薔薇戦争 戦後

薔薇戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 02:30 UTC 版)

戦後

ヘンリー7世。
作者不明。1505年。

30年以上も続いたこの内戦によってイングランドの国土は荒廃したとされるが、これは新たに成立したテューダー朝によって誇張されたプロパガンダに過ぎない[148]。ヨーク家とランカスター家の権力争いであるこの内乱は他国の戦争や内乱と異なり、抗争を行う貴族たちは臣民の支持を得るために彼らを戦いに巻き込むことを避けており、同時代のフランスの歴史家フィリップ・ド・コミュンヌ英語版はイングランドでは田園も建物も破壊されなかったと述べている[149]。戦闘行動自体も合計で428日間に過ぎなかった[150]。戦闘はごく短期間のものが時間を置いて断続的に続いたのであり、攻城戦やそれに伴う略奪は少なく、1460年の北部兵を率いたマーガレット王妃の反攻時の例外的な略奪も、現存する当時の記録からはわずかな影響しか認められない[151]。この内戦の30年間、民衆の生活はほとんど脅かされておらず、ヘンリー7世は良好な状態の国土を継承できた[151]

薔薇戦争の結果、貴族がほとんど絶滅したかのように説明されることがあるが、実際の減少は25%程度であり、少ない数字ではないが「絶滅」という表現には当たらない[150]。家門断絶の理由も、嫡出男子を欠いたことが戦死や処刑と同程度に存在した[150]。一方で、この時代以前の大貴族(公爵家と伯爵家)がほとんど姿を消したのも事実である[n 8]。ヘンリー7世は貴族数を抑制し、1485年の即位時の50家が、1509年に死去した際には35家になっていた[152]。断絶した貴族の所領は王領地化され、王室財政の強化に資された[6]

ヘンリー7世は貴族の私兵である扈従団の抑制を図り、最初の議会で貴族たちに扈従団を保有しないことを誓約させ、1504年には「揃い服禁止法」を出している[153]。もっとも、その治世中には疑似封建制を完全に解体することはかなわず、譲歩を余儀なくされることもあり、部分的・個別的な規制に留まっている[153]。大貴族パーシー家をはじめとする在地貴族が根を張り、王権の支配の弱かった北部については、1489年にノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーが横死すると[154]、これを好機にサリー伯トマス・ハワードを送り込み秩序回復に成功した[155]

地方統治においては、国王にとって危険な貴族に頼らず、ジェントリ(郷紳)に依存しようとするランカスター朝、ヨーク朝からの政策が踏襲されたが、その達成には長い時間を要することになる[156]。ジェントリは無給の治安判事として地方行政の中心的役割を担い[157]、有能な者は中央の国王評議会にも起用された[158]。身分の枠にとらわれない実用主義の人材登用がテューダー朝の特徴となる[159]

ヘンリー7世以降、テューダー朝は王権の強化を通した絶対王政の基礎を固めてゆくが[160]、イングランド王は古来からの慣習法(コモン・ロー)や議会による制約が強く、同時代のフランスやスペインの様な強力な中央集権の完成には至らなかった[161]


注釈

  1. ^ a b 紋章ではなく使用人のお仕着せ(定服)やスタンダード(軍旗)に用いるシンボル。森(2000),p.274.
  2. ^ 対外平和主義のヘンリー6世は和平派と立場が一致しやすく、ヨーク公と対立するサフォーク公やサマセット公の影響力が増すことになった。青山他(1991),p.418-419.
  3. ^ a b サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポールは1444年に侯爵、1448年には公爵に昇進している。
  4. ^ a b 「キングメーカー」の異名は同時代のものではなく、半世紀後のジョン・メージャーの『大英国史』(1521年)が初出である。森(2000),pp.275-276.
  5. ^ ワイズ(2001)(p.13.)による。両軍の兵力および犠牲者数は資料によって差異がある。
  6. ^ ウォリック伯はエドワード4世は母セシリー・ネヴィルの不義密通による私生児であり、クラレンス公こそがヨーク公リチャードの正統な血筋であるとの噂を流していた。この醜聞話はリチャード3世の簒奪時にも利用された。
    Vanora Bennett. “Was King Edward IV illegitimate?”. 2012年6月28日閲覧。
  7. ^ ヘンリー5世の死後にキャサリン・オブ・ヴァロワ(ヘンリー6世の母)とオウエン・テューダーが秘密結婚をして3男1女が生まれた。石井(2006),pp.12-13.
  8. ^ ヘンリー6世在位時の16家の大貴族のうち、無傷だったのはアランデル伯家とウェストモーランド伯家の2家のみだった。ワイズ(2001),pp.4-5.
  9. ^ 1590年代後半につくられた『リチャード二世』、『ヘンリー四世 第1部』、『ヘンリー四世 第2部』、『ヘンリー五世』は「第2・四部作」と呼ばれている。シェイクスピア大事典(2002),p.25,28.

出典

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