放送に移行するため、本番組もアナログ放送では2010年(平成22年)7月11日放送分よりレターボックスで放送されている。 2010年10月10日放送分より「戦場カメラマン渡部陽一のアルタ最前線!」のコーナーが開始し「増刊号特別取材班」の戦場カメラマン渡部陽一がレギュラー出演した。2011年4月3日放送分で当コーナーは終了し、渡部は降板した。その後、2011年5月6日放送分の『いいとも!』日替わりコーナー「クイズ!お久しぶりゲストマラソン」の秘密ゲストとして出演したため、5月8日放送分の『増刊号』で1か月ぶりに同コーナーが復活し、以降も「増刊号特別取材班」として時折出演した。 2011年5月1日放送分からは金曜日レギュラーである関根勤&萬田久子&ベッキーがナビゲート役として、「いいとも! 萬DAYS!」のコーナーが開始された。 2011年7月24日、『増刊号生スペシャル』が放送され、「地上デジタル放送完全移行セレモニー」として、当番組コーナー進行中の正午を以って地上アナログ放送が終了し、地上デジタル放送へ完全移行するため、その記念セレモニーを番組内にて実施した。地上デジタル放送完全移行数分前から説明や地上デジタル放送完全移行への「いいとも!」コールなどをタモリが行い、正午に東北3県を除く全国で地上デジタル放送へ完全移行した。 正午に、アナログ放送では放送を終え、デジタル放送ではテーマ曲の「ウキウキWatching」のデジタル放送開始バージョン「デジタルWatching」を、タモリが『FNS27時間テレビ めちゃ2デジッてるッ! -What A digital we are!- 笑顔になれなきゃテレビじゃないじゃ〜ん!!』総合司会の岡村隆史を加えたいいともAD隊(クルット&ハリー)と共に歌った。 正午から特別仕様の番組タイトル『森田一義アワー 地デジでいいとも!』が使用され、タイトルロゴのフラッグの色が赤・緑・青のRGB3原色となった。 地上デジタル放送移行が延期された東北3県の岩手めんこいテレビ・仙台放送・福島テレビとは生中継をつなぎ、地上アナログ放送が続いていることを説明した。 2012年7月21日(土曜日)18:30 - 翌22日(日曜日)20:54 までの2日間、当番組が放送開始30周年目と『FNSの日』が25周年目と言う節目で、当番組をベースとした『FNS27時間テレビ 笑っていいとも!真夏の超団結特大号!!徹夜でがんばっちゃってもいいかな?』の放送が決定した。総合司会を務めるタモリは最年長である。 2013年10月22日(火曜日)の『いいとも!』エンディングにおいて、木曜レギュラーの笑福亭鶴瓶が「曜日対抗いいともCUP」のコーナー終了後に突如登場。鶴瓶が「いいとも!終わるってホンマ?」と問いかけると、タモリが「来年の3月いっぱいでいいとも!終わります」とコメントし、2014年3月末で『いいとも!』『増刊号』両番組の放送終了が発表された。 2014年1月14日放送分で『いいとも!』放送回数8,000回を達成。久々にタモリがオープニングで番組テーマ曲「ウキウキwatching」を火曜レギュラー陣、ゴスペラーズと共に歌った。「テレフォンショッキング」には、1985年2月25日以来、29年ぶりにとんねるずがテレフォンゲストとして生出演し、その場でレギュラーになることが発表された。
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放送期間中の出来事
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「糸居五郎のオールナイトニッポン」の記事における「放送期間中の出来事」の解説
1971年1月17日(自身の50歳の誕生日)に、西銀座のサテライトスタジオで特別番組『50時間マラソンジョッキー』を敢行し(翌々日の1月19日まで)、無事「完走」している。 CMフィラーには、Floyd Cramerの『Make It With You』、『Games People Play』、『Both Sides Now』などのインストゥルメンタルが使用されていた。 最終回の数週間前に、これまでの放送の思い出話や『ビバ例会』などイベントの話などをし、そして噛みしめるように「20代には20代の青春が、30代には30代の青春が、そして50代には50代の青春がある」と語りかけた。そしてこの時、これまでの放送中一度も流したことのなかった涙を流したという。 さよなら糸居五郎のオールナイトニッポン 糸居五郎のポップス・グラフィティ 1981年6月30日、自身の勇退となる最終回の放送は『糸居五郎のポップス・グラフィティ』と題して1部、2部通して放送された(1部のみのネット局を除く)。司会は当時同局アナウンサーのくり万太郎。演出はドン上野。 当時の第1スタジオ(のちのラジオハウス銀河)にてリスナー百数十名を招き、糸居と交遊のある放送関係者、音楽関係者が多数訪れた他、ゲストとして高崎一郎、亀渕昭信、今仁哲夫、斉藤安弘などオールナイトニッポン黎明期の人気DJたち、中島みゆき、あおい輝彦、出門英らが生放送に駆けつけた。この他、タモリ、常木建男らからテープによるメッセージ、宇崎竜童からは電報が届いた。AM1:30頃からはカーペンターズ『イエスタデイ・ワンス・モア』をバックに、くりによる「糸居五郎ヒストリー」の朗読が行われた。 AM2:30頃から、薗田憲一とデキシーランドジャズによる生演奏が行われた。 午前1時台・2時台はお祭り的な様相で、糸居はずっと立ちっぱなしで忙しくゲストなどの応対をしていたが、午前3時台からようやくいつものワンマンDJスタイルの進行に戻った。3時台の1曲目には『BITTERSWEET SAMBA』、2曲目にはオールナイトニッポンの前身的番組で糸居も担当していた『オールナイトジョッキー』のテーマ曲『ナイト・メアー』をかけ、淡々とそれまでの思い出を語っていった。 また、当時当番組の直前でオールナイトニッポン第1部(『中島みゆきのオールナイトニッポン』、この日は本番組のスペシャルのため休み)のパーソナリティを務めていた中島みゆきもスタジオに入り、糸居に花束を渡してその勇退を見守った。また、オールナイトニッポン黎明期のライバルとして同じ時間に放送していたTBSラジオ『パックインミュージック』のパーソナリティの一人で、当時TBSアナウンサーの林美雄もいちファンとして花束を持って駆け付け、生放送を見守っていた。 最後の挨拶はエンゲルベルト・フンパーディンクの「ラスト・ワルツ」をバックにかけ、その後「世界は日の出を待っている」の生演奏でスタジオを後にした。
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