読売グループでの経歴
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宮崎県立宮崎南高等学校を経て立命館大学経済学部卒業後、1975年に読売新聞社に入社した。青森支局を振り出しに社会部畑を歩み、警視庁や国税庁を担当。東京本社社会部次長時代に、第一勧業銀行総会屋事件や山一證券の破綻などをスクープ。 2001年、中部本社社会部長。2002年、東京本社編集委員。2004年、東京本社編集局運動部長。 2004年8月、読売巨人軍取締役球団代表(局次長相当)・編成本部長に就任。巨人球団代表として、当時の生え抜き選手の育成が進んでいないことに危機感を抱き広島東洋カープの鈴木清明からのアドバイスをヒントに育成選手制度を創設。それまでの補強に頼るチーム作りからの脱却を図った。実際、この制度で入団した選手らが、後の2007年からのリーグ3連覇(セ・リーグの連覇は1992年・1993年のヤクルト以来)や日本シリーズ制覇に貢献した。さらにイースタン・リーグ チャレンジ・マッチなどの日本プロ野球のシステム創りに奔走した。 巨人球団代表の傍ら、週刊ベースボール(ベースボール・マガジン社)にて隔週でコラム「野球は幸せか!」を連載した。またNPB選手関係委員長として球団側と日本プロ野球選手会との交渉を取り持つパイプ役も担っていた。 球団代表時代は頻繁に球場に訪れており、試合終了後活躍した選手の労をねぎらうシーンがよく見られるなど、選手に対しての敬意を示すことも忘れなかった。また、フリーエージェント制度などでの小手先な補強一辺倒であった球団の方針を、清武は2005年に制度化された育成選手制度を利用して育成選手を鍛え上げて育てる方針に転換し、これも自球団のみならず、他球団を含めたフロント陣や指導者らから高く評価されていた。しかし清武退任後は清武色一掃の観点から元の補強体制に戻している。 ただし報道陣の間では、清武の姿勢に疑問を呈する人間も少なくなかった。批判めいた記事を執筆した人物を呼び出し恫喝、さらにその会社に対して強行的に取材規制などを行った。それゆえ報道陣だけでなく、球団内でも清武の独裁を快く思っていない者もいたという。 清武代表時代に巨人へ移籍し、現役引退を経て内野守備走塁コーチ就任後間もなく急逝した木村拓也は、宮崎南高等学校の後輩でもあった。
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