薔薇戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 02:30 UTC 版)
第一次内乱
第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日
第一次内乱初期(1455年) | |
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Henry Payne画。1908年頃。
1455年5月、大評議会開催のためにレスターに向かっていたヘンリー6世、マーガレット王妃そしてサマセット公エドムンドの宮廷一行は、公正な審理を求めるべくロンドンに向けて南下していたヨーク公リチャードの軍勢と対峙することになった[58]。5月22日、ロンドン北方のセント・オールバンズで両軍は衝突する。比較的小規模なこの第一次セント・オールバンズの戦いはこの内戦における最初の会戦となった[59]。戦いはランカスター派の敗北に終わり、サマセット公は戦死し、ノーサンバランド伯をはじめとするランカスター派の主だった指導者たちは処刑された[60]。会戦の後、ヨーク派は評議員や従者たちに見捨てられて陣幕で一人たたずんでいたヘンリー6世を見つけ、国王は明らかに精神異常に陥った状態だった(国王は首に軽い矢傷を負ってもいた)[61]。
この勝利により、ヨーク公と彼の同盟者たちは再び影響力を取り戻した。10月、国王が執務不能なためにヨーク公が再び護国卿に任命され、議会は彼が国王に武器を向けたことについて不問に付した[62]。ヘンリー6世が回復すると、1456年2月にヨーク公は護国卿を解任された[63]。同年6月、ヘンリー6世はミッドランド地方に行幸をし、マーガレット王妃はランカスター家領や王太子領に近いコヴェントリーに宮廷を置かせた[64]。その後、サマセット公ヘンリー・ボーフォート(戦死したサマセット公エドムンドの子)が国王の寵臣として台頭するようになった。一方、ヨーク公はアイルランド総督に復職しており、またウォリック伯はカレー総督となり、おのおのヨーク派の拠点となしていた[64]。
首都と北イングランド(ネヴィル家とパーシー家の戦闘が再開していた[65])での無秩序が広まり、南部海岸ではフランス海軍による海賊行為が増加していたが、国王と王妃は自らの地位を保つために動かなかった。一方、ヨーク派のウォリック伯(後にキングメーカーの異名を受ける[n 4])は商人の守護者としてロンドンで人気を集めるようになっていた[66]。
1458年春、カンタベリー大司教トマス・バウチャーは両派の和解を調停しようとした。大評議会のために諸侯がロンドンに集められ、町は武装した従臣たちでいっぱいになった。大司教は第一次セント・オールバーンズの戦い以降の流血の私闘を解決するための複雑な和解策を話し合った。その後、3月25日の「聖母マリアの受胎告知の祝日」(Lady Day)に国王は「愛の日」(Love day)の教会行列をセント・ポール大聖堂に向かって挙行し、ランカスター派とヨーク派の貴族たちが手に手をとってこれに続いた[65]。教会行列と会議が終わるとすぐに陰謀が再開した。
カレー総督のウォリック伯はハンザ同盟やスペインの船を襲撃して人気を博すが、本国政府にとっては不愉快な行動だった[67]。彼は査問のためにロンドンに召還されたが、自分の生命を脅かそうとする企てがあると主張してカレーに戻った[67]。ヨーク公、ソールズベリー伯そしてウォリック伯はコヴェントリーの大評議会に召集されたものの、彼らは自らの支持者から切り離された上で逮捕されると危惧しており、これを拒絶した[68]。
戦闘の再開と合意令
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ヨーク公はネヴィル一族をウェールズ境界地方のラドロー城に集結させた。1459年9月23日、ランカスター軍はヨークシャーのミドルハム城からラドロー城へ向かっていたソールズベリー伯の進軍をスタッフォードシャーのブロア・ヒースの戦いで迎え撃ったが敗北した。それからしばらく後の10月12日、合流したヨーク軍はラドフォード橋の戦いで、数に勝るランカスター軍と対戦する。戦いはウォリック伯がカレー守備隊から派遣したアンドリュー・トロロープの部隊が寝返ったためにヨーク軍の敗北に終わった[60]。ヨーク公はアイルランドへ戻り、長男のマーチ伯エドワード、ソールズベリー伯、そしてウォリック伯はカレーへ逃れた[69]。
ランカスター派が主導権を取り戻し、ヨーク公とその支持者たちは反逆罪で私権剥奪処分を受けて所領と称号を奪われ、ヨーク公とその子孫の王位継承権も欠格とされた[70]。サマセット公がカレーを接収すべく派遣されたが、ウォリック伯はカレーを守り抜いた[67]。1460年1月から6月にかけて、ウォリック伯はカレーからイングランド沿岸部を逆襲して国王軍に打撃を与えた[71]。3月、ウォリック伯はヨーク公と作戦を協議するためにカレーを発し、エクセター公率いる国王艦隊をたくみにかわしてアイルランドに渡った[72][67]。
1460年6月、ソールズベリー伯とウォリック伯そしてマーチ伯エドワードが海峡を越えてサンドウィッチに上陸し、人望の厚いウォリック伯のもとに兵が集まり、7月にロンドン塔を除くロンドン市街を制圧した[73]。コヴェントリーの宮廷にいた国王と王妃は軍隊を召集すると、ヨーク派に対するべくヘンリー6世の軍は南下し、マーガレット王妃はエドワード王子とともにコヴェントリーに留まった[73]。7月10日のノーサンプトンの戦いでウォリック伯は、グレイ卿の裏切りもあって[73]、ランカスター軍を撃破できた。この戦いで、ランカスター派のバッキンガム公ハンフリー・スタフォード、シュルーズベリー伯、エグリモント卿、ボーモント卿らが戦死した。ヘンリー6世はまたもヨーク派に捕らえられ、彼は明らかに精神的な異常に見舞われている様子だった。国王を手中に収めたヨーク派はロンドンに凱旋する。
この軍事的成功を踏まえ、ヨーク公リチャードはランカスター家系の非合法性を根拠とする王位請求へと動いた。ウェールズに上陸したヨーク公とその妻セシリーは国王と同じ形式でロンドンに入城した[40]。10月に開催された議会でヨーク公は王座を占めようとするが制止され[74]、王位請求を宣言するものの、諸侯たち、ソールズベリー伯やウォリック伯までもが、依然としてヘンリー6世に対する忠誠義務を捨ててはおらずヨーク公に同調しようとはしなかった[75]。
ヨーク公は、自らがランカスター家より兄の血統にあたるライオネル・オブ・アントワープの子孫であることを根拠に、より優位の王位継承権を有すると主張する文書を貴族院に送り、重ねて王位を請求した[76]。議会における長い議論の後に、妥協案である「合意令」(Act of Accord)が成立した。ヨーク公がヘンリー6世の王位継承者と認められ、6歳のエドワード王子の継承権は排除された[77]。この取り決めは彼に要求した大部分を与えており、彼は護国卿に就任し、ヘンリー6世の名の下で全土を支配しえた。
ランカスター軍の反撃
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Talbot Masterga画。1445年頃。
夫ヘンリー6世に代わり、ランカスター派の中核としてヨーク派に執拗に抵抗した。シェイクスピアは劇中で彼女を「フランスの雌狼」と表現した[78]。
マーガレット王妃とエドワード王子は依然としてランカスター派の勢力圏にあった北部ウェールズへと逃れた。その後、彼らは海路スコットランドに渡り、援助を仰いだ。スコットランド王ジェームズ2世の王妃メアリー・オブ・グエルダースは軍隊の貸与の条件としてベリックの割譲とメアリーの王女とエドワード王子との婚約を提示した。マーガレット王妃はこの条件を呑んだが、彼女には兵士に給与を支払う財産がなく、南イングランドでの略奪を認めた[79]。
マーガレット王妃の軍はヨークシャーを制圧し、彼女の元へランカスター派が集結した[73]。1460年暮れに、ヨーク公リチャードはソールズベリー伯とともに北部のランカスター軍を討つべくロンドンを出立した。12月21日にヨーク公はウェイクフィールド近郊のサンダル城に入るが、マーガレット王妃の軍勢はヨーク公の4倍に膨れ上がっており、彼は援軍を待って城に留まるが、ランカスター軍はこれを包囲して食糧補給を遮断した[80]。12月30日にヨーク公は城を出撃してランカスター軍に対して野戦を挑んだ。ウェイクフィールドの戦いはランカスター軍の勝利に終わり、ヨーク公と17歳の次男のラトランド伯エドムンドが戦死し、ソールズベリー伯は捕らえられ斬首された[81]。マーガレット王妃はヨーク公の首に紙の王冠を被せた上で、彼らの首をヨークの城門にさらさせた[82][40]。
ウェイクフィールドの戦いの結果、戦死したヨーク公リチャードの長男で18歳のマーチ伯エドワードが、ヨーク公位および合意令に基づく王位請求を継承することになった。彼はウェールズ境界地方の親ヨーク派の軍勢を糾合し、1461年2月2日、ウェールズに侵攻してきたオウエン・テューダー、ペンブルック伯ジャスパー・テューダー父子とウィルトシャー伯ジェームズ・バトラーの率いるランカスター軍をヘレフォードシャー近くのモーティマーズ・クロスで迎え撃った。この戦いの前、彼は払暁に見えた3つの太陽(幻日現象として知られる)を故ヨーク公リチャードの生き残った3人の息子(自身、ジョージ、リチャード)の具現であるとし、勝利の前触れであると告げて兵たちを奮起させた[83]。このことにちなみ、エドワードは後に太陽の光彩を自らのヘラルディック・バッジ(記章)に取り入れさせている。会戦はヨーク軍の勝利に終わり、ヨーク公エドワードはオウエン・テューダーを処刑した。
一方、敵の首領ヨーク公リチャードを討ち取ったマーガレット王妃のランカスター軍は、南イングランドで略奪行為を行いつつ、国王奪回を目指して南下を続けていた[84]。ウォリック伯はこれをヨーク派への支持を強めるためのプロパガンダに利用し、コヴェントリーの町はヨーク派に鞍替えしている。ウォリック伯の軍勢は交通上の要衝たるセント・オールバンズの北側に陣地を築いたが、敵軍に数で圧倒されており、マーガレット王妃軍は西に迂回して背後から彼の軍勢に襲いかかった[84]。2月17日の第二次セント・オールバンズの戦いはランカスター軍の圧勝に終わった。ヨーク軍はヘンリー6世を置き去りにして潰走し、国王は町の一軒家の中で発見された[84]。
戦闘後、すぐにヘンリー6世は30人のランカスター軍兵士にナイト爵を授けた。マーガレット王妃は6歳になるエドワード王子にヨーク軍の騎士(ヘンリー6世の警護役で会戦の間中、彼に付き添っていた)の処刑方法を決めさせている。
ランカスター軍の南イングランドでの略奪行為によりロンドン市民は恐慌状態に陥り、ランカスター派の威信は地に落ちていた[85]。マーガレット王妃はロンドンの明け渡し交渉を行うが、市民は城門を閉じて国王と王妃の入城を拒んだ[79]。
ヨーク派の勝利
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リチャード・カトン・ウッドヴィル・ジュニア画。1922年。
ウォリック伯の残存兵力と合流したヨーク公エドワードの軍勢は西部からロンドンへと進軍した。同じ頃、王妃軍はダンスタブルに撤退しており、1461年2月27日、ヨーク公エドワードとウォリック伯は難なくロンドンに入城できた。ロンドン市民は彼らを熱狂をもって迎え、ヨーク派は市当局から財政援助も受けた[86]。
この時点においてエドワードはもはや「君側の奸を除く」とは主張しなくなっており、この内戦は王位争奪戦となった。ヨーク派は先年の合意令に基づく正当なる王位継承者(ヨーク公リチャード)の殺害を許したヘンリー6世は王位にあり続ける権利を喪失したと主張した[86]。3月4日、7人の聖俗諸侯からなる評議会とロンドン市民からの推戴を受けたヨーク公エドワードは王位についた(エドワード4世)[87]。彼はヘンリー6世とマーガレット王妃を処刑するか国外追放するまで公式な戴冠式は行わないと誓った。
3月19日、ヨーク軍がロンドンを出立し、エドワードとウォリック伯は兵を集めつつ北上した。3月27日から28日にかけてウォリック伯率いる前衛部隊がランカスター派の本拠ヨーク近くでランカスター軍と衝突した(フェリブリッジの戦い)[88]。
3月29日、ヨーク西方のタウトンで両軍の決戦が行われた。このタウトンの戦いは薔薇戦争最大の戦いとなった。強風と降雪の中で数万の兵が衝突し、終日戦われたこの会戦は、エドワード率いるヨーク軍の決定的な勝利に終わり、ランカスター軍は指揮官の多くが命を落として潰走した[83]。ヨーク軍約12,000人、ランカスター軍約20,000人が戦死しており、イギリス本土において1日の戦闘で命を落とした数としては最大のものとなった[n 5]。
ヨークで待機していたヘンリー6世と王妃そしてエドワード王子は、敗戦を伝えられるとスコットランドへ逃亡した[89]。生き残ったランカスター派の貴族の多くは新国王エドワードに忠誠を誓い、それ以外の者たちは北部国境地帯やウェールズの城塞に立て籠もった。エドワードはヨークを占領すると、城門に掲げられていた父と弟、ソールズベリー伯の首級を降ろさせ、代わりにウェイクフィールドの戦いの後にラトランド伯を処刑したことで悪名高いクリフォード卿ジョンをはじめとするランカスター派貴族の首級をさらさせている。
エドワード4世の即位とランカスター派掃討
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作者不明。1520年頃。
1461年6月、ロンドンにおいて、エドワード4世の正式な戴冠式が、支持者たちからの熱狂的な歓迎を受けつつ挙行された。エドワード4世はおよそ10年間、比較的平穏な統治を行った。
北部では、エドワード4世の支配は1465年まで完遂しなかった。タウントンの戦いの後、ヘンリー6世とマーガレット王妃はスコットランドに逃れ、ジェームス3世の宮廷に身を寄せた。この年の暮れにランカスター軍はカーライルを攻撃したものの、資金のない彼らは容易に撃退され、エドワード4世の軍隊は北部地方に残るランカスター残党を掃討を行った。ダンスタンバラ城、アニック城(パーシー家の本拠)、バンバラ城といったノーサンバランドのランカスター派の城塞は数年にわたって持ちこたえている。
1464年には北イングランドでランカスター派の蜂起が起こった。サマセット公ヘンリー・ボーフォート(タウトンの戦い後、エドワード4世に帰順していた)を含むランカスター派貴族が反乱を指揮した。この反乱はウォリック伯の弟モンターギュ卿ジョン・ネヴィルによって鎮圧された。寡兵のランカスター軍は4月25日のヘッジレイ・ムーアの戦いで打ち破られたが、この時のモンターギュ卿はヨークへと向かうスコットランド使節を護衛する任務中であったため、即座に追撃することはできなかった[89]。5月15日のヘクサムの戦いでランカスター軍は撃滅されてサマセット公ら指導者たちは捕らえられ、後に処刑されている[89]。
北部のランカスター派城塞はこれ以前に陥落しており[90]、1465年にはランカシャーのクリザーローでヘンリー6世が捕らえられた。彼はロンドンに連行されてロンドン塔に幽閉され、当面は丁重に遇された。同時期にイングランドとスコットランドとの妥協が成立すると、マーガレット王妃とエドワード王子はスコットランドからの退去を余儀なくされ、海路でフランスに渡り、数年間の窮迫した亡命生活に甘んじなければならなかった[91]。
唯一残っていたランカスター派の拠点、ウェールズのハーレフ城は7年の包囲戦の末、1468年に降伏した。
第一次内乱関係図表
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注釈
- ^ a b 紋章ではなく使用人のお仕着せ(定服)やスタンダード(軍旗)に用いるシンボル。森(2000),p.274.
- ^ 対外平和主義のヘンリー6世は和平派と立場が一致しやすく、ヨーク公と対立するサフォーク公やサマセット公の影響力が増すことになった。青山他(1991),p.418-419.
- ^ a b サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポールは1444年に侯爵、1448年には公爵に昇進している。
- ^ a b 「キングメーカー」の異名は同時代のものではなく、半世紀後のジョン・メージャーの『大英国史』(1521年)が初出である。森(2000),pp.275-276.
- ^ ワイズ(2001)(p.13.)による。両軍の兵力および犠牲者数は資料によって差異がある。
- ^ ウォリック伯はエドワード4世は母セシリー・ネヴィルの不義密通による私生児であり、クラレンス公こそがヨーク公リチャードの正統な血筋であるとの噂を流していた。この醜聞話はリチャード3世の簒奪時にも利用された。
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- ^ ヘンリー6世在位時の16家の大貴族のうち、無傷だったのはアランデル伯家とウェストモーランド伯家の2家のみだった。ワイズ(2001),pp.4-5.
- ^ 1590年代後半につくられた『リチャード二世』、『ヘンリー四世 第1部』、『ヘンリー四世 第2部』、『ヘンリー五世』は「第2・四部作」と呼ばれている。シェイクスピア大事典(2002),p.25,28.
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- ^ “商品詳細|白薔薇の女王(下)”. メディアファクトリー. 2012年7月1日閲覧。
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