万朶隊の編成とは? わかりやすく解説

万朶隊の編成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:57 UTC 版)

万朶隊」の記事における「万朶隊の編成」の解説

着々と特攻開始向けて準備が進むなか、7月中には鉾田陸軍飛行学校から組織変更された鉾田教導飛行師団に「九九式双発軽爆撃機装備浜松教導飛行師団四式重爆撃機飛龍装備特攻隊編成する内示出た9月25日大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部速やかに特攻隊編成して特攻推進してもらいたい」との大本営の強い要請航空本部なされたが、大本営参謀からは「航空ボヤボヤしているから戦争負ける」とする非難もあり、航空本部反発している。特攻推進であった航空総監航空本部長後宮は、サイパン失陥責任をとって退任しており、本来は特攻消極であった菅原後任となっていたが、「今や対米勝利を得がたしとするも、現状維持にて終結する方策を練らざるべからず。之れ、最後に於ける敵機部隊対す徹底的大打撃なり」と日記記述しているなど、急速な進撃続けアメリカ軍艦隊に「徹底的大打撃」を与えるための作戦について、開戦初頭南方作戦航空作戦などで絶大な実績上げて陸軍航空第一人者評されていた菅原特攻の他は手段がないと考えており、9月28日から大本営から航空本部なされた特攻隊編成指示に従うこととなった10月4日航空本部は、鉾田教導飛行師団長今西に特攻部隊編成準備命令下した。しかし、参謀本部航空本部からは、大元帥からの正式な奉勅命令ではなくあくまでも志願者募れ」との指示であった。これは、大元帥である天皇特攻隊編成正式な奉勅命令を出すことは、天皇が「生きて帰ってくるな」という命令をするも同然であって建前として陸軍としても絶対に出せない命令であったためである。今西は、1回きりの特攻航空機搭乗員を失うよりも、何度も繰り返して出撃すべきとの持論によって特攻批判的であり、この命令苦悩して人選進まず10月13日隊員人選方法について部隊幹部協議したが、結論は出なかった。今西特攻問題点は「体当たり部隊の編成化は士気保持が困難で統率困り、かえって戦力低下するだろう」「この種の決死隊は、皇国興廃がこの1戦にあることを将兵一同認識した時に下部から盛り上がる気勢巧みにとらえて自然に結成され殉国結晶によって決行されるのが適当であり、内部部隊として常時編成しておく性質のものではない」「人の心は一日の中でのたびたび変わる者で、殉国精神懸念のない多数青年長時苦悩させるものではない」であると考えていた。 しかし10月17日レイテアメリカ軍来襲し捷号一号作戦発令されると、20日には正式な編成指示があり、今西苦悩の末、最初の特攻は確実を期さなければいけないと判断し航空本部の「絶対に志願者」との指示破って陸軍航空隊きっての操縦技量持ち特攻には批判的であった岩本中隊長とした佐々木友次伍長搭乗員精鋭16名(操縦士12名、航法1名、通信士3名)を指名し、他に整備員12名もつけた。志願を募らなかったのは、鉾田教導飛行師団首脳らの「志願者募れば全員志願するであろう」という考えに基づくものであった指名ののち、岩本士官には今西司令部から特攻についての説明はあったが、下士官以下には「特殊任務」という曖昧な説明しかなかった。下士官らは、風防ガラスから3本の角を突き出すような異様な姿に改造された「九九式双発軽爆撃機」を前にして、士官らから「特殊任務」とは体当たりのことで、突き出た3本の角が搭載爆弾起爆管であると説明受けて動揺している。陸軍航空隊のなかでは技量優れているとされた岩本以下の特攻隊員たちであったが、海上飛行することには不慣れで、また敵艦対空火器避けながら突入する技術もなかったので、海軍指導受けて訓練をしている。 岩本は、海軍初の航空特攻神風特別攻撃隊敷島隊」隊長となった関行男大尉同じく1943年10月結婚したばかりの新婚であった岩本特攻反対で、通常の攻撃戦果挙げられる自信があると周囲語っていたが、特攻隊指揮官任じられてからは、「自分のいのちで国体護るのだ」という決心をしていた。岩本10月20日結婚記念日外出許可され自宅帰宅すると妻和子一言「行くよ」と出撃告げている。翌21日外出許可され岩本が再び帰宅すると、二階上の階級章和子手渡した。すべてを察した和子栗飯作って岩本出発祝った特別攻撃用に改造された「九九式双発軽爆撃機」は、空中爆弾投下できない状態になっていたが、司令今西はその用法不審思って爆弾空中投下できるように改修する許可出した10月22日陸軍航空審査部立ち寄った岩本は、竹下より爆弾安全装置離脱緊急時爆弾投下可能にする改修方法説明受けて立川航空敞で安全措置改修加えられた。同日岩本らは改修終えた九九式双発軽爆撃機」で立川出発した出発に際して司令今西以下鉾田教導飛行師団多く将兵見送った特攻には批判的であった岩本であったが、見送る将兵たちには岩本らの意気込み伝わっており、第13陸軍少年飛行兵林健太郎兵長はこの時の岩本たちの様子を「日本人ならでは乗れざる、起爆管を装したる偠撃機、将に見敵必殺気魄燃ゆ操縦者挙手の礼以って見送る部隊長閣下我等若き血潮はたぎり立つ、我等にも大命下らん事を祈るのみなり」と日記書いている。岩本帰宅した際に和子に「8時半ごろ、家の上空を飛ぶから、家で待っていろ」と告げていたが、約束の時間和子両親近所の人たちと空を見上げていると、約束通り航空機編隊飛来し先頭の機が翼をバンクして飛び去った。この光景は、陸軍関係者岩本出発密かに伝え聞いていた地元民1,000名以上が見ていたという。やがて編隊東京差し掛かると、隊員のひとりの田中逸夫曹長は、「編隊東京上空さしかかると、視界をさえぎる一点無くはるかに宮城をおがみたてまつった目の前には、白雪おおわれ富士山朝日美しく映えていた。宮城富士と、そこに私はけがれなき国体輝いているものと思った操縦桿握りしめるの手は、感激の涙でしめった」と感じ自分の命で国体護るのだ」という思い新たにし、これは隊長岩本以下全隊員同じ思いであった毎日新聞の報道班員福湯豊に述べている。 岩本らの編隊この後各務ヶ原飛行場経由して福岡県雁ノ巣飛行場着陸した。ここで岩本和子に「出戦にあたりては、身に余る壮行の夕を辱し感激一入ひとしお)なりき」などと記した手紙送っている。その後上海台湾嘉義飛行場経由して10月29日ルソン島バタンガス州リパ進出した岩本らがフィリピン向かっていた10月25日レイテ沖海戦中に関ら神風特別攻撃隊空母撃沈を含む大戦果を挙げた報じられ、その情報聞いた陸軍特別攻撃隊員たちは衝撃受けている。その知らせ聞いた隊員佐々木は「海軍には負けてられん」という気持ちになったという。 フィリピン到着すると、岩本らの部隊現地で「万朶隊」と命名された。部隊名は幕末時代水戸藩藩士藤田東湖漢詩正気の歌」の一節「発いては万朶となり、衆芳与に儔し難し。凝つては百錬となり、鋭利鍪を断つべし」を出典としており、万朶とは多くの花の、または多くの花、という意味であるが、万朶の花散り際あわただしさ愛惜されるので、散り際まことに清いことを表現しているという意味もあるとされる岩本はこのときの気持ちを「万朶隊の名を貰ひ部隊長として大い張り切っている」「其の名に恥じざる様、頑張るぞ、何卒ご安心下され度」と手紙書いて内地の妻和子送っている。同じ頃浜松教導飛行師団において四式重爆撃機飛龍装備特別攻撃隊富嶽隊」も編成されルソン島クラーク飛行場進出していた。いずれも飛行学校改編教導飛行師団精鋭であったフィリピン到着した特別攻撃隊万朶隊」と「富嶽隊」は第4航空軍指揮下に入り、クラーク・フィールドで激し訓練繰り返しながら出撃機会うかがった10月30日には岩本要請により、リパ飛行場英語版)に進出していたマニラ航空敞の第3分敞が、「九九式双発軽爆撃機」の3本突き出た起爆管を1本にする改造行っている。このときに爆弾投下装置に更に改修加えられ手元の手動索によって爆弾投下できるようになった。この改修岩本命令反して決行したとの主張もあるが、日本出発する前に鉾田教導飛行師団司令今西許可しており、すでに空中投下は可能となっていた。この改修ののち、「万朶隊隊員に対して岩本は「体当たり機は、操縦者無駄に殺すだけでなく、(敵艦を)撃沈できる公算少ない。出撃しても、爆弾命中させて帰ってこい」などという指示出したとする証言もある。 フィリピン到着後「万朶隊」は連日特攻の猛訓練実施している。訓練様子取材していた報道班員の福湯によれば小柄且つ痩身で、普段大きな声を出すこともない岩本が、人が変わったかのように声を張り上げて岩本立っているピスト指揮所)に向けて突入する訓練繰り返させていた。岩本繰り返させた訓練は、加速度爆弾破壊力増大させ、また対空砲火による撃墜可能性が低いという利点があるが、敵艦回避行動をとった場合機体立て直すことが困難という弱点のある「急降下法」と、散々訓練してきた「跳飛爆撃」の応用で、敵艦の2,000mから急降下して海面20程度の高度の水平飛行移行しそのまま敵艦喫水線体当たりを行うため、高い命中率期待できるが、「跳飛爆撃」の欠点同様に一定時間敵艦対空砲火浴び続けるので、撃墜され可能性が高いという欠点のある「平跳飛法」の2つであった岩本戦況に応じて確実に特攻成功させるためにどちらの戦法で行くかその場判断せよ。と厳格通り越した神経質なまでの指示与えていた。訓練中、各機はプロペラピストを切るかのような勢いで突進してくるので、そのたびピストがゆらぎ、岩本立っているのがやっとという状態であった。この訓練は、やり直しきかない一発必中期した特攻意識した訓練であり、岩本隊員ヘトヘトになるまでこの突入訓練繰り返させた。同じ第4航空軍で「九九式双発軽爆撃機」を運用していた飛行第75戦隊戦隊長土井少佐は、岩本とは鉾田時代顔見知りであったが、その“ふたたび還らざる出撃”を前提とした激烈な訓練目の当たりにし、「万朶隊」の全員が“生きながらの軍神”のように見えたという。 訓練終了後兵舎帰ってきた万朶隊隊員訓練疲労寝静まると、岩本報道班員の福湯と酒を酌み交わしながら「万朶隊攻撃はたった1度です。1度で必ず成功しなければなりません。死ぬことは、そんなにやさしいものではありません」と話すなど、初めから特攻覚悟した発言をしており、同じ初の特攻隊指揮官となった海軍の関が、報道班員であった小野田政に「ぼくなら体当りせずとも敵母艦飛行甲板50番(500kg爆弾)を命中させる自信がある」などと特攻逡巡するような発言をしていたのとは対照的であった海軍特攻により戦果重ねていたことから、陸軍中央現地部隊長らから、司令官富永に対して陸軍も「万朶隊」と「富嶽隊」を早急に出撃させるべきとの強い声が寄せられていたが、富永はせっかく空母撃沈できるような重装備持っている部隊なのだからと、戦機見計らって出撃させると決めており、安易な出撃命令は出さなかった。

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