薔薇戦争
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第三次内乱
リチャード3世の簒奪
エドワード4世の残りの治世は比較的平和が保たれた。末弟グロスター公リチャードと長年の友であり支持者でもあったヘイスティングス卿ウィリアム・ヘイスティングスには忠誠に対して十分な恩賞が与えられ、おのおの中部と北部の支配を任された[110]。クラレンス公ジョージは次第にエドワード4世と不和になり、1478年に謀反に関与した嫌疑で処刑された[111]。一方、グロスター公はウォリック伯の遺児でエドワード・オブ・ウェストミンスターの未亡人であるアン・ネヴィルと結婚して、ネヴィル家の私党を引き継ぎ、北部で大きな勢力を蓄えるようになった[112]。
1483年4月9日にエドワード4世が急死した。国王の死を契機に王妃の親族ウッドヴィル家(弟のリヴァーズ伯アンソニーと最初の結婚の時の子のドーセット侯トマス)と古くからの側近のヘイスティングス卿との対立が表面化した[113]。エドワード4世が死去したとき、王位を継承するエドワード5世はわずか12歳であり、リヴァーズ伯のもとラドロー城で養育されていた。
死の床にあったエドワード4世は、グロスター公リチャードを護国卿に指名したとされる[114]。エドワード4世が身罷った時、グロスター公は北部に滞在していた。ウッドヴィル一族は宝物庫と武器庫を兼ねていたロンドン塔を確保すると、兵を集めて一種のクーデターを断行した[115]。エドワード4世の死を受けて開かれた国王評議会はウッドヴィル一族によって主導され、ヘイスティングス卿の反対を退けて、グロスター公を実権のない名誉職に祭り上げる決定をした[116]。危機感を持ったヘイスティングス卿はグロスター公に、ウッドヴィル家に対抗しうる兵力を持ってロンドンに入るよう伝えた[117]。
4月28日、グロスター公リチャードとバッキンガム公ヘンリー・スタフォードは、エドワード5世を警護しつつロンドンに向かっていたリヴァーズ伯をストーニー・ストラットフォードで拘束した[119]。彼らはリヴァーズ伯に争う意図はないと伝えていたものの、その翌日に彼を投獄してしまい、エドワード5世には国王の身を害そうとするウッドヴィル家による陰謀を妨げるために行ったと告げた。リヴァーズ伯と王の異父兄のリチャード・グレイはヨークシャーのポンテフラクト城に送られ、6月末に処刑された[120]。
5月4日、グロスター公リチャードに保護されたエドワード5世はロンドンに入城し、ロンドン塔に送られた。エリザベス王太后は残りの子とともにウェストミンスター寺院に入り庇護を求めた。6月22日のエドワード5世の戴冠式の準備は進められ、この時点でグロスター公リチャードの護国卿の任期は終わることになっていた。6月13日、グロスター公リチャードはヘイスティングス卿を呼び出すと、裁判なしでその日のうちに処刑した[121]。
カンタベリー大司教トマス・バウチャーはエリザベス王太后に対して、9歳になる王弟ヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーをロンドン塔にいるエドワード5世の元に送るよう説得した[122]。子供たちの身柄を確保したグロスター公は説教師やバッキンガム公を使って、故エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を違法であり、2人の子は庶子であると訴えさせた[123]。議会はこれに同意して、「王たる資格」(Titulus Regius)を発し、グロスター公を正式に国王リチャード3世であると宣言した。囚われの身の2人の少年は姿を消し、おそらくはリチャード3世に殺害されたと見られているが[124]、王位継承権に疑義があったヘンリー7世によって殺害されたとする説もある[125]。
7月16日に盛大な戴冠式が催され、それからリチャード3世は中部と北部への行幸に赴いて気前よく下賜金を施し、また自らの息子エドワード・オブ・ミドルハムにプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)の称号を与えた。
バッキンガム公の反乱
第三次内乱 | |||
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1471年にヘンリー6世とその王子のエドワード・オブ・ウェストミンスターが殺害され、その他の者も命を落としたことで、ランカスター家の王位継承者としてリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの存在が浮上していた[126]。ヘンリー・テューダーの父リッチモンド伯エドマンド・テューダーはヘンリー6世の異父弟であるが[n 7]、王位継承権自体は母マーガレット・ボーフォートからのものである。マーガレットはエドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーントの子ジョン・ボーフォートの孫である。ジョン・ボーフォートは出生時には私生児であり、後に両親が結婚して嫡出子となったが、ヘンリー4世の命によってジョン・ボーフォートの子孫の王位継承権は排除させられていた[127]。このためにヘンリー・テューダーの血統の王位継承権には疑義があった[127]。
ヘンリー・テューダーは少年時代の大部分を包囲下にあったハーレフ城と亡命先のブルターニュで過ごしている。1471年以降、エドワード4世はリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの王位継承権について軽視しており、幾度か身柄の確保を試みるだけだった。ヘンリー・テューダーの母マーガレット・ボーフォートは2度再婚しており、最初はバッキンガム公の甥、その次はエドワード4世治世での要人の一人であるトマス・スタンリーと再婚して息子に対する支持を固めていた。1483年、マーガレット・ボーフォートはエドワード4世の長女であり、弟たち亡きあとはヨーク家の相続人となったエリザベス・オブ・ヨークとヘンリー・テューダーとの婚約を成立させた[128]。
リチャード3世に対する反抗は南部で起こった。1483年10月18日、バッキンガム公ヘンリー・スタフォード(リチャード3世の即位に貢献し、自らも遠縁ながら王位継承権を有する)がランカスター系のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの擁立を標榜して挙兵した。ヘンリー・テューダーよりはエドワード5世か王弟を擁立すべしという意見もあったが、バッキンガム公は両人は既に殺害されていると認識していた[129]。
南部における彼の支持者の一部が蜂起したが、時期尚早な蜂起であり、リチャード3世の代官ノーフォーク公ジョン・ハワードによってバッキンガム公との合流を阻止されてしまう。バッキンガム公自身は中部ウェールズのブレコンで蜂起した。彼は南イングランドの叛徒との合流を図るが暴風雨によってセヴァーン川の渡河を妨げられ、ヘンリー・テューダーはイングランドに上陸したが形勢不利とみて引き揚げている。バッキンガム公の兵は飢えに苦しんで逃亡し、彼は裏切りにあって捕らえられ、処刑された。
バッキンガム公の反乱の失敗はリチャード3世に対する陰謀の終わりにはならなかった。身辺でも不幸が重なり、1484年に王妃アンと11歳の王太子エドワードを相次いで亡くしていた。リチャード3世は兄の遺児エリザベス・オブ・ヨークとの再婚を考えるが断念している[130]。
ボズワースの戦い
バッキンガム公の残党や不平貴族が亡命中のヘンリー・テューダーのもとに集まった。リチャード3世はブルターニュ公の重臣に賄賂を贈ってヘンリー・テューダーを裏切るよう唆したが、ヘンリー・テューダーは警告を受けてフランスへ逃亡し、ここで彼は庇護と援助を受けた[131]。
大貴族やリチャード3世の官吏までもが自らに同心すると確信したヘンリー・テューダーは、1485年8月1日に亡命者とフランス人傭兵からなる軍勢を率いてアルフルールを出帆し、追い風により6日目にウェールズのペンブルックシャーに上陸した。リチャード3世が任命したウェールズの代官たちは、ヘンリー・テューダーに合流するか、傍観した。ヘンリー・テューダーはウェールズと辺境地方を進軍しつつ支持者を募り、相当数の兵力になった[105]。
8月22日、レスタシャーのボズワースでヘンリー・テューダーとリチャード3世の決戦が行われた。両者とも旗色を明らかにしないスタンリー兄弟(スタンリー卿トマスとウィリアム)の動静を睨みつつ戦いに入った[105]。リチャード3世軍では初手の矢戦から配下のノーサンバランド伯の軍勢が動かず、乱戦に入るとスタンリー兄弟がヘンリー・テューダーの側につき、リチャード3世軍の側面を突いた[105]。敗北を悟ったリチャード3世は自ら敵陣に突入して、ヘンリー・テューダーの目前にまで迫ったという[132]。リチャード3世は沼地で落馬したところを、ウェールズ人の兵士リース・トーマスによって長柄斧で首を斬られて倒れた。
寝返ったスタンリー卿は、戦死したリチャード3世の王冠をヘンリー・テューダーに捧げたと伝えられる[133]。リチャード3世の遺体には汚辱が加えられ、裸にされて騾馬で引き回された[134]。
ヘンリー7世の即位とヨーク派の反乱
勝利したヘンリー・テューダーはロンドンに入って議会を招集し、1485年10月30日に戴冠式を挙行した(ヘンリー7世)。11月に開催された議会は、ヘンリー7世の血統についてはさほど詮索せず、ボズワースの戦いの勝利を「神の御意志」として即位の正当性を承認している[135]。
翌1486年1月18日、ヘンリー7世は自らの地位を固めるために、エドワード4世の王女であり、当時最有力なヨーク家系の王位継承権を有していたエリザベス・オブ・ヨークと結婚した[136]。これにより、ヘンリー7世は2つの王家を統合することになり、ライバルだった白と赤の両家の図案を組み合わせた新たなテューダー・ローズを用いるようになった。ヘンリー7世は王位を固めるために、様々な口実をもうけて潜在的な王位継承権者を粛清し、この政策は次代のヘンリー8世にも引き継がれている。
多くの歴史家たちはヘンリー7世の即位をもって薔薇戦争の終了としているが、一部の者たちは、ヘンリー7世を打倒してヨーク王家を再興しようとする陰謀がなおも存在していたことから、この内戦は15世紀末まで続いたとしている[1]。ボズワースの戦いの翌1486年、リチャード3世の侍従だったラヴェル卿がヨークシャーで挙兵する事件が起こったが、烏合の衆であり戦う前に四散した[137]。
1487年にラヴェル卿はスイス人およびドイツ人傭兵を率いてアイルランドに上陸する[138]。この反乱にはエドワード4世の妹でブルゴーニュ公の未亡人のマーガレットが関与しており、リンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポール(リチャード3世の甥で王位継承者に指名されていたが、ヘンリー7世に帰順していた)も加わっていた[137]。反乱軍の指導者たちはランバート・シムネルという少年を、ヨーク系王族の生き残りで最も有力な王位継承権を持つウォリック伯エドワード(クラレンス公の遺児)の替え玉とし、ダブリンにおいて「エドワード6世」として戴冠させた[138]。だが、本物のウォリック伯の身柄は既にヘンリー7世に確保されており、その証明として彼はロンドン市街を行進させられた[139]。反乱軍はランカシャーに上陸してイングランド本土に侵攻するが、7月17日のストーク・フィールドの戦いでヘンリー7世率いる国王軍に撃破され、リンカーン伯は戦死し、ラヴェル卿は逃亡した[140]。捕らえられたシムネル少年は赦免され、宮廷の厨房の使用人とされた[141]。
1491年に、エドワード5世とともにロンドン塔に幽閉され消息を絶った王弟ヨーク公リチャードを名乗る人物(パーキン・ウォーベック)が現れたことにより、ヘンリー7世の王座は再び脅かされた[137]。ウォーベックはフランス王シャルル8世やブルゴーニュ公太妃マーガレット、ハプスブルク家のオーストリア大公マクシミリアンの支持を受けてリチャード4世を名乗り、ネーデルラントやアイルランドで活動し、幾度かイングランドへの上陸を図っている[142]。1496年にはスコットランド王ジェームズ4世の支援を受けてノーランバランドへ攻め込むが、ヨーク派からの支持を得られず失敗した[143]。
1497年にコーンウォールで重税に抗議する反乱が起きた(コーンウォール人の反乱)。ウォーベックはこの反乱に加わり、エクセターを包囲するが失敗して捕らえられた[144]。彼は同じくロンドン塔に監禁されていたウォリック伯とともに脱獄を図るが失敗し、1499年に2人は処刑された[145]。
ヨーク家の血統を継ぐ者として、バッキンガム公エドワード・スタフォード、リンカーン伯の弟であるサフォーク公エドムンド・ド・ラ・ポール、リチャード・ド・ラ・ポール兄弟が残っていた。サフォーク公は1501年に国外へ逃れてヘンリー7世打倒を企てたが、もはや支援する君主はなく、イングランドに送還されて1513年に処刑され、ヨーク派による陰謀はほぼ終息する[146]。
バッキンガム公エドワード・スタフォードはヘンリー8世の時代の1520年に、さしたる理由なく捕らえられ処刑された。リチャード・ド・ラ・ポールはフランス王フランソワ1世の後援を受けてイングランド侵攻を企てるが実現せず、1525年のパヴィアの戦いでフランス軍に加わり戦死している。クラレンス公の娘のマーガレット・ポールはテューダー家と和解して生き残り、ソールズベリー伯位の襲爵を許されたが、1541年にヘンリー8世によって処刑され、テューダー家に対抗しうるプランタジネット家系の王位継承権者は完全に抹殺された[147]。
注釈
- ^ a b 紋章ではなく使用人のお仕着せ(定服)やスタンダード(軍旗)に用いるシンボル。森(2000),p.274.
- ^ 対外平和主義のヘンリー6世は和平派と立場が一致しやすく、ヨーク公と対立するサフォーク公やサマセット公の影響力が増すことになった。青山他(1991),p.418-419.
- ^ a b サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポールは1444年に侯爵、1448年には公爵に昇進している。
- ^ a b 「キングメーカー」の異名は同時代のものではなく、半世紀後のジョン・メージャーの『大英国史』(1521年)が初出である。森(2000),pp.275-276.
- ^ ワイズ(2001)(p.13.)による。両軍の兵力および犠牲者数は資料によって差異がある。
- ^ ウォリック伯はエドワード4世は母セシリー・ネヴィルの不義密通による私生児であり、クラレンス公こそがヨーク公リチャードの正統な血筋であるとの噂を流していた。この醜聞話はリチャード3世の簒奪時にも利用された。
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- ^ ヘンリー6世在位時の16家の大貴族のうち、無傷だったのはアランデル伯家とウェストモーランド伯家の2家のみだった。ワイズ(2001),pp.4-5.
- ^ 1590年代後半につくられた『リチャード二世』、『ヘンリー四世 第1部』、『ヘンリー四世 第2部』、『ヘンリー五世』は「第2・四部作」と呼ばれている。シェイクスピア大事典(2002),p.25,28.
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- ^ The royal Shakespeare company The Wars of the Roses
- ^ The royal Shakespeare company The War of the Roses
- ^ BBC Shakespeare collection, BBC édition, 14/11/2005. VO anglaise sans sous titrages français. Ref. BBCDVD1767 Cette série a été diffusée sur fr:France 3 au milieu des fr:années 1980 (Diffusion de Henri VI sur fr:France 3 en nov. 1984 ; source : fr:Le Nouvel Observateur du 09/11/1984, p.23)
- ^ “商品詳細|白薔薇の女王(下)”. メディアファクトリー. 2012年7月1日閲覧。
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