代表局
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1990年11月12日 王座戦五番勝負第4局 加藤正夫 - 羽根泰正(先番) 前年に続いて加藤正夫王座への2年連続挑戦となった。第2、4、5局目が羽根先番で、前年同様先番は全て高中国流布石、黒7までは同じ形だが、黒9はそれまで11に打っていたが、第2局目で負けたので、黒9から13と右下を地にする打ち方に変えてみた。次の5局目では白の加藤が白12を17-16に変え、続いて黒12と切ることになった。いずれにせよ羽根の中国流は模様に相手を追い込んで攻めることが主眼で、この後も黒19から25まで白を攻める体制にして、その後黒33と左辺にもたれて攻めを継続することになった。その後黒は中央を厚くし、白は右辺と右上隅を荒らし、白有望となった。しかし黒は中央と左上の2箇所をコウにして追い上げ、白の終盤のミスもあって、黒番半目勝ち。続く第5局も黒番中押勝し、3勝2敗で初の王座位となった。 中部総本部では島村俊廣以来の王座獲得。また加藤正夫は王座戦連覇記録が8で止まり、1976年以来のタイトル連続保持記録も途絶えることとなった。
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「鉄のゴールキーパー」1987年第2回日中スーパー囲碁第17局 大竹英雄-聶衛平(先番) 聶は第13局から4人抜きして、日本主将の大竹英雄との決戦となった。先番聶は右辺黒石を捨石にして中央を厚く打ち進め、97手目に下辺黒1の打ち込みから黒11以下またこの石を捨石にして、中央の白石を攻めて優勢を確立した。320手完 黒2目半勝。聶はこの碁に勝って、5人抜きで中国勝利。第1回の3人抜き、第3回も主将戦勝利して、計9人抜きで中国3連勝の立役者となった。
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「世界戦初優勝」第5回応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦 決勝五番勝負第2局 崔哲瀚-常昊 第1局崔哲瀚先勝に続く第2局、常昊先番で序盤から激しい攻防が続き、右下からの戦いが左辺に及んだところで、黒1(117手目)、5、9の頭ツケ3連発がハイライト。ここからコウ絡みで右辺一帯の白の大石をもぎ取り、179手まで黒中押勝。続いて連勝して3-1で世界戦初優勝を飾った。 2004年12月28日 崔哲瀚-常昊(先番)
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四人抜きで決着 東西対抗大碁戦勝抜戦第6局(1950年6月27-28日) 梶原武雄六段-(先番)本因坊昭宇 この頃から梶原は「ドリル戦法」と呼ばれるようになっている。東西対抗戦の勝ち抜き戦では、藤沢秀行1勝の次に出場し、3人を抜いて西軍の大将橋本宇太郎を残すのみとしていた。左下は大斜定石の新型。黒1(47手目)から進出を狙うが、白8のヤスリ攻め。黒も11と切って激戦となった。白20と整形したが、白24が問題で、黒25から29と形を崩しながらコウを狙われ、黒がコウ立てで左上隅を取り、白が中央を打ち抜く振り替わりとなった。白は下辺中央黒を攻めたてながら戦いが右辺に及んで、白の緩手で黒優勢となるが、中央黒を追撃して逆転。216手まで白中押勝。梶原は4人抜きで日本棋院勝利をもたらした。 坂田を追い詰める 第12期王座戦決勝三番勝負第2局(1964年10月15-16日)互先 梶原武雄八段 - (先番)本因坊栄寿名人 当時名人・本因坊の坂田栄男と王座戦決勝で相まみえた。三番勝負第1局は先番梶原が優勢に進めたが坂田に逆転負けを喫する。第2局は梶原が白番で、左下は梶原定石。黒1(75手目)から黒9と左辺を荒らしに行くが、白10以下最強に迎え撃って、白40まで突入した黒は全滅してしまい、白が勝勢となった。しかしこの後右上で黒aに白bと出たのが無用の頑張りで、白は上半分を切り取られて逆転される。さらにその後に黒が中央で打ちすぎて再逆転。しかし梶原は1分碁の中で右下黒の死活を間違えて、無条件死のところをコウにしてしまい、黒の6目半勝。坂田が2-0で優勝となり、悲願の打倒坂田はかなわなかった。
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第二次藤沢朋斎十番碁第7局 5局目まで2勝2敗1ジゴと拮抗していたが、6、7、8、9局と呉が連勝して一気に打込んだ。藤沢との対戦の中で呉はこの第7局が一番の傑作としている。 序盤左上、左下で呉の得意の定石ができ、中盤で黒が中央の白模様を荒らした後、白は下辺黒の大石を攻める。182手目の白1が棋史に残る妙手と言われ、これに黒が19に応じると18が利いて大石が死ぬ。実戦でも黒20となった時に白aの切りがあり、結局大石が死んで投了。 1952年4月24-26日 呉清源 - 藤沢庫之助(先番) 白228手まで中押勝
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「4人抜き」第8回日中スーパー囲碁第4戦 張文東-加藤充志(先番) 1993年7月21日 黒1(17手目)から3が面白いコンビネーション。その後上辺を荒らしに来た白を攻め損ねて黒不利となるが、中盤に左下のコウ争いを制して逆転。228手まで黒11目半勝。4人抜きを果たした。
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「名人の所作」 天保12年(1841年)の本因坊秀和との対局は、松和先相先の白番で、布石から機敏に打ち細碁に持ち込んで持碁とし、松和一生の傑作とされる。この碁を見た丈和と井上幻庵因碩は「秀和の碁として一点の非難すべきなし。然るに松次郎、白を以て持碁となせるは名人の所作なり」と評したという。 白1(32手目)から9が名調子で、さらに白11、15と軽妙に進出しつつ下辺黒に圧力をかける。すでに細碁の局面で、この後黒から中央で仕掛けていくが、白がうまく打ち回した。 秀和とは天保10年の名古屋在時から互先で打ち始め、その後先相先、弘化2年(1845年)に松次郎定先となった。 「古今の長局」 天保10年(1839年)の九世安井算知 (俊哲)との互先の先番2目勝ちの碁は、中盤と終盤に大石の生死を巡る劫争いが延々争われて405手の長手順となったことで知られ、古今唯一の長局と呼ばれた(現在の記録は1950年の大手合、山部俊郎-星野紀戦の411手)。
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第9期名人戦リーグの石田(黒)-林海峰戦(1984年)。左上の三間高バサミ定石で、白のコスミツケに対して黒1と打ったのが新型。以下白2〜黒11と進み、その後の激戦を制して中押勝、リーグ戦のダークホースとなった。
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李世乭を破って世界戦優勝(第13回LG杯世界棋王戦決勝第2局 2009年2月25日 古力-李世乭(先番)) 2009年第13回LG杯世界棋王戦決勝三番勝負で、ライバルの李世乭を2-0で破って、LG杯では2度目、世界戦5度目の優勝を果たした。第1局を古力先勝の後の第2局、李世乭が黒番。右上隅の当時の流行定石から上辺の黒模様が大きくなり、序盤は黒が成功した。黒1(71手目)が手厚い手だが、白4で下辺、白6で左下に先行することになった。黒19で28へのハネ出しの狙いがあるので白20と守り、黒21から左辺を捨て石にして、黒39まで中央を地にして微細な局面となった。黒43で中央から下辺の白の分断を狙うが、白44と反発し、黒aから右辺白から切断するが、白bから中央を破りながら大石を生き、さらに上辺の黒地も破れ、172手までで白中押勝となった。局後の検討では、43の手で上辺を守っていれば半目勝負だったという。 棋戦2001200220032004200520062007200820092010201120122013201420152016応昌期杯 - 24強 - 16強 - 8強 - 30強 富士通杯 × × 16強 24強 8強 16強 16強 優勝 16強 8強 32強 終了 三星杯 16強 × × 4強 16強 16強 4強 32強 4強 優勝 準優勝 準優勝 16強 × 32強 32強 LG杯 × × × 16強 優勝 8強 16強 優勝 8強 16強 32強 16強 32強 × 16強 8強 春蘭杯 - × - 8強 - 優勝 - 8強 - 8強 - 16強 - 優勝 - 16強 BC杯 - 優勝 16強 準優勝 16強 終了 トヨタ杯 - × - 16強 - 16強 - 優勝 終了 百霊杯 - 64強 - 64強 - 16強 夢百合杯 - 準優勝 - 64強 - アジア杯 × × × 1R 1R × × × × × × × × × × × 農心杯 × 0:1 1:1 × × 0:1 × 0:1 0:1 × 0:1 × × × 3:1 ×
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「秀哉に迫る」万朝報手合 1920年1月17,27日 本因坊秀哉名人 - 先 瀬越憲作五段 本因坊秀哉に対抗していた方円社の瀬越憲作と鈴木為次郎は先の手合に迫っていた。序盤の白は、黒の秀策流を防ぐ方針で、白8から12とハサむ布石はよく見られた。黒は15から19で先手を取って黒21に回って足早な布石を目指した。白24のアテコミは黒29のツギを期待したが、省略して黒27と反発され戦いの主導権を黒が握った。この後黒は左辺の白を封鎖して中央を厚くし、上辺に大きな白地を与えたが、中央を制して押し切った。177手まで黒中押勝。
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「生涯の大勝負」1989年第1回応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦 決勝五番勝負第1局 曺薫鉉-聶衛平戦 黒番聶が黒1(113手目)と出たところ、右辺一体が薄い白だったが、白2〜黒7までを利かしたのが機敏な手。この折衝で白一間トビの切断が消え、白8が打てて白地がまとまり優勢を確立した。曺は中国杭州で行われたこの第1局に勝った後、杭州、寧波での2、3局目を落としてカド番となるが、シンガポールでの4、5局を連勝して優勝、賞金40万ドルを手にした。 1989年9月5日 曺薫鉉−(先番)聶衛平
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秀和との争碁第1局を敗れた1年半後の天保13年(1842年)、旗本磯田助一郎宅で対局の機会を得た。5月16日から18日まで二日半かけて打たれ、 先番秀和の6目勝となったが、白は序盤から局面をリードし、幻庵の名局の一つと言われる。 譜1. 2隅を空けたまま白1(16手目)から3、13と奔放に打って上辺を大模様にする。 譜2. 白は左下で黒一目を切り離し、白1(66手目)から上辺も大きく囲って白5まで白優勢だが、白7、9が打ち過ぎで、後に黒Aのコウを狙われて苦戦となった。 終盤で黒1目勝と思われたが、白の見損じで5目損し、黒6目勝となった。この碁で名人の道を断たれた悔しさが5目損の手を打たせたとの、後世の見方もある。
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第13期日本棋院選手権戦挑戦手合五番勝負第4局 坂田栄男選手権者 - 大平修三(先番) 1966年1月26-27日 大平は、トーナメントでは、岩本薫、三輪芳郎、杉内雅男、藤沢朋斎、決勝で大竹英雄を破って、三度目の挑戦手合進出となった。1964、65年と日本棋院第一位決定戦で坂田に挑戦し、いずれも敗れたものの少しずつ手応えをつかんでおり、「第一位決定戦の善戦で、相手が誰であれそう簡単には負けないという気がしていた」と語っている。一方坂田は前年に林海峰に名人を奪われたとはいえ、本因坊5連覇中、日本棋院選手権戦も7連覇ののち2連覇中で、依然棋界の第一人者であった。挑戦手合五番勝負の第1局は坂田が勝ったが、「今度はイヤな予感がする」とも語った。 第2局は、黒番の大平の攻めに坂田がシノギでコウ材の受け方を誤り、大平が1勝を返してタイ。続く第3局も連勝。 第4局は、先番大平の得意とするタスキ小目で始まるが、右上隅で、黒9の一間バサミからの定石選択が悪く、白の厚みが左上のシマリと呼応して好形になった。右下の定石から右辺を広げたが、白34、36が鋭い手で、白48まで右辺で収まり、白が優勢となる。黒は非勢を意識して、右下の白の攻めを狙う黒51を選択し、さらに61からカラミ攻めも狙うが、白66、68もシノギの好手で、薄い形ながら黒からの切断はギリギリで上手くいかない。黒は一旦59から73と大場を打つが、白74も鋭い打ち込み。白84アテにツグのはひどい効かされだが、すぐに104にツイでコウにするのは、上辺黒への攻めをコウ材にされてよくないため、黒85と備え、難しいコウ争いになった。コウ材作りの黒91に、白はコウ取りから94とさらにコウを大きくしていく。結局白96のコウ材に黒は聞いていられず、右下との振り替わりとなった。 形勢は白有利ながら差は縮まって来たが、左辺の戦いでの黒119がミスで、白が先手を取って126に回って優勢拡大。白128で一路上の133なら勝っていたが、黒133からのコウが必死の勝負手。白148でもコウを解消してしまえば、左辺白と上辺黒の振り替わりで白勝ち。黒153の切りのあと、白164と謝ったのが敗着で、白a、黒b、白コウ取りから、黒c、白dの損コウを打たせてからち、164に打っていれば白勝ちだった。実戦はここで黒の厚い半目勝負となり、その後差が開いて、264手まで黒3目半勝。双方後に引かない激戦を制して、大平は挑戦三度目の正直で初の大タイトル獲得となった。
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代表局
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「日中名人戦初優勝」第5回日中名人戦第1局 1992年12月15日 馬暁春-小林光一(先番) 白1(36手目)のケイマが好手で、黒20までの振り代わりとなって白優勢。この後中央黒が生きたが白は厚くなった。259手まで白1目半勝ち。日中名人戦では1989年から91年まで3年連続で小林光一に0-2で敗れていたが、この1992年第1局で初勝利を挙げ、第3局も勝って2-1で初優勝する。
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