万朶隊の編成
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着々と特攻開始に向けて準備が進むなか、7月中には鉾田陸軍飛行学校から組織変更された鉾田教導飛行師団に「九九式双発軽爆撃機」装備、浜松教導飛行師団に四式重爆撃機「飛龍」装備の特攻隊を編成する内示が出た。9月25日、大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻を推進してもらいたい」との大本営の強い要請が航空本部になされたが、大本営参謀からは「航空がボヤボヤしているから戦争に負ける」とする非難もあり、航空本部は反発している。特攻推進派であった航空総監兼航空本部長後宮は、サイパン失陥の責任をとって退任しており、本来は特攻に消極的であった菅原が後任となっていたが、「今や対米勝利を得がたしとするも、現状維持にて終結するの方策を練らざるべからず。之れ、最後に於ける敵機動部隊に対する徹底的大打撃なり」と日記に記述しているなど、急速な進撃を続けるアメリカ軍艦隊に「徹底的大打撃」を与えるための作戦について、開戦初頭の南方作戦の航空作戦などで絶大な実績を上げて陸軍航空の第一人者と評されていた菅原も 特攻の他は手段がないと考えており、9月28日から大本営から航空本部になされた特攻隊編成の指示に従うこととなった。 10月4日に航空本部は、鉾田教導飛行師団長今西に特攻部隊編成の準備命令を下した。しかし、参謀本部や航空本部からは、大元帥からの正式な奉勅命令ではなく、あくまでも「志願者を募れ」との指示であった。これは、大元帥である天皇が特攻隊編成の正式な奉勅命令を出すことは、天皇が「生きて帰ってくるな」という命令をするも同然であって、建前として陸軍としても絶対に出せない命令であったためである。今西は、1回きりの特攻で航空機や搭乗員を失うよりも、何度も繰り返して出撃すべきとの持論によって特攻に批判的であり、この命令に苦悩して人選が進まず、10月13日に隊員の人選方法について部隊幹部と協議したが、結論は出なかった。今西は特攻の問題点は「体当たり部隊の編成化は士気の保持が困難で統率に困り、かえって戦力が低下するだろう」「この種の決死隊は、皇国の興廃がこの1戦にあることを将兵一同が認識した時に、下部から盛り上がる気勢を巧みにとらえて自然に結成された殉国の結晶によって決行されるのが適当であり、内部部隊として常時編成しておく性質のものではない」「人の心は一日の中でのたびたび変わる者で、殉国の精神に懸念のない多数の青年を長時苦悩させるものではない」であると考えていた。 しかし10月17日にレイテにアメリカ軍が来襲し捷号一号作戦が発令されると、20日には正式な編成の指示があり、今西は苦悩の末、最初の特攻は確実を期さなければいけないと判断し、航空本部の「絶対に志願者」との指示を破って陸軍航空隊きっての操縦技量を持ち、特攻には批判的であった岩本を中隊長とした佐々木友次伍長ら搭乗員の精鋭16名(操縦士12名、航法1名、通信士3名)を指名し、他に整備員12名もつけた。志願を募らなかったのは、鉾田教導飛行師団首脳らの「志願者を募れば、全員志願するであろう」という考えに基づくものであった。指名ののち、岩本ら士官には今西ら司令部から特攻についての説明はあったが、下士官以下には「特殊任務」という曖昧な説明しかなかった。下士官らは、風防ガラスから3本の角を突き出すような異様な姿に改造された「九九式双発軽爆撃機」を前にして、士官らから「特殊任務」とは体当たりのことで、突き出た3本の角が搭載爆弾の起爆管であると説明を受けて動揺している。陸軍航空隊のなかでは技量が優れているとされた岩本以下の特攻隊員たちであったが、海上を飛行することには不慣れで、また敵艦の対空火器を避けながら突入する技術もなかったので、海軍の指導を受けて訓練をしている。 岩本は、海軍初の航空特攻神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長となった関行男大尉と同じく1943年10月に結婚したばかりの新婚であった。岩本は特攻に反対で、通常の攻撃で戦果を挙げられる自信があると周囲に語っていたが、特攻隊の指揮官に任じられてからは、「自分のいのちで国体を護るのだ」という決心をしていた。岩本は10月20日の結婚記念日に外出を許可され、自宅に帰宅すると妻和子に一言「行くよ」と出撃を告げている。翌21日も外出を許可された岩本が再び帰宅すると、二階級上の階級章を和子に手渡した。すべてを察した和子は栗飯を作って岩本の出発を祝った。 特別攻撃用に改造された「九九式双発軽爆撃機」は、空中で爆弾が投下できない状態になっていたが、司令の今西はその用法を不審に思って爆弾を空中投下できるように改修する許可を出した。10月22日に陸軍航空審査部に立ち寄った岩本は、竹下より爆弾の安全装置離脱と緊急時の爆弾投下を可能にする改修方法の説明を受けて、立川航空敞で安全措置の改修も加えられた。同日に岩本らは改修を終えた「九九式双発軽爆撃機」で立川を出発した。出発に際しては司令の今西以下鉾田教導飛行師団の多くの将兵が見送った。特攻には批判的であった岩本であったが、見送る将兵たちには岩本らの意気込みが伝わっており、第13期陸軍少年飛行兵の林健太郎兵長はこの時の岩本たちの様子を「日本人ならでは乗れざる、起爆管を装したる偠撃機、将に見敵必殺の気魄に燃ゆる操縦者、挙手の礼を以って見送る部隊長閣下。我等の若き血潮はたぎり立つ、我等にも大命の下らん事を祈るのみなり」と日記に書いている。岩本は帰宅した際に和子に「8時半ごろ、家の上空を飛ぶから、家で待っていろ」と告げていたが、約束の時間に和子が両親や近所の人たちと空を見上げていると、約束通り航空機の編隊が飛来し、先頭の機が翼をバンクして飛び去った。この光景は、陸軍関係者や岩本の出発を密かに伝え聞いていた地元民1,000名以上が見ていたという。やがて編隊が東京に差し掛かると、隊員のひとりの田中逸夫曹長は、「編隊が東京上空にさしかかると、視界をさえぎる一点の雲も無く、はるかに宮城をおがみたてまつった。目の前には、白雪におおわれた富士山が朝日に美しく映えていた。宮城と富士と、そこに私はけがれなき国体が輝いているものと思った。操縦桿を握りしめる私の手は、感激の涙でしめった」と感じ「自分の命で国体を護るのだ」という思いを新たにし、これは隊長の岩本以下全隊員同じ思いであったと毎日新聞の報道班員福湯豊に述べている。 岩本らの編隊はこの後、各務ヶ原飛行場を経由して福岡県の雁ノ巣飛行場に着陸した。ここで岩本は和子に「出戦にあたりては、身に余る、壮行の夕を辱し、感激一入(ひとしお)なりき」などと記した手紙を送っている。その後は上海と台湾の嘉義飛行場を経由して10月29日にルソン島バタンガス州リパへ進出した。岩本らがフィリピンに向かっていた10月25日、レイテ沖海戦中に関ら神風特別攻撃隊が空母撃沈を含む大戦果を挙げたと報じられ、その情報を聞いた陸軍特別攻撃隊員たちは衝撃を受けている。その知らせを聞いた隊員の佐々木は「海軍には負けてられん」という気持ちになったという。 フィリピンに到着すると、岩本らの部隊は現地で「万朶隊」と命名された。部隊名は幕末時代の水戸藩藩士藤田東湖の漢詩「正気の歌」の一節「発いては万朶の桜となり、衆芳与に儔し難し。凝つては百錬の鉄となり、鋭利鍪を断つべし」を出典としており、万朶とは多くの花の枝、または多くの花、という意味であるが、万朶の花の散り際のあわただしさが愛惜されるので、散り際がまことに清いことを表現しているという意味もあるとされる。岩本はこのときの気持ちを「万朶隊の名を貰ひ、部隊長として大いに張り切っている」「其の名に恥じざる様、頑張るぞ、何卒ご安心下され度」と手紙に書いて、内地の妻和子に送っている。同じ頃浜松教導飛行師団において四式重爆撃機「飛龍」装備の特別攻撃隊「富嶽隊」も編成され、ルソン島のクラーク飛行場に進出していた。いずれも飛行学校改編の教導飛行師団の精鋭であった。 フィリピンに到着した特別攻撃隊「万朶隊」と「富嶽隊」は第4航空軍の指揮下に入り、クラーク・フィールドで激しい訓練を繰り返しながら出撃の機会をうかがった。10月30日には岩本の要請により、リパ飛行場(英語版)に進出していたマニラ航空敞の第3分敞が、「九九式双発軽爆撃機」の3本の突き出た起爆管を1本にする改造を行っている。このときに爆弾投下装置に更に改修が加えられ、手元の手動索によって爆弾が投下できるようになった。この改修は岩本が命令に反して決行したとの主張もあるが、日本を出発する前に鉾田教導飛行師団司令の今西が許可しており、すでに空中投下は可能となっていた。この改修ののち、「万朶隊」隊員に対して岩本は「体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけでなく、(敵艦を)撃沈できる公算は少ない。出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」などという指示を出したとする証言もある。 フィリピンに到着後「万朶隊」は連日特攻の猛訓練を実施している。訓練の様子を取材していた報道班員の福湯によれば、小柄且つ痩身で、普段は大きな声を出すこともない岩本が、人が変わったかのように声を張り上げて、岩本が立っているピスト(指揮所)に向けて突入する訓練を繰り返させていた。岩本が繰り返させた訓練は、加速度で爆弾の破壊力を増大させ、また対空砲火による撃墜の可能性が低いという利点があるが、敵艦が回避行動をとった場合に機体を立て直すことが困難という弱点のある「急降下法」と、散々訓練してきた「跳飛爆撃」の応用で、敵艦の2,000mから急降下して、海面20m程度の高度の水平飛行に移行し、そのまま敵艦の喫水線に体当たりを行うため、高い命中率が期待できるが、「跳飛爆撃」の欠点と同様に一定時間敵艦の対空砲火の浴び続けるので、撃墜される可能性が高いという欠点のある「水平跳飛法」の2つであった。岩本は戦況に応じて、確実に特攻を成功させるためにどちらの戦法で行くかその場で判断せよ。と厳格を通り越した神経質なまでの指示を与えていた。訓練中、各機はプロペラでピストを切るかのような勢いで突進してくるので、そのたびピストがゆらぎ、岩本は立っているのがやっとという状態であった。この訓練は、やり直しのきかない、一発必中を期した特攻を意識した訓練であり、岩本は隊員がヘトヘトになるまでこの突入訓練を繰り返させた。同じ第4航空軍で「九九式双発軽爆撃機」を運用していた飛行第75戦隊の戦隊長土井勤少佐は、岩本とは鉾田時代に顔見知りであったが、その“ふたたび還らざる出撃”を前提とした激烈な訓練を目の当たりにし、「万朶隊」の全員が“生きながらの軍神”のように見えたという。 訓練終了後に兵舎に帰ってきた「万朶隊」隊員が訓練の疲労で寝静まると、岩本は報道班員の福湯と酒を酌み交わしながら「万朶隊の攻撃はたった1度です。1度で必ず成功しなければなりません。死ぬことは、そんなにやさしいものではありません」と話すなど、初めから特攻を覚悟した発言をしており、同じ初の特攻隊の指揮官となった海軍の関が、報道班員であった小野田政に「ぼくなら体当りせずとも敵母艦の飛行甲板に50番(500kg爆弾)を命中させる自信がある」などと特攻を逡巡するような発言をしていたのとは対照的であった。 海軍が特攻により戦果を重ねていたことから、陸軍中央や現地の部隊長らから、司令官の富永に対して陸軍も「万朶隊」と「富嶽隊」を早急に出撃させるべきとの強い声が寄せられていたが、富永はせっかく空母を撃沈できるような重装備を持っている部隊なのだからと、戦機を見計らって出撃させると決めており、安易な出撃命令は出さなかった。
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