1980年 - 1984年
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「平城・相楽ニュータウン」の記事における「1980年 - 1984年」の解説
1980年(昭和55年) 4月1日 - 第1回仮換地指定通知。 4月1日 - 奈良市立右京小学校の学区割により、奈良市立朱雀小学校・奈良市立神功小学校が開校。 4月1日 - 奈良県立平城高等学校が開校。校章は平城山の瓦窯で生産された瓦の複弁八葉蓮華文と輝く太陽、平城ニュータウン・高の原という名称のイメージを図案化したもの。 4月1日 - 奈良市立朱雀幼稚園が開園。 4月5日 - 奈良市朱雀の人口増加と地元からの要望を受けて奈良市立朱雀保育園が開園。 4月 - 平城朱雀第1住宅が完成、入居開始。 7月10日 - 平城第2号公園併用開始。 9月14日 - 平城第二コート・球技場が竣工。 9月 - 地元住民からの要望があった、平城地区では初の、奈良市内では13か所目の地区公民館「平城西公民館」が完成、開館。いくつかの独自の講座の中で、「子育てネットワーカー養成講座」は奈良県女性センターの保育ボランティア養成講座を終了した保育ボランティアらによる保育付きの講座であったため、奈良市の公的施設としては初めての試みとして注目される。 1981年(昭和56年) 1月27日 - 平城地区第2回施工規定事業計画変更認可。 5月 - 朱雀五丁目自治会が発足。 6月 - 朱雀六丁目自治会が発足。 8月 - 朱雀第一住宅自治会が発足。 9月1日 - バンビーホームが神功小学校に開設される。 11月13日 - 相楽地区の公共下水道の都市計画が決定。 11月27日 - 相楽地区の幹線道路の都市計画が決定。 11月28日 -「サンタウン高の原」が開業。 平城・相楽ニュータウン唯一のショッピングセンターであった。 11月28日 - 近商ストア平城2号店が高の原店を母店とするコンビニエンスストア「サンマート平城店」に。売場面積は42m2。 11月28日 - サンタウン南駐車場が開設。 1982年(昭和57年) 2月16日 - 神功二丁目街区公園、神功三丁目街区公園、神功五丁目公園、右京三丁目1号街区公園、右京三丁目2号街区公園始、朱雀一丁目街区公園、朱雀五丁目街区公園、朱雀六丁目公園の併用開始。 3月7日 - 相楽地区の区画整理補助実施計画が承認される。 3月 - 旧平城診療所西側に高の原中央病院が開設。 4月 - 平城朱雀第二住宅が完成、入居開始。 6月12日 - 建設予定地での樹木伐採・抜根作業をしていた倉田周次・近藤信雄が、樹根とともに銅鐸を掘り上げる。当初、銅鐸は奈良市教育委員会に運ばれたが、その後文化財課長による現地確認の際に出土地が京都府側(木津町大字相楽小字相楽山47番地)であることが判明し、関係機関の協議の末に木津町に引き渡される。 7月5日-8月14日 - 銅鐸の出土を受け、大規模な発掘調査を実施。 相楽山銅鐸出土地の発掘調査を行っていた京都府教育委員会奥村清一郎・木津町教育委員会松本秀人が、排水路工事現場で弥生土器片や石器などを見つけ、大畠遺跡が確認される。これにより、関係機関の協議後に平城団地の造成工事が中断。 1982年(昭和57年)- 1985年(昭和60年)- 順次、環境清美工場の焼却炉を新造。24時間稼働の全連続燃焼式ストーカ炉で、総工費は約66億円。 8月 - 大阪ガスが都市ガスの供給区域に木津町を編入。 8月13日-10月20日 - 大畠遺跡の第一次調査 (900m2) を実施。 1983年(昭和58年) 2月1日-9月24日 - 大畠遺跡の第二次調査 (3,800m2) を実施。 2月 - 平城ニュータウン文化協会が発足。 2月 - 平城ニュータウン教育懇談会が結成。 9月 - 京都府の中堅企業24社がハイタッチ企業研究会を設立。 9月18日 - バンビーホームが朱雀小学校に開設される。 11月2日 - 神功四丁目緑地併用開始。 奈良市左京で本格的な入居が始まる。 12月 - 左京一丁目自治会が発足。 12月8日 - 奈良交通平城団地線の高の原駅-左京近隣公園-高の原駅間を延長、高の原駅-朱雀5丁目-左京近隣公園前間他2系統が運行開始。 12月8日 - 相楽地区審議会(改選)当選人決定公告。 12月8日 - 相楽地区学識経験委員を選任。 1984年(昭和59年) 2月28日 - 関西電力の鉄塔移設が完了。 3月29日 - 奈良交通佐保山線の黒髪奈保町-佐保山住宅地間を国鉄奈良駅-佐保山住宅地-高の原駅間に延長、運行開始。 旧木津町域の用途地域のうちセンターゾーンが商業地域、住宅地が第1種住居専用地域の用途に指定される。なお、京都府において商業地域が第1種低層住居専用地域に隣接するのは相楽ニュータウンと木津南地区の2か所のみ。 4月 - 朱雀四丁目自治会が発足。 4月 - 相楽地区の近隣公園と歩行者専用道路のそれぞれの案がまとまる。 6月1日 - 住宅・都市整備公団関西支社平城開発事務所が平城・相楽開発事務所に名称変更。 6月1日 - 住宅・都市整備公団関西支社平城・相楽開発事務所祝園・木津地区開発課が独立し、京都南部開発事務所となる。 6月 - 朱雀第二住宅自治会が発足。 6月 - 相楽地区の開発で公園墓地(曽根山・大里)にも造成計画が持ち上がる。 7月2日 - 奈良交通平城団地線の神功4丁目-高の原駅-左京近隣公園前間が運行開始。これによって、それぞれ別の系統で運行されていた右京・神功と朱雀・左京が1つの路線で結ばれる。 7月 - 銅鐸が木津町の所有になる。 7月 - ハイタッチ企業研究会がハイタッチ産業振興構想を策定・刊行。 7月 - 積水ハウスがハイタッチ企業研究会に加わる。 8月 - 平城右京団地入居開始。 9月 - 奈良市総合福祉センターが完成。 9月 - 京都府が新設高校の建設計画を発表。 9月9日 - 相楽地区の歩行者専用道路の都市計画が決定。 10月5日 - 国鉄天王寺鉄道管理局が木津 - 奈良駅間に新駅を建設することを決定。 10月9日 - 相楽地区の公園の都市計画が決定。 11月27日 - 相楽地区用途地区変更、高度地区・防火および準防火地域指定。
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1980年 - 1984年
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「西城秀樹」の記事における「1980年 - 1984年」の解説
1980年1月4日 - 1月6日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。6月13日、フジテレビ「日生ファミリースペシャル」枠のアニメ『坊っちゃん』で、坊っちゃん役で声優初挑戦。7月18日、第3回後楽園球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。8月23日、第7回大阪球場コンサート『BIG GAME'80 HIDEKI』を開催。11月3日、第7回日本武道館コンサートを開催。11月23日、東芝日曜劇場『遠くはなれて子守唄』(「日本民間放送連盟賞」受賞作品)に出演。 1981年4月、とんねるずが初めてレギュラー出演した西城司会の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ)放送開始。8月16日、第4回後楽園球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。8月22日、第8回大阪球場コンサート『BIG GAME'81 HIDEKI』を開催。11月3日、第8回日本武道館コンサート『HIDEKI MY LOVE Hideki Saijo IN BUDOKAN』を開催。 1981年8月、第8回広島平和音楽祭が開催された。その際、広島県出身の西城はリトルガールを熱唱。またこの日の為に作られた楽曲「天と地の架け橋」も披露した。 1982年1月4日 - 1月5日、大阪・厚生年金ホールにて新春コンサートを開催。4月13日、『ありがとう青春3650日』と銘打ったデビュー10周年誕生日パーティーを赤坂プリンスホテルで開く。同時に記念作品として『南十字星』が3月25日に発売され、東宝創立50周年記念の日豪合作映画「南十字星」の主題歌となった。8月21日、第9回大阪球場コンサート『BIG GAME '82 HIDEKI』を開催。11月21日、第9回日本武道館コンサート『HIDEKI RECITAL - 秋ドラマチック』を開催。1983年1月21日、芸映を円満独立して「アースコーポレーション」設立。独立第1弾のシングルは『ギャランドゥ』。8月6日、ツアーラストを大阪球場コンサート『BIG GAME'83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT』で閉め、10年続いたスタジアムコンサートに幕を下ろした。11月20日、第10回日本武道館コンサートを開催。 1984年2月5日、体調不良を訴え東京女子医大病院へ。「低髄液圧症候群」との診断を受け同院に入院。3月25日に退院。 1984年4月1日、『Do You Know』で『第13回東京音楽祭』世界大会に出場、初の銀賞を受賞。収録曲「Winter Blue」の作曲者は西城本人である。「5月4日 - 5月28日、7年ぶりとなる日生劇場での主演ミュージカル『デュエット』。8月7日、第11回日本武道館コンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。8月14日、大阪城ホールコンサート『JUST RUN'84 HIDEKI』を開催。 1984年8月12日、アニメーション映画『黒い雨にうたれて』公開、主演声優を務める。 1984年秋に横浜の自宅スタジオから半径500mで聴取可能なFMミニ放送を行う、深夜「こちらモモタロー」のコール・サインで始まり、「お待たせしました。今夜も横浜に住む女性だけに向けて、キャピキャピ放送をお聞かせしましょう。お相手は桃太郎です」と続き、即興風の音楽演奏や自身作曲の歌を歌ったり、物まねなどを流した。最初は毎日放送したが、家の周りに車が何十台も集まって近所迷惑になったため、西城が寝付かれない日、友人が集まって騒ぐ日など、放送日は西城の気まぐれで10日に一回程度になった。
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