桜田一男
(チャンチュン から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/25 04:13 UTC 版)
桜田 一男 | |
---|---|
![]()
ダスティ・ローデスを攻撃するケンドー・ナガサキ(1982年)
|
|
プロフィール | |
リングネーム | ケンドー・ナガサキ ミスター・サクラダ ドリーム・マシーン ドラゴン・マスター ランボー・サクラダ チャン・チュン 桜田 一男 |
本名 | 櫻田 一男 |
ニックネーム | 剣道鬼 消火鬼 ブラック・ニンジャ (The Black Ninja) |
身長 | 188cm |
体重 | 120kg(全盛時) |
誕生日 | 1948年9月26日 |
死亡日 | 2020年1月12日(71歳没) |
出身地 | 北海道網走市 |
所属 | フリー |
スポーツ歴 | 大相撲 |
デビュー | 1971年6月27日 |
引退 | 2000年7月7日 |
|
||||
---|---|---|---|---|
基礎情報 | ||||
四股名 | 櫻田 → 網走洋 一男 → 翠巒 | |||
本名 | 桜田 一男 | |||
身長 | 176cm | |||
体重 | 106kg | |||
所属部屋 | 立浪部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 西幕下13 | |||
生涯戦歴 | 148勝132敗(44場所) | |||
優勝 | 序二段優勝1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1964年1月場所 | |||
引退 | 1971年3月場所 | |||
引退後 | プロレスラー | |||
備考 | ||||
2020年1月13日現在 |
桜田 一男(さくらだ かずお、1948年9月26日 - 2020年1月12日)は、日本のプロレスラー、大相撲力士。北海道網走市出身。本名(戸籍上の表記):櫻田 一男(読みは同じ)。ケンドー・ナガサキのリングネームで知られる。
来歴
父は網走刑務所の職員だった。中学卒業後大相撲の立浪部屋に入門し、1964年1月初土俵[1]。1966年9月場所には序二段で全勝優勝を果たしている。同期には島田(後の天龍源一郎)がいる。本名の櫻田の後『網走洋(あばしりなだ)』『翠巒(みどりみね)』[2]の四股名を名乗るが、先輩力士とのトラブルに端を発して部屋の親方と反りが合わなくなり、1971年3月廃業。同年日本プロレスに入門し、6月27日に戸口正徳戦でデビューした[3]。
日本プロレスには1973年の崩壊まで残ったが、同年3月2日に横浜文化体育館で行われた大城大五郎との試合はセメントマッチとなった[4]。これは、新日本プロレスへの移籍組と日本プロレスの残党による団体代理戦争であった。
その後、全日本プロレスに移籍する。正式には1976年3月31日まで日本テレビと3年契約を結んだ上、全日本へ派遣されていた。同年4月1日付で全日本正式所属選手となる。全日本の道場では新人のコーチを務め、渕正信、大仁田厚、園田一治らを指導している[5]。韓国遠征では虎柄の覆面を被り、タイガーマスクを名乗ったこともあった[6]。
1976年10月、ジャイアント馬場から「お前、髷が結えるか?」[7]と聞かれて「結えますよ」と答えたことで、プロレスに転向した天龍のアメリカ武者修行に床山として帯同し渡米するが[8]、渡米後は天龍と別行動を取り、『ミスター・サクラダ』のリングネームでアメリカをはじめカナダやプエルトリコなど北米各地を日本人ヒールとして転戦。
アメリカ中南部のNWAトライステート地区(後のMSWA)ではキラー・カール・コックスのパートナーに起用され、トップ戦線で活躍[9]。カナダのカルガリーではミスター・ヒトとのタッグで活動してアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦したほか、1978年7月8日にはエドモントンでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した[9][10]。同年10月に一時帰国し、カルガリーと提携していた国際プロレスの『日本リーグ争覇戦』に出場。決勝トーナメントでプロフェッサー・タナカに敗れるも敢闘賞を受賞した[9]。
以降もヒトとのコンビで各地を転戦し、1979年はカルガリーで2月10日にブレット・ハート&キース・ハート、7月7日にドリー・ファンク・ジュニア&ラリー・レーンを破り、同地区認定のインターナショナル・タッグ王座を獲得[11]。8月25日にはフロリダで、スティーブ・カーン&ジム・ガービンを下しNWAフロリダ・タッグ王座も手中に収めた[12]。テキサス州のダラスにも進出し、1980年1月から7月にかけて、ホセ・ロザリオ&エル・ハルコン、ケビン・フォン・エリック&ケリー・フォン・エリックなどのチームからNWAアメリカン・タッグ王座を奪取している[13]。
ヒトとのタッグ解消後は、ダラスで『チャン・チュン』なる覆面レスラーに変身し、シンガポール出身と称してザ・グレート・カブキと合体。1981年にケビン&デビッド・フォン・エリックを破り、テキサス版のNWA世界タッグ王座を獲得した[14](ケンドー・ナガサキに変身後の1982年10月および1983年1月の全日本プロレス帰国時もチャン・チュンと同じマスクを被り、覆面レスラーの『ドリーム・マシーン』として外国人サイドの一員となって参戦している[9][15][16])。

1982年3月、テリー・ファンクのアイデアにより古巣のフロリダでペイントレスラーの『ケンドー・ナガサキ』に変身[9]。剣道の防具をコスチュームに、頭頂部を剃り上げた落武者スタイルの怪奇派ヒールとして、ダスティ・ローデス、マイク・グラハム、ブライアン・ブレアー、バリー・ウインダム、ロン・バスらと抗争[17]。テネシー州メンフィスのCWAにも参戦して、同年5月にジェリー・ローラーとAWA南部ヘビー級王座を争う[18]。CWAではカマラとも怪奇派コンビを結成し、ローラー&ビル・ダンディーやスパイク・ヒューバー&スティーブ・リーガルと対戦した[19]。
1983年はビル・ワット主宰のMSWAにも登場して、マイク・シャープ、ジャンクヤード・ドッグ、ミスター・レスリング2号、ジム・ドゥガン、マグナムTA、ブッチ・リードなどと対戦[20]。5月13日のヒューストンでのイベントではミル・マスカラスとのシングルマッチが行われた[21]。主戦場のフロリダでは1984年1月22日、マイク・ロトンドを破ってNWAフロリダ・ヘビー級王座を獲得、3月29日にビリー・ジャックに敗れるまで戴冠した[22]。1985年3月には、当時全米侵攻を推進中だったWWFに対抗してAWAがニューヨークで開催した興行に参加。リック・マーテルが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦し、マサ斎藤ともタッグを組んでマーテル&サージェント・スローターやハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)と対戦した[23]。
1985年に全日本プロレスを退団して、7月よりノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区で後藤達俊と覆面タッグチーム『ライジング・サンズ』を結成。ロックンロール・エクスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)、アメリカン・スターシップ(スターシップ・イーグル&スターシップ・コヨーテ)などのチームと対戦した[24]。同年10月に新日本プロレスに参戦[9]、リングネームを『ランボー・サクラダ』に改め、素顔で試合を行い、コンガ・ザ・バーバリアン、レイ・キャンディ、バッドニュース・アレン、そしてブルーザー・ブロディともシングルマッチを行った[25]。
しかしこの改名が不評であったため、同年末には再びペイントを施してケンドー・ナガサキに戻り、ミスター・ポーゴをパートナーにIWGPタッグリーグ戦に出場。以降はポーゴとのオリエンタル系ペイント・タッグチーム『ニンジャ・エクスプレス』で活躍、カルロス・コロンの主宰するプエルトリコのWWCにも遠征し、1987年10月から1988年7月にかけて、マーク・ヤングブラッド&クリス・ヤングブラッドのレネゲード・ウォリアーズとWWC世界タッグ王座を争った[26]。
以後、再び渡米してWCWで活動。日本のヤクザをイメージしたキャラクターの『ドラゴン・マスター』に改名し、グレート・ムタやバズ・ソイヤーとユニットを組んでスティングやフォー・ホースメンと抗争する[27][28]。帰国後の1990年3月、旗揚げ間もないFMWに参戦。栗栖正伸とタッグを組み、大仁田厚&ターザン後藤とストリートファイトマッチで対戦した[29]。FMWには1シリーズのみの参戦となり、同年より将軍KYワカマツと共にSWS設立の中心人物として活動[30]。SWS旗揚げの際には再びケンドー・ナガサキのリングネームに戻して『道場・檄』の実質的なリーダーとして活躍した。
SWSの活動停止後は『道場・檄』のメンバーと、ジョージ高野や高野俊二らが所属していた『パライストラ』との合同でNOWを設立して代表取締役となる。正式な旗揚げ戦の前に高野兄弟が離脱したためエース的存在ともなるが、経営不振のためにNOWは崩壊した。
その後、1995年にグレート小鹿に誘われ大日本プロレスに参加し、デスマッチ路線で活躍するが、小鹿の意向でバーリトゥード挑戦を表明。当時「セメントマッチならナガサキが最強」と言われていたため、その強さを期待されてジェラルド・ゴルドーの兄であるニコ・ゴルドーと対戦。年齢的な問題もあり苦戦したものの勝利を収めた。
そして同年9月26日、47歳の誕生日であるこの日にシューティング(現:修斗)が主催した総合格闘技大会「Vale-Tudo Perception」に参戦し、キックボクシング出身のジーン・フレージャーと対戦。しかし試合開始後の僅か36秒で失神KO負けとなり、以後バーリトゥード路線から撤退することになる。この試合に関しては事前に対戦相手のことも調べず、バーリトゥード向けのトレーニングも行わずに1か月間ブラジルへ柔術修行に向かうも、ビーチを走っただけで実際には柔術の修行をしないまま臨んだとされる[31]。
その後、小鹿との見解の相違もあり大日本プロレスを離脱。フリーランスとしてSPWFやIWAジャパンに参戦し「NEW NOW」と称して自主興行も開催する。その一方で神奈川県小田原市にちゃんこ料理店「ケンドー」とスナック「ケンドー」を開店し、さらには魚料理のケータリングサービスや魚の仲買を行なう会社を設立し、料理店の食材仕入れはキラー・カーンの店と共同で行っていた。そのため2000年代にはこちらの経営が主となっており、プロレスのリングには時折上がる程度だった。その後の2009年には過労による体調不良もあり、すべての事業を廃業した。2013年の時点では千葉市に在住していた[32]。
2020年1月12日、千葉県市原市の自宅で死亡しているところを知人により発見された[33]。71歳没。訃報は翌13日にカリフラワー・アレイ・クラブによって公表された[34][35][36]。死去する直前の同月5日には都内でのファン交流イベントに参加[37]し、10日には船橋市のパーティーに出席[38]するなどしていた。
1月13日、かつて所属していた大日本プロレスの後楽園ホール大会で追悼セレモニーが行われ、旗揚げ時に苦楽を共にした小鹿会長、登坂栄児社長と共に、愛弟子でもある谷口裕一が桜田の遺影を持ってリングに登壇し、所属全選手がリングを取り囲んで追悼の10カウントゴングが鳴らされた[33]。
エピソード
- 日本プロレス時代の桜田のセメントの実力は日本人最強であったとも伝わる[39]。
- アメリカ武者修行時代の喧嘩の腕前は相当のもので、拳銃を持った相手に素手で立ち向かって叩きのめしたという逸話も残した[40]。
- 桜田の死去に至るまで大日本プロレスに「付き人」制度がないのは、桜田の影響だという[40]。
- 大日本プロレスの基礎となるデスマッチ戦線の土台を作った人物ともいわれる。1996年8月19日の横浜文化体育館で松永光弘と世界初のピラニアデスマッチを敢行したのはそれを如実に示した例と言える[40]。
得意技

獲得タイトル
- NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / ミスター・ヒト)[13]
- NWA世界タッグ王座(テキサス版):1回(w / ザ・グレート・カブキ)[14]
- AWA南部ヘビー級王座:1回[18]
- NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:1回(w / エド・ウィスコスキー)[42]
リングネーム
- 桜田一男(Kazuo Sakurada)
- ミスター・サクラダ(Mr. Sakurada)
- タイガーマスク(Tiger Mask)※全日本プロレス時代の韓国遠征時[6]
- チャン・チュン(Chan Chung)
- ドリーム・マシーン(The Dream Machine)
- ケンドー・ナガサキ(Kendo Nagasaki)※初代ケンドー・ナガサキ(ピーター・ソーンリー)とは無関係
- ランボー・サクラダ(Rambo Sakurada)
- ドラゴン・マスター(The Dragon Master)
入場曲
マネージャー

- タイガー服部 - ミスター・サクラダ(CWF)
- J・J・ディロン - ケンドー・ナガサキ(CWF)
- サー・オリバー・フンパーディンク - ケンドー・ナガサキ(CWF)
- スカンドル・アクバ - ケンドー・ナガサキ(MSWA)
- 将軍KYワカマツ - ケンドー・ナガサキ(新日本プロレス)
- ヒューゴ・サビノビッチ - ケンドー・ナガサキ(WWC)
- ゲーリー・ハート - チャン・チュン(WCCW)、ドラゴン・マスター(WCW)
著書
- 『ケンドー・ナガサキ自伝』(2018年5月19日、辰巳出版)ISBN 978-4777819676
脚注
- ^ ケンドー・ナガサキさん死去、デスマッチ戦線をけん引2020.1.13日刊スポーツ(2020.1.13 last access)
- ^ 同じ立浪部屋で1970年代に活躍した山梨県出身の翠巒とは別人である。
- ^ ケンドー・ナガサキさん死去「ケンカ最強」71歳2020.1.13東京スポーツ(2020.1.13 last access)
- ^ 桜田一男『ケンドー・ナガサキ自伝』、pp50-51
- ^ 桜田によると、当時新人や若手の指導はマシオ駒が行っていたが「駒は会場での指導はするが道場にはあまり来なかったため、実際にはほとんど自分が新人のコーチを行っていた」と後に発言している。
- ^ a b 桜田一男『ケンドー・ナガサキ自伝』、pp.62
- ^ 当時天龍はまだ廃業から日が浅く、髷が残っていたためである。天龍は父の意向で1か月後に力士の立場で妹の結婚式に参加しなければならなかったため、髷はそれまで落とすことが出来なかった。
- ^ 桜田一男『ケンドー・ナガサキ自伝』、pp.68-70
- ^ a b c d e f 『Gスピリッツ Vol.15』P94-98(2010年、辰巳出版、ISBN 477780772X)
- ^ “The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1978”. Wrestling-Titles.com. 2011年11月25日閲覧。
- ^ a b “Stampede Wrestling International Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年11月25日閲覧。
- ^ a b “NWA Florida Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年11月25日閲覧。
- ^ a b “NWA American Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年11月25日閲覧。
- ^ a b “NWA World Tag Team Title [World Class]”. Wrestling-Titles.com. 2011年11月25日閲覧。
- ^ “The AJPW matches fought by Kazuo Sakurada in 1982”. Wrestlingdata.com. 2021年1月28日閲覧。
- ^ “The AJPW matches fought by Kazuo Sakurada in 1983”. Wrestlingdata.com. 2021年1月28日閲覧。
- ^ “The CWF matches fought by Kazuo Sakurada in 1982”. Wrestlingdata.com. 2021年1月28日閲覧。
- ^ a b “AWA Southern Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年11月25日閲覧。
- ^ “The USWA matches fought by Kazuo Sakurada in 1982”. Wrestlingdata.com. 2021年1月28日閲覧。
- ^ “The UWF matches fought by Kazuo Sakurada in 1983”. Wrestlingdata.com. 2021年1月28日閲覧。
- ^ “Houston Wrestling: Event”. Cagematch.net. 2024年7月20日閲覧。
- ^ a b “NWA Florida Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年11月25日閲覧。
- ^ “The AWA matches fought by Kazuo Sakurada in 1985”. Wrestlingdata.com. 2021年1月28日閲覧。
- ^ “The WCW matches fought by Tatsutoshi Goto in 1985”. Wrestlingdata.com. 2023年11月19日閲覧。
- ^ “The NJPW matches fought by Kazuo Sakurada in 1985”. Wrestlingdata.com. 2021年1月28日閲覧。
- ^ a b “WWC World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年11月25日閲覧。
- ^ “The WCW matches fought by Kazuo Sakurada in 1989”. Wrestlingdata.com. 2021年1月28日閲覧。
- ^ “The WCW matches fought by Kazuo Sakurada in 1990”. Wrestlingdata.com. 2021年1月28日閲覧。
- ^ “The FMW matches fought by Kazuo Sakurada in 1990”. Wrestlingdata.com. 2023年1月20日閲覧。
- ^ ケンカ最強の人情家ナガサキさん日刊紙面で振り返る 日刊スポーツ 2020年1月27日8時0分(2020年1月28日閲覧)
- ^ 死去“ケンカ最強男”ケンドー・ナガサキさんの超絶武闘伝2020.1.14東京スポーツ(2020.1.15last access)
- ^ [1]
- ^ a b 【大日本】ケンドー・ナガサキさん追悼 小鹿会長「本当に感謝しかない」と涙 - 東スポWeb 2020年1月13日
- ^ “Wrestling world mourns Kendo Nagasaki, LA Parka” (英語). Slam Sports. Postmedia Network Inc. (2020年1月12日) 2020年1月13日閲覧。
- ^ プロレスラーのケンドー・ナガサキさん死去 “日本人ヒール”として全米で活躍 - デイリースポーツ online 2020年1月13日
- ^ ケンドー・ナガサキさん死去「ケンカ最強」71歳 - 日刊スポーツ 2020年1月13日
- ^ [2]
- ^ [3]
- ^ ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。ISBN 9784800289216 pp.184-185
- ^ a b c ケンカ最強の人情家ナガサキさん日刊紙面で振り返る 日刊スポーツ 2020年1月27日8時0分(2020年1月28日閲覧)
- ^ “Stampede Wrestling North American Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年11月25日閲覧。
- ^ “NWA Pacific Northwest Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年11月25日閲覧。
外部リンク
長春市
(チャンチュン から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/02 02:08 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2018年9月)
|
中華人民共和国 吉林省 長春市 | |
---|---|
|
|
別称:北国春城 | |
旧称:寛城子・新京 | |
![]() |
|
中心座標 北緯43度53分0秒 東経125度19分0秒 / 北緯43.88333度 東経125.31667度 | |
簡体字 | 长春 |
繁体字 | 長春 |
拼音 | Chángchūn |
カタカナ転写 | チャンチュン |
朝鮮語 | 창춘 |
国家 | ![]() |
省 | 吉林 |
行政級別 | 副省級市 |
建置 | 1800年 |
改制 | 1947年 |
面積 | |
総面積 | 20,571 km² |
人口 | |
総人口(2022) | 908.7 万人 |
経済 | |
GDP(2018) | 7,175.7億元 |
一人あたりGDP | 95,663元 |
電話番号 | 0431 |
郵便番号 | 130000 |
ナンバープレート | 吉A |
行政区画代碼 | 220100 |
公式ウェブサイト: http://www.changchun.gov.cn/ |
長春市(ちょうしゅん-し/チャンチュン-し、中国語: 长春市、拼音: 、英語: Changchun)は、中華人民共和国吉林省に位置する副省級市で同省の省都。総人口約909万人(2022年)。吉林省政府が所在し、省内の政治、経済、文化の中心地となっている。1932年から1945年までは満洲国の首都とされ、新京と呼ばれた。 市内には長春第一自動車製造工場と長春映画製作所が所在し、中国における自動車工業と映画製作の拠点となっている。住民は漢族、満族、朝鮮族、回族、モンゴル族、シベ族など38の民族から構成される。
概要
市内には、中国最大規模を誇る吉林大学を含む27の国立大学を抱え、中国科学院長春分院、高い研究開発力を有する中国科学院長春光学精密機械研究所、中国科学院長春応用化学研究所、長春人造衛星観測ステーション、東北地理・農業生態研究所、衛生部長春生物製品所など100余の重点科学研究機構も所在する、中国における重要な研究学園都市であり、科学技術人員の比重は中国でもトップクラスである。
また、北東アジア博覧会、長春映画祭、長春ブックフェア、長春国際モーターショー、長春国際農業食品博覧会など開催し、中国でも有数の会議・展示都市でもある。四季の違いが顕著で「北国春城」の異称を有する。
新京時代に満洲国の首都であったことから、市内には当時の建築物が多く残っている。
地理
長春市は吉林省中部、松遼平原に位置する。市の南方の伊通県に源を発する伊通河が市内を貫通して、市の北方で松花江へ流入している。
気候
ケッペンの気候区分では亜寒帯冬季少雨気候 (Dwa) に属し、夏は暑く、冬は非常に寒さが厳しい。1月の平均気温は-14.6℃、7月の平均気温は23.3℃である。
長春市(1986年 - 2015年)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 5.6 (42.1) |
14.5 (58.1) |
23.4 (74.1) |
31.9 (89.4) |
35.2 (95.4) |
36.7 (98.1) |
38.0 (100.4) |
35.6 (96.1) |
30.6 (87.1) |
27.8 (82) |
20.7 (69.3) |
11.7 (53.1) |
38.0 (100.4) |
平均最高気温 °C (°F) | −9.5 (14.9) |
−4.1 (24.6) |
4.0 (39.2) |
14.4 (57.9) |
21.7 (71.1) |
26.5 (79.7) |
27.6 (81.7) |
26.8 (80.2) |
22.0 (71.6) |
13.7 (56.7) |
1.9 (35.4) |
−7 (19) |
11.5 (52.7) |
日平均気温 °C (°F) | −14.6 (5.7) |
−9.5 (14.9) |
−1.4 (29.5) |
8.5 (47.3) |
15.9 (60.6) |
21.2 (70.2) |
23.3 (73.9) |
22.2 (72) |
16.2 (61.2) |
8.0 (46.4) |
−2.9 (26.8) |
−11.7 (10.9) |
6.3 (43.3) |
平均最低気温 °C (°F) | −18.9 (−2) |
−14.5 (5.9) |
−6.4 (20.5) |
2.8 (37) |
10.3 (50.5) |
16.3 (61.3) |
19.4 (66.9) |
18.0 (64.4) |
11.0 (51.8) |
2.9 (37.2) |
−7.1 (19.2) |
−15.8 (3.6) |
1.5 (34.7) |
最低気温記録 °C (°F) | −36.5 (−33.7) |
−31.9 (−25.4) |
−28.0 (−18.4) |
−15.9 (3.4) |
−3.1 (26.4) |
4.5 (40.1) |
10.6 (51.1) |
3.9 (39) |
−3.7 (25.3) |
−13.4 (7.9) |
−24.8 (−12.6) |
−33.2 (−27.8) |
−36.5 (−33.7) |
降水量 mm (inch) | 4.3 (0.169) |
6.1 (0.24) |
13.9 (0.547) |
24.4 (0.961) |
54.2 (2.134) |
97.2 (3.827) |
166.1 (6.539) |
120.8 (4.756) |
44.4 (1.748) |
22.2 (0.874) |
15.0 (0.591) |
7.5 (0.295) |
576.1 (22.681) |
平均降水日数 | 5.1 | 4.5 | 5.9 | 6.7 | 10.7 | 13.6 | 14.3 | 11.9 | 7.9 | 6.4 | 6.1 | 6.8 | 99.9 |
% 湿度 | 66 | 58 | 51 | 46 | 50 | 62 | 76 | 76 | 66 | 59 | 62 | 66 | 61.5 |
平均月間日照時間 | 176.9 | 200.2 | 235.6 | 237.7 | 257.4 | 244.6 | 218.9 | 234.6 | 238.0 | 211.1 | 167.0 | 155.4 | 2,577.4 |
出典:中国气象局 国家气象信息中心 2017-01-01 |
歴史
中国地名の変遷 | |
建置 | 1800年 |
使用状況 | 長春市 |
清 | 長春庁 長春府(1889年) |
---|---|
中華民国 | 長春県 長春市(1932年) |
満洲国 | 新京市 |
国共内戦期間 | 長春市 長春特別市(1948年) |
現代 | 長春市 |
古代
夏周代は粛慎(稷慎とも)の居住地であり、漢晋代にかけては扶余の版図に含まれた。南北朝時代以降は高句麗の北辺とされ、唐代に渤海が建国されるとこの地に扶余府が設置された。
遼代になると東京道竜州黄竜府、金代は上京路済州(後に隆州と改称)が設置された。元朝は開元路を設置、明代になると三万衛とし、後に蒙古科爾部の管轄とした。清初は内モンゴル・ゴルロス旗とされたが、この時代までは遊牧地とされており、本格的な農業が進められたのは1791年(乾隆56年)の山東の農民による入植に始まる。
清代末から現代
山東の農民人口が増加したことから1800年(嘉慶5年)、清朝により長春庁が設置され、理事通判、巡検各1名が設置され吉林将軍に属し、1889年(光緒15年)には長春府に昇格している。19世紀末、ロシア帝国が露清密約などに基づいて東清鉄道の支線を敷設したが、日露戦争後のポーツマス条約と満洲善後条約で日本が長春以南の鉄道支線権を譲り受けて南満洲鉄道株式会社を設立、1906年(光緒22年)には長春駅を新設し、交通の要衝として注目が高まる。 南満洲鉄道は、さらに1907年9月から周辺地域を買受けて鉄道付属地の開拓を進め、後に区画整理して新たな商業並びに住宅地を開発、この近代風建築が並んだ新市街が発展していった。

長春は1931年(民国20年)の満洲事変により関東軍の支配下に置かれた。翌年中華民国は新たに長春市を設置したが、同年に満洲国が建国されると実効支配権を喪失、満洲の首都に定められた長春は新京と改称された。満洲国時代は加藤与之吉ら日本人技師による積極的な都市計画が実施され、現在の市街地が形成されていくこととなった。満洲国時代の新京は、新市街とそれを包囲する形で商埠地が置かれ、新たに執政を行う官公所などの多くの公的機関はこの商埠地に設置され、日本による道路や鉄道等の交通インフラの整備により発展した。
1945年(民国34年)にソ連対日参戦で満洲国が崩壊すると新京は再び長春と改称され、ソ連軍の占領下で進出していた中国共産党が同年11月15日に長春市政府を設立して劉居英が市長となる。国共内戦においては毛沢東・林彪軍による長春包囲戦を受け、長春一般市民の2/3にあたる数十万人が餓死する大惨事となる。その結果として1948年からは人民解放軍の勢力下に置かれ、1949年に中華人民共和国が成立すると、長春は吉林省の省都となり現在に至る。
行政区画
7市轄区・3県級市・1県を管轄する。
長春市の地図 |
---|
年表
吉林省長春市(第1次)
- 1949年10月1日 - 中華人民共和国吉林省長春市発足。長春区・中華区・浄月区・勝利区・和順区・春陽区・頭道溝区・双徳区・勧農区・寛城区・東栄区を設置。(11区)
- 1950年1月19日 (9区)
- 勧農区および春陽区の大部分が双陽県に編入。
- 春陽区の残部が双徳区に編入。
- 1950年5月12日 - 長春県の一部が双徳区に編入。(9区)
- 1950年6月18日 - 長春区・中華区・浄月区・勝利区・和順区・頭道溝区・双徳区・寛城区・東栄区が一区から九区にそれぞれ改称。(9区)
- 1952年10月14日 (18区)
- 長春県・双陽県の各一部を編入。
- 市内行政区域の再編により、一区から十八区までの区が成立。
- 1953年7月8日 - 長春市が吉林省より離脱、直轄市の長春市となる。
長春市
- 1953年7月8日 - 長春市が吉林省より離脱、直轄市の長春市となる。
- 1954年6月19日 - 吉林省に編入され、吉林省長春市となる。
吉林省長春市(第2次)
- 1954年6月19日 - 長春市が吉林省に編入され、吉林省長春市となる。
- 1954年8月 (15区)
- 1955年5月11日 (10区)
- 1957年3月28日 - 大屯区・浄月区・興隆山区・范家店区が合併し、郊区が発足。(7区)
- 1957年6月1日 (5区)
- 長春区が南関区に編入。
- 頭道溝区が寛城区に編入。
- 1958年2月15日 - 公主嶺専区懐徳県の一部が大屯区に編入。(5区)
- 1958年10月22日 - 公主嶺専区伊通県の一部が浄月区に編入。(5区)
- 1958年10月23日 - 公主嶺専区楡樹県・九台県・農安県・徳恵県・双陽県を編入。(5区5県)
- 1961年 - 郊区の一部が朝陽区に編入。(5区5県)
- 1965年11月29日 (5区5県)
- 1966年1月10日 - 楡樹県・農安県・九台県・徳恵県・双陽県が徳恵専区に編入。(5区)
- 1969年1月20日 - 寛城区・朝陽区・南関区・二道河子区の各一部が郊区に編入。(5区)
- 1969年7月3日 - 徳恵専区楡樹県・農安県・九台県・徳恵県・双陽県を編入。(5区5県)
- 1982年8月2日 - 楡樹県・農安県・九台県・徳恵県・双陽県が徳恵地区に編入。(5区)
- 1983年8月30日 - 徳恵地区楡樹県・農安県・九台県・徳恵県・双陽県を編入。(5区5県)
- 1983年12月22日 - 郊区の一部が寛城区・朝陽区・南関区・二道河子区に分割編入。(5区5県)
- 1985年12月19日 (5区5県)
- 郊区の一部が寛城区に編入。
- 南関区の一部が二道河子区に編入。
- 1988年8月30日 - 九台県が市制施行し、九台市となる。(5区1市4県)
- 1990年12月26日 - 楡樹県が市制施行し、楡樹市となる。(5区2市3県)
- 1994年7月6日 - 徳恵県が市制施行し、徳恵市となる。(5区3市2県)
- 1995年7月6日 (6区3市1県)
- 2005年7月30日 (6区3市1県)
- 九台市の一部が二道区に編入。
- 農安県の一部が寛城区に編入。
- 2005年8月5日 - 徳恵市の一部が寛城区に編入。(6区3市1県)
- 2005年12月8日 (6区3市1県)
- 二道区の一部(英俊鎮の一部)が南関区に編入。
- 南関区の一部(浄月街道の一部)が二道区に編入。
- 2014年10月20日 - 九台市が区制施行し、九台区となる。(7区2市1県)
- 2020年6月5日 - 四平市公主嶺市を編入。(7区3市1県)
懐徳専区
- 1956年7月3日 - 懐徳県・楡樹県・農安県・扶余県・徳恵県・九台県・梨樹県・伊通県・双陽県・西安県を編入。懐徳専区が成立。(10県)
- 西安県が東遼県に改称。
- 1956年10月6日 - 懐徳専区が公主嶺専区に改称。
公主嶺専区
- 1956年10月12日 - 懐徳県の一部が分立し、公主嶺市が発足。(1市10県)
- 1956年11月8日 - 徳恵県の一部が楡樹県に編入。(1市10県)
- 1957年7月23日 (1市10県)
- 九台県の一部(泡子郷・吉家郷・布海郷・双廟子郷・昇陽郷・長山郷)が徳恵県に編入。
- 徳恵県の一部(太合郷・義合郷・城子街郷)が九台県に編入。
- 1958年2月15日 - 懐徳県の一部が長春市大屯区に編入。(1市10県)
- 1958年3月21日 - 楡樹県の一部が黒龍江省五常県に編入。(1市10県)
- 1958年10月22日 - 伊通県の一部が長春市浄月区に編入。(1市10県)
- 1958年10月23日
- 楡樹県・九台県・農安県・徳恵県・双陽県が長春市に編入。
- 扶余県が白城専区に編入。
- 公主嶺市・懐徳県・梨樹県・伊通県・東遼県が四平専区に編入。
徳恵専区(1966年-1969年)
- 1966年1月10日 - 長春市楡樹県・農安県・九台県・徳恵県・双陽県を編入。徳恵専区が成立。(5県)
- 1969年7月3日 - 楡樹県・農安県・九台県・徳恵県・双陽県が長春市に編入。
徳恵地区(1982年-1983年)
- 1982年8月2日 - 長春市楡樹県・農安県・九台県・徳恵県・双陽県を編入。徳恵地区が成立。(5県)
- 1983年8月30日 - 楡樹県・農安県・九台県・徳恵県・双陽県が長春市に編入。
公主嶺市
住民
中国東北部の他の都市と同様に、漢民族が大多数(96.57パーセント)を占め、他民族は満洲族2.0、朝鮮族0.69、回族0.61、モンゴル族0.16パーセントとなっている。
文化
方言
長春市の言葉は中国語東北方言で、闖関東民族移動により河北省・山東省の方言の影響を受けてきた。しかし、長春の経済的な発展に伴い、各地から様々な言語の話者が集まってきたため、現在では普通話に近いものになっている[3]。
宗教
長春には中国の五大宗教、すなわち仏教、道教、カトリック、プロテスタント、イスラム教が見られる。護国般若寺(中国語)、地蔵寺、長春文廟(中国語)、長春天主教堂、長春キリスト教会、長春大寺[4]など、政府公認の宗教施設が396施設ある。
満洲族の間では、独特なシャーマニズムが守られてきたが、現代ではほとんど残っていないとされる。
文化施設
- 偽満皇宮博物院
- 南湖公園
- 長春電影城
- 長春電影制片廠
- 長春映画村(長影世紀城)
- 長春世界彫塑公園
- 八大部 - 旧満洲國政府の治安部、司法部、経済部、交通部、興農部、文教部、外交部、民生部の建物群
- 旧関東軍司令部
- 長春蓮花山スキー場
- 長春淨月潭スキー場
- 長春孔子文化園
- 吉林省図書館
- 長春地質宮博物館
経済
長春は中国東北部の主要都市のひとつとして、また吉林省の首都として、あらゆる産業が盛んである。
農業・漁業・林業
市内の伊通河流域は肥沃であるため、都市化が進んでいるものの、郊外では農業が盛んである。吉林省ではトウモロコシ、大豆、米が主要作物である。南郊漁場などで淡水魚の養殖も行われている。長春は「東北の三宝」(薬用人参、貂の毛皮、鹿の袋角)の集積地でもある。
工業
自動車産業(第一汽車など)が最大の製造業であり、外国の自動車会社(フォルクスワーゲン、アウディ、トヨタ、マツダなど)との合弁会社による製造も盛んで、自動車の裾野産業の企業も多数ある。飲料産業(百事可楽など)、製薬業(長春和平製薬など)、紡績業(銀竜集団など)、鉄道車両製造(中国北車集団の長春軌道客車)などもある。
特別産業区
特別産業区には、以下の5区があり、共に国内外の企業を誘致している。
- 長春経済技術開発区
- 南東郊外、伊通河の東側に位置する。
- 長春高新技術(ハイテク)産業開発区
- 南西郊外、鉄道の東側に位置する。
- 長春汽車(自動車)産業園
- やはり南西郊外、鉄道の西側で、古い地区。
- 長春浄月経済開発区
- 南東郊外、浄月潭森林公園、偽満皇宮博物院、長影世紀城など代表的な旅行レジャー産業体系を形成した。
- 長春南部都市経済開発区
- 長春市都市中心路人民大街の南端に位置する。
サービス業
交通関連産業、流通業、商業も盛んである。市内南西地区にある長春欧亜売場 (Eurasia Shopping Mall) はアジア最大のショッピングセンターである。満洲国時代からある映画産業(長春映画製作所)は有名で、そのテーマパーク(長春電影城や長影世紀城など)もある。
スポーツ
- 中国サッカー・スーパーリーグのプロチーム長春亜泰、中国プロバスケットボールリーグのチーム吉林ノースイーストタイガースの本拠地。
- 2007年1月28日 - 2月4日の会期で、アジア冬季大会が開催された。
- 2003年より、クロスカントリースキーの大会「バーサーロペット・チャイナ」が開かれている。
教育


- 吉林大学
- 長春工業大学
- 長春理工大学
- 吉林農業大学
- 東北師範大学
- 長春大学
- 吉林華橋外国語学院
- 長春中医薬大学
- 長春工程学院
- 長春税務学院
- 長春師範学院
- 長春財経学院
- 吉林外国語大学
- 吉林芸術学院
- 吉林体育学院
- 吉林工商学院
- 吉林警察学院
- 長春光華学院
- 長春東方職業学院
- 長春建筑学院
- 長春科技学院
- 長春健康職業学院
- 東北師範大学人文学院
- 長春大学旅行学院
- 長春工業大学人文信息学院
- 吉林建築工程学院
- 吉林工程技術師範学院
- 吉林水利电力職業学院
- 吉林城市職業技术学院
- 吉林建筑科技学院
- 吉林動画学院
- 長春医学高等専科学校
- 長春金融高等専科学校
- 長春自動車工業高等専科学校
- 長春師範高等専科学校
- 長春職業技術学院
- 吉林商業高等専科学校
- 吉林糧食高等専科学校
- 吉林公安高等専科学校
- 吉林財税高等専科学校
- 吉林交通職業技術学院
- 吉林司法警官職業学院
軍事
- 中国人民解放軍空軍航空大学
- 中国人民解放軍装甲兵技術学院
交通
航空

- 長春龍嘉国際空港と以下の都市との間に航空便が就航している。
鉄道
道路
姉妹都市
ノヴィ・サド(セルビア)
ミンスク(ベラルーシの首都)
ウィンザー(カナダ)
ジリナ(スロバキア)
蔚山広域市(韓国)
リトルロック(アメリカ合衆国)
ウラン・ウデ(ロシア)
マスタートン(ニュージーランド)
清津市(朝鮮民主主義人民共和国)
ムーラ(スウェーデン)
ヴォルフスブルク(ドイツ)
モントルイユ(フランス)
ティフアナ(メキシコ)
ヌーク(デンマーク領グリーンランド)
友好都市
ゆかりの人物
|
|
舞台とした作品
関連項目
脚注
外部リンク
「チャンチュン」の例文・使い方・用例・文例
- チャンチュンのページへのリンク