にげん‐ろん【二元論】
二元論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/29 23:38 UTC 版)
二元論(にげんろん、dualism)とは、世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。二元論的な考え方は、それが語られる地域や時代に応じて多岐に渡っている。二元説とも言われるが、論理学における矛盾原理および排中原理とは異なる。
- ^ Verardi 1997, p. 323.
- ^ a b Conze 1967.
- ^ ブリタニカ・ジャパン 2021a, p. 「グノーシス派」.
- ^ 小学館 2021a, p. 「グノーシス派」.
- ^ 小学館 2021b, p. 「グノーシス」.
- ^ Hoeller 2012, p. 180.
- ^ 六派哲学のひとつ
二元論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
三島の作品は、『純白の夜』『愛の渇き』『真夏の死』『夜の向日葵』『美徳のよろめき』『春の雪』『薔薇と海賊』『裸体と衣裳』『絹と明察』など、反対の概念を組み合わせた題名が多く、『仮面の告白』では「仮面を被る」ことと、本来は反対の概念である「告白」が、アイロニカルに接合していることが指摘されている。 文学のテーマも、三島自身が〈『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなもの〉と言っているように、生と死、文と武、精神と肉体、言葉と行動、見る者と見られる者(認識者と行為者)、芸術と人生、作者と彼、といった二元論がみられるが、その〈対〉の問題は単純な並列や対立関係ではないところに特徴がある。 『トニオ・クレエゲル』の〈トニオ〉対〈ハンスやインゲ〉に象徴される〈芸術家〉対〈美しい無智者(欠乏の自覚〈エロス〉を持たぬ下方の者でありながらも美しいという存在)〉の二項の図式から生じてくる芸術家・トニオの〈分裂の意識(統一的意識を持つこと自体が二律背反であること)〉を解読した三島には、〈統一的意識の獲得〉を夢見て、〈欠乏の自覚を持つことをやめて、統一的意識そのもの〉〈人工的な無智者〉に成り変わり、〈自己撞着の芸術観〉、つまりは〈エロスを必要とせぬ芸術〉〈無智者の作りうる芸術〉を打ち建てようという思考がみられる。 『潮騒』あたりから三島が志向し始めた「〈統一的意識そのもの〉に成り変る者」とは、〈芸術家〉(作者)、〈彼〉(無智者かつ美的存在で欠乏の自覚を持たぬ者)のいずれに属するのか、一体「誰」になるのかを青海健は考察し、三島文学の特異性について以下のように論じている。 “芸術家小説”である作品空間は、あのアキレスと亀の話のように、限りなく作者に近接するものの、永遠に作者に到達することはない。近づけば近づくほど、逆に作者は限りなく作品空間から遠ざかるのだ。芸術対人生の対立をのり超えたと信じた三島は、この地点で、転換されたレベルでの二項対立に新たに捕えられるのである。それは鏡の部屋の中でのように無限に繰り返されるだろう。「彼」は作者になりうるか、作者は「彼」になりうるか……。この自己撞着のウロボロスの無限円環のなす背理そのものが、以後の三島の文学空間を規定したのである。 — 青海健「表層への回帰――三島由紀夫論」 すでに行動の世界にいた三島が自決(三島事件)の3年前、〈今は、言葉だけしか信じられない境界へ来たやうな心地がしてゐる〉とし、大東亜戦争時にあらん限りの〈至上の行動〉を尽くし、特攻隊が〈人間の至純の魂〉を示したにもかかわらず、〈神風が吹かなかつた〉のならば〈行動と言葉とは、つひに同じことだつたのではないか〉、「力を入れずして天地(あめつち)を動かし」(古今集での紀貫之の序)という宣言(〈言葉の有効性には何ら関はらない別次元の志〉)の方がむしろ〈その源泉をなしてゐるのではないか〉と思い至り、〈このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化し〉、〈行動ではなくて言葉になつた〉と語っているが、この〈言葉〉とは、「言葉からはみ出してしまうものを表現するものである言葉」(『太陽と鉄』での〈「肉体」の言葉〉)を意味している。 その三島の〈肉体〉は〈すでに言葉に蝕まれてゐた〉ゆえ、両者は永遠の往還となり、〈言葉〉によって〈肉体〉に到達しようとし、その〈肉体〉への到達がまた〈言葉〉へ還流するという「アイロニカルな円環」(到達不可能)であり、最終的には〈言葉〉と〈肉体〉のどちらでもなく、そのどちらでもあるという境界(「絶対の空無」、〈死〉)でしか超えられず、この〈生〉と〈死〉の関係性を「輪廻転生」(生と死が対立概念ではない)として表現した作品が『豊饒の海』となり、認識者の自意識(言葉)との格闘が物語られる3巻と4巻(『暁の寺』と『天人五衰』)で、最後に「作者」(三島)を待ち受けるのが、「絶対の空無」であると青海は論考している。 言葉の領域でもあった〈生〉と、〈死〉との連続性を垣間見た三島が、〈言葉の有効性〉をそぎ落とし、目指した〈詩的秩序をあらゆる有効性から切り離す〉こととは、「言葉の表層」、「エロス的悲劇性の表層」へと回帰することであり、「言葉が現実に対して無効となる時はじめてその本来の力を開示する」ということだったと、青海は三島の作品遍歴から論考している。〈行動と言葉とは、つひに同じことだつた〉と三島が悟ったのは、言葉から逃走した地点が、〈行動〉の有効性をも消滅する地平でもあり、その〈行動〉に向かうことで、アイロニカルにも、「言葉の無効性を生かすこと」が可能となり、「言葉の否定による言葉の奪還」というパラドックス(円環)になる。 三島の『花ざかりの森』が初掲載された『文藝文化』には、蓮田善明の『鴨長明』が同時掲載され、そこで蓮田は、肉も骨もなくなり、魂だけになった「言葉」が鴨長明の和歌だと論じている。島内景二は、それは三島の行きついた「魂の形」を予言していたとし、三島は尊敬する蓮田の論を意識し、「血と見えるものも血ではなく、死と思われるものも死ではない」境地の、「肉も骨もない、魂だけの言葉」に辿り着くため、蓮田の論を実践し証明しようとしたと考察している。
※この「二元論」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
「二元論」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。
二元論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 00:15 UTC 版)
マニ教は徹底した二元論的教義を有し、宇宙は光・闇、善・悪、精神・物質のそれぞれ2つの原理の対立に基づいており、光・善・精神と闇・悪・肉体の2項がそれぞれ明確に分けられていた始原の宇宙への回帰と、マニ教独自の救済とを教義の核心としている。 この点について、善悪・生死の対立を根本とするゾロアスター教の二元論よりも、物質・肉体への嫌悪感が非常に強く、禁欲的かつ現世否定的な傾向があるギリシア哲学的な二元論の影響がうかがえる。
※この「二元論」の解説は、「マニ教」の解説の一部です。
「二元論」を含む「マニ教」の記事については、「マニ教」の概要を参照ください。
二元論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:31 UTC 版)
自らの哲学の原点を二元論であるとする。その二元論は、東の哲学の主著である『存在論的、郵便的』において、「誤配」という概念を提示し語られた、二つの超越論性に示される。またその二元性は、『一般意志2.0』において、人間の人間性の原理における言語的コミュニケーション(熟議)による「人間的単数的公共性」とともに、動物性の原理を介して憐れみの海から「誤り」により起こる「動物的複数的公共性」の議論が展開されていることに直結する(本頁「社会哲学」の節を参照)。また『動物化するポストモダン』で語られた「動物化」も、その二元論の議論による概念である。東は、著書『一般意志2.0』を、非常にコンセプチュアル(概念的)な書物だとしている。「誤配」は、東にとって、『存在論的郵便的』以降『一般意志2.0』なども含めたあらゆる仕事において、その二元論の中核となる、非常な重要な概念である。 「誤配」を重要な概念として語られる、単数的な超越論性に対する複数的な超越論性の議論は、無論『存在論的、郵便的』の目的であるジャック・デリダの哲学に対する読解から導き出されたものであるが、同時に東浩紀は、フェリックス・ガタリの著作を非常に重要視している。それは、ガタリの有名な著作である『分裂分析的地図作成法』への言及である。東はガタリが著作内に示した「四つの存立性の区域」に関する図表を重要視する。そこでは、「現実的」対「可能的」の対立と「実在的」対「潜在的」の対立という二つの対立の交差により構成される四区域が示されている。 私たちは前章より一貫して、「不可能的なもの」、非世界的存在、つまり超越論的対象を複数的に捉える思考の可能性について考察してきた。ガタリの図式がその観点から注目されるのは、そこで彼が超越論的な区域をも「現実的」と「可能的」の二つに分けていたからである。 — 東浩紀、『存在論的、郵便的』、新潮社、1998年、202頁 ……ガタリの「分裂分析」が、現実的でないもうひとつの超越論性の区域を提案していたことはきわめて示唆的である。それはまさに本書がいままで示唆してきた領野、「不可能的なもの」が複数的に構成される、いわば複数的な超越論性の領野を指示すると思われる。 — 東浩紀、『存在論的、郵便的』、新潮社、1998年、203頁 ガタリの「分裂分析」が東浩紀に与えた影響は大きく、國分功一郎との対談では、『存在論的、郵便的』から十三年後に発表した自身の著作『一般意志2.0』において言及している「動物的公共性」と「人間的公共性」、そして「動物的市場」と「人間的市場」(最後の「人間的市場」については『一般意志2.0』において言及されているものではなく、『震災ニッポンはどこへいく』の中で「あるかもしれない」と述べられているのみ)などの区分は、ガタリの「分裂分析」を捉え直したものだと明言した。また、東浩紀が編集している『思想地図』の誌名は、ガタリの『分裂分析的地図作成法』に由来している。 東は、「合理性と欲望のあいだに張り渡された綱としての人間」という自らの哲学における人間観について、「ニーチェは「人間とは動物と超人のあいだに張り渡された綱である」とどこかで書いているけど、ぼくはその箴言に忠実に哲学をやっているつもり」と説明したこともある。
※この「二元論」の解説は、「東浩紀」の解説の一部です。
「二元論」を含む「東浩紀」の記事については、「東浩紀」の概要を参照ください。
二元論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 15:38 UTC 版)
宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、誤謬である、とグノーシス主義は考えた。 ここでは、「善」と「悪」の対立が二元論的に把握される。まず、善とされる神々が、この悪である世界の原因であれば、それは悪の神であり、「偽の神」である。となるとその場合、どこかに「真の神」が存在し、「真の世界」が存在するはずだ、と考える。 悪の世界は「物質」で構成されているので、故に物質も悪と判断する。物質で造られた肉体も然りである。一方、「霊」あるいは「イデアー」が「真の存在」であり、「真の世界」である、と解釈される。 善と悪、真の神と偽の神、また霊と肉体、イデアーと物質、という「二元論」が、グノーシス主義の基本的な世界観である。これが「反宇宙論」と合わさり、「反宇宙的二元論」という思想になった。
※この「二元論」の解説は、「グノーシス主義」の解説の一部です。
「二元論」を含む「グノーシス主義」の記事については、「グノーシス主義」の概要を参照ください。
二元論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 13:55 UTC 版)
三和音を関連付けるためのリーマンの「二元論(ドイツ語版)(dualism)」システムは、初期の19世紀の和声理論家から脚色されたものである。「二元論」という用語は、長三和音の「逆」バージョンと見なされる短三和音を含む、長調と短調の反転関係に重点を置くことを指す。この「和声二元論(harmonic dualism)」(極性和声理論、harmonic polarity)は、上記の方向転換を生じさせるものである。関連用語Utonality(英語版)も参照。 近年では、一部の人々(ジェイコブ・コリアーなど)は、二元論を「ネガティブハーモニー(negative harmony)」の理論と呼ぶ[要説明]。
※この「二元論」の解説は、「リーマン理論」の解説の一部です。
「二元論」を含む「リーマン理論」の記事については、「リーマン理論」の概要を参照ください。
「 二元論」の例文・使い方・用例・文例
二元論と同じ種類の言葉
- 二元論のページへのリンク