名所・旧跡等とは? わかりやすく解説

名所・旧跡等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/28 03:33 UTC 版)

小山宿」の記事における「名所・旧跡等」の解説

小山御殿: 将軍家日光社参のために設けられ休憩所。『日光御社参古河日記によれば元和8年1622年)に徳川秀忠日光社参行った際に、関ヶ原の戦い小山評定吉例として設けられた。土塁と堀囲まれ南北100m東西64mの敷地15か所の御番所があり、非常に警固が厳重であった寛文3年1663年以降日光社参中断され天和2年1682年)、古河藩財政難のため解体。場所は現在の小山市役所付近に相当するが、遺構残されていない須賀神社: 別称祇園牛頭天王社」。主祭神素盞嗚命大己貴命誉田別命社伝によれば天慶3年940年)、藤原秀郷現在の中久喜創建したとされる。なお中世・須賀神社は、小山城大手門正面鎮座し、城の守り神とされていた。小山城は「祇園城」とも呼ばれるが、これは須賀神社別称よる。当時位置小山宿上町現在の城山町二丁目にある「元須賀神社」とその周辺だった。江戸時代初めに本多正純城下町割行い町の中心部にあった須賀神社を城の南に移転させたと考えられている。 現在地小山宿中心部から南西へ約 0.7km、宮元町一丁目国道4号沿いである。「須賀神社」も参照天翁院: 中世小山地域支配した小山氏菩提寺である。曹洞宗の寺院寺号を「万年寺」という。寺伝によれば久寿2年1155年)に小山政光北山現在の中久喜)に創建、のちに現在地へ移転した。文明4年1472年)、小山高朝大中寺の培芝正悦を招いて中興開山とし、高朝の菩提寺とした。 現在地小山宿中心部から北西1km 弱、本郷町一丁目国道4号沿いである。「天翁院」も参照脇本陣跡: 現在の中央町。「明治天皇行在所」の石碑がある。

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名所・旧跡等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 01:28 UTC 版)

古河宿」の記事における「名所・旧跡等」の解説

御茶屋口: 大名等の休憩所があった場所。日光社参では、将軍はこの御茶屋口で日光街道から西に入り三神町通りおよび出城諏訪曲輪北側中道経て御成門から城内入った。 現在は石碑置かれている。 日光街道道標: 文久元年1861年)に古河宿有志により建てられた。正面には「左日光道」と彫られている。常夜灯形式道標である。古河市指定有形民俗文化財近年100mほど西に離れた場所に移設されていたが、鍛冶町道路拡幅工事あわせて2014年秋、元の位置に再設置された。 本陣跡・高札場跡: 二丁目本陣吉沢幸之助)跡に石碑置かれている。ここは大きな商家連なる石町江戸町さらには城への入口にもあたり、城下中でも最も賑わう辻になっていた。 また、街道挟んだ反対側には高札場があった。ここにも石碑置かれている。 脇本陣二丁目にあった脇本陣は、江戸時代末期建設され最近まで「太田屋旅館」として営業していたが、平成11年1999年)に後継者不在のため閉業し、平成17年建物解体された。脇本陣であった時期には入母屋式台玄関設けられていた。 左筑波北端出口横町にあった日光道中江戸から日光向けて北進するとき、通常筑波山右手見える。しかし横町口には、本成寺北隣の専蔵院前に直進をさえぎる土塁設けられており、通行人はここで一旦、右折したため、筑波山左手見えたという。現在、土塁除かれ、道も直進している。 作家永井路子旧宅江戸町にあった商家永井路子幼少期過ごした旧宅である。永井家江戸時代からの古い商家で、土蔵造り2階建ての店蔵残されており、自由に見学できる19世紀初頭初代永井八郎治が葉茶屋永井屋」を開業し、のちには陶漆器砂糖扱い質屋も営んだという。 坂長大工町にあり、肴町通りとの交差点位置する商家。「坂長」は 元禄11年1698年以前両替商として開業しその後酒問屋転業。現在は古い建物活かして改装され土産物店、オランダ料理カフェ・レストランギャラリー等の複合施設となっている。 店蔵・袖は、古河城内の文庫蔵・乾移築したとものと伝えられており、国の登録有形文化財である。 みらい今城商店): 鍛冶町にあった商家今城商店」は弘化年間(1844~1847年)に開業し、綿・タバコ・ヨシズの販売、塩の元売りなどを行ってきた 。現在、古い建物活かして改装され和風レストラン喫茶店等の複合店舗「みらいとなっている。なお、みらい周辺は現在も整備中であり、近接する酒井富岡広場歩道とが一体化した空間生まれ予定になっている鷹見泉石祈念館: 古河城諏訪曲輪南側隣接する武家屋敷。現在は古河歴史博物館施設として、一般公開されている。 日光街道道標 本陣石碑 永井路子旧宅商家店蔵坂長商家鷹見泉石記念館の長屋門 鷹見泉石記念館(武家屋敷

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名所・旧跡等

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野木宿」の記事における「名所・旧跡等」の解説

野木神社: 仁徳天皇御代莵道郎子命(うじのわきいらつこのみこと)を祀ったことに始まるとされる坂上田村麻呂奉納したとされる大銀杏の木があり、お乳の形に似ていることから乳の出ない母親信仰された。寿永2年1183年)には野木宮合戦舞台となり、江戸時代には古河藩主の崇敬受けた。現在も、12月には古河市野木町個々に「提灯竿揉み祭りが行われるが、これはどちらも野木神社神事七郷めぐり」に付随するもので、神官行列帰社(お帰り)を待つ人々が、寒さをしのぐために始めた提灯揉み合い起源である。 満願寺: 野木神社別当寺。宿内に寺院がなく、供養等に不自由だったため、元和2年1616年)に宿内相談のうえ建立野木町内の野木にある。 法音寺: 応永2年1395年)、真海により建立新義真言宗の寺院。寺の周辺には中世城館土塁と堀跡が残されている。日光街道沿い・野木宿北隣の現在の野木町友沼にある。 満福寺: 古河公方ゆかりの寺院明応2年1493年)、足利成氏により開基。成氏の墓、連歌師猪苗代兼載の墓がある。野木宿から南西へ約2km離れた現在の野木町野渡にある。

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小金井宿」の記事における「名所・旧跡等」の解説

一里塚江戸東京日本橋から22里(約86.4キロメートル地点一里塚である。明治期国道整備の際、新田宿小金井宿の間は、旧街道東側並行して新しい道路を開通させたため、東西2つの塚がほぼ原形のまま残された。日光街道一里塚では、唯一、国の史跡指定されている。経年変化円形化しているが、本来は方形の塚である。東西の塚にはそれぞれ植えられており、東塚には混生している。周辺平成9年1997年)に史跡ポケット広場として整備された。 慈眼寺真言宗智山派寺院正式には「金剛乗多宝慈眼寺」という。建久7年1196年)、新田義兼により建立されたと伝わる。 江戸時代日光社参では、境内将軍休息所・昼休所設けられる天和2年1682年)に解体され小山宿小山御殿代替施設だった。 将軍の「御座所」とその付随施設幕府整備したが、他の寺の建物見苦しくないように修繕され佐倉藩と寺が費用負担した江戸時代には将軍徳川家光より朱印地 20石を与えられている。当時建物は、明治元年1868年)の火災でほとんどが失われたが、観音堂鐘楼堂現存している。

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名所・旧跡等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 03:20 UTC 版)

草加宿」の記事における「名所・旧跡等」の解説

草加松原:おくのほそ道の風景地 草加松原国指定名勝)。

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名所・旧跡等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 04:06 UTC 版)

杉戸宿」の記事における「名所・旧跡等」の解説

現在の町並みは、都市化影響をさほど受けていないためか旧家比較良く残り、旧宿場街面影感じさせる

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名所・旧跡等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 09:08 UTC 版)

間々田宿」の記事における「名所・旧跡等」の解説

旧小川家住宅小山市立車屋美術館): 乙女河岸肥料問屋営んでいた車屋小川家)が、大正元年前後日光街道沿いに移転建築したもの。特に土蔵乙女河岸から移築され、その唯一とも言える遺構である。現在は改装され美術館として使用されている。

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名所・旧跡等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 17:50 UTC 版)

倉石村」の記事における「名所・旧跡等」の解説

倉石温泉 中市館旧圓子家住宅江戸時代武士であった圓子氏住宅で、圓子氏は「九戸政実の乱」(1591年)の後に倉石中市に居を構え南部藩直命の山奉行となった伝えられている。保存状態が非常に良く建築当時の様子良好に残しており、玄関式台・塀重門の関係を残している武士住宅県内では本住宅だけである。これらのことが評価され平成13年6月青森県重宝指定された。 居宅のほかに、表門板塀井戸生け垣庭園なども復元され居宅内には調度品や、古文書絵図などが陳列されている。

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名所・旧跡等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 22:28 UTC 版)

中田宿」の記事における「名所・旧跡等」の解説

鶴峯八幡神社: 養和元年1181年)の創建伝えられる中田宿鎮守利根川河川改修工事のため、町とともに現在地移転した光了寺: もとは武蔵国高柳村(現久喜市高柳栗橋区域)にあり高寺と称したが、建保年間1213年 - 1218年)に光了寺改め、のちに中田移転した静御前ゆかりの寺院松並木: 中田宿古河宿の間は松並木になっていた。安政2年1855年))の清河八郎による紀行文には、「仙台道中で最もきれいな並木・・・、並木松の間から古河天守閣眺められ、また富士山時には雲の上に姿を顕し…」とある。また、日光駅見聞雑記』(文政6年1823年〉)にも、「東海道にもこれほどきれいな松並木はない」と記されている。ただし、道路拡幅工事戦時中松根油採取のために、現在その面影残っていない。

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名所・旧跡等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 01:24 UTC 版)

鍛冶ケ谷」の記事における「名所・旧跡等」の解説

小岩井家住宅-本郷ふじやま公園移築された旧鍛冶ヶ谷名主古民家横浜市有形文化財正翁寺正翁寺墓地裏横穴墓群 宮ノ前横穴墓群-鍛冶ヶ谷市民の森にある遺跡

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名所旧跡等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:16 UTC 版)

東村山市」の記事における「名所旧跡等」の解説

ライシャワー記念平和観音 秋津神社 八坂神社 悲田処 - 市内にあったという説がある。比定地には市内いくつかの地域挙げられており、跡地確定には至っていない。

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名所旧跡等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 20:21 UTC 版)

アレクサンドロフスク・サハリンスキー」の記事における「名所旧跡等」の解説

歴史・文学博物館 “チェーホフとサハリン”歴史・文学博物館 “チェーホフとサハリン”」( Историко-Литературный Музей “А.П.Чехов и Сахалин”)は、アントン・チェーホフ生誕100周年記念し1990年9月開館した木造平屋建て建物は、元流刑囚・ランズベルクの住居店舗改修したもので、チェーホフ実際に訪れたことがある館内には、チェーホフ調査の成果である『サハリン島』の初版滞在中に親類打った自筆電報(古い郵便局解体中に偶然発見された)、旅行中使用したスプーンティーカップバッグなど身の回り品囚人たち炭鉱内で作業する様子描いた絵画などを展示チェーホフ業績流刑囚の実態紹介している。日本関連では、コルサコフ大泊)でチェーホフ日本領事館員が酒を酌み交わす写真がある。 休館土日曜(原則)。カメラ撮影場合入館料のほか撮影料が必要。 三人兄弟の岩 詳細は「三兄弟 (サハリン) 」を参照 郊外の岬付近に聳え立つ三つの岩のこと。三つの岩が直線状に並んで海上聳える姿から、“三人兄弟の岩”(Скалы "Три Брата")と呼ばれている。アントン・チェーホフの『サハリン島』でも描写されている。 中央広場 元は刑務所運動場だった。囚人たち慰霊碑レーニン像がある。

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