戦績提要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/11 02:57 UTC 版)
青木功が「理詰めでは対処しきれない、何が起こるかわからない競技」と評するジ・オープン初挑戦は、ベン・ホーガンが「攻めれば地獄、守れば奈落」と評した英国の最難関リンクスコースのカーヌスティ(7065ヤード・パー72)で開催された1975年の第104回大会であり、エドワーズはパスポート不所持により渡航できなかったため、キャディには地元のアルフィー・ファイルズ(50歳)を従えて、初出場で初優勝の快挙を成し遂げた(PGAツアー3勝目)。ファイルズはゲーリー・プレーヤーが1968年にカーヌスティでのジ・オープンで優勝したときのキャディだが、本大会でプレーヤーは南アフリカの人種差別問題により黒色人種でラビットという名のキャディを採用、また、ファイルズはキャディの仕事に理解が得られなかった妻と大会1か月前に離婚したという事情も重なり、ファイルズは大会に勝てる選手を探し、攻撃的なプレイをするワトソンに白羽の矢を立て、ワトソンに「ジ・オープンで組もう」と手紙を書いて起用された。ワトソンは、大会4日目に72ホール目のパーセーブも困難な18番ホール(パー4)で15フィートのバーディパットを成功させて、ジャック・ニュートンと9アンダーで首位に並び、翌7月13日の18ホールのストロークプレイのプレイオフに持ち込んだ。ニュートンはワトソンと同い年の25歳のオーストラリア人選手であり、トム・ワイスコフ(1973年は豪打と驚異的バーディ奪取率でジ・オープンを含む年間7勝を挙げて「恐怖のトム」と畏れられた。ジ・オープンはトゥルーン開催であり、アルバート・ファイルスをキャディに従え、キャリア唯一のメジャー勝利)にパッティングのグリップをコーチされて好調を維持して、3日目にはアウト33イン32の65でコースレコードを更新していた。プレイオフは5回スコアがイーブンになる接戦で、最終スコアは71対72の1打差であった。勝敗を分けたのは最終18番ホールで、ワトソンはピンから約12mに2オンして2パットのパー、ニュートンは第2打をバンカーに入れ、第3打のバンカーショットは約3mオーバー、第4打のパーパットは3cm外れてボギーでの決着。試合後、ワトソンは「今日のように風雨が強いスコットランド的条件では、ファイルズはとても頼りになった」とコメントした。1975年のワトソンはメジャー4大会すべてでトップ10入りした。翌1976年のロイヤルバークデールでのジ・オープンでは、ブルース・エドワーズが初めてジ・オープンのキャディを務めたが、54ホール終了時点に1打差で予選落ちしたため、ジ・オープンにはファイルズを起用するようになった。 メジャー初勝利から2年後の1977年4月の第41回マスターズ(オーガスタ・パー72)では、プレイヤー専属のキャディを帯同することが認められていなかったが(1983年まで)、2日目に5アンダーで首位に浮上し、最終日は帝王ジャック・ニクラスとの一騎討ちを行い、最後の2ホールで1打ずつ、計2打差をつけ、12アンダーで制してメジャー2勝目を挙げると(PGAツアー6勝目)、7月のターンベリーでの第106回オープンではファイルズをキャディに従え、歴史的なニクラスとの真昼の決闘(後述)を1打差の12アンダーで制してメジャー3勝目を挙げ(PGAツアー8勝目)、年間メジャー2冠を獲得した。 1980年のミュアフィールド(パー71)での第109回オープンでは、第3ラウンドでバルタスロールの戦いから1か月後の青木功が8バーディ(アウトでは2・5・8・9番ホールで4バーディ、インでも11・12・14・17番ホールで4バーディ)・10パー、24パットのアウト32イン31で全英オープン最小スコアタイの63を記録したが、ワトソンも29パットのアウト34イン30で全英オープン自己ベストスコアの64で廻って2位に4打差の11アンダーで単独首位に立った。最終日は強い北風の中のラウンドであったが、ワトソンは7番から12番の6ホールで5バーディを奪い(10番ホールはボギー)、ボギーは計3つで、アウト34イン35にまとめて2位に4打差の通算13アンダーで逃げ切って、3度目のジ・オープン優勝(PGAツアー24勝目)。 1981年の第45回マスターズでは、上記の理由でエドワーズがキャディを務められなかったが、ワトソンは第3ラウンド終了時点で7アンダーで首位に浮上すると、最終日は71で堅実に廻り、2位ニクラスとジョニー・ミラーに2打差の通算8アンダーで逃げ切って4年ぶり2度目の優勝(PGAツアー26勝目)。 1982年の第82回全米オープンは、ワトソンが大学時代に度々プレイしていたペブルビーチ(パー72)で開催され、キャディにブルース・エドワーズを伴い参戦した。ペブルビーチは、ニクラスとワトソンが「人生最後のゴルフをするのなら、ペブルビーチを選ぶ」と答えたリンクスコースである。153人(含アマチュア14人)が臨んだ予選では、ワトソンは72-72のパーで、首位から4打差の9位タイにニクラスやトム・カイトらと並んだ。本選には7オーバーまでの66人(含アマチュア2人)が臨んだ。ワトソンは予選終了後の練習でスイングの極意を会得して3日目に臨み、この日68で廻って通算4アンダーでビル・ロジャースと首位タイに並び、ワトソンは「今回は自分でも自信に満ちているのがわかる。明日は勝つために最善の努力をする」とコメント。最終日は、次男ジャッキーをキャディに従え、3番ホールから5連続バーディを奪い、7番ホール終了時点で首位に立った42歳ニクラスとの一騎討ちとなった。ワトソンは16番ホールでティーショットをミスしてクロスバンカーのあごの下に打ち込み、第2打は横に出すのが精一杯でボギーとして、ホールアウトしたニクラスと4アンダーで首位に並んだ状態で、カーメル湾に突き出ている難関中の難関の17番ホール(長いパー3、209ヤード、2段グリーン)に臨んだ。2番アイアンでのティーショットはドローボールで攻めたが、海風に流され、ボールはグリーン左のバンカーとバンカーの間のくるぶしまで隠れる深いラフに捕まり、ピンまでの距離は約5m。ボールのライはラフにほぼ埋もれた状態で傾斜に静止という条件で、この日ピンはグリーン左でエッジからカップまでの距離が約3mと短く、しかもグリーン上は下りのスライスラインでカップに寄せるのは至難の業、この時点でニクラスが優位となった。しかし、ワトソンは「寄せるなんて考えていない。カップに入れるぞ」とエドワーズに宣言して、素振りを2回した後、極端なオープンスタンスでサンドウェッジを一閃すると、ボールはふわりと上がり、成功確率1000回に1回とニクラスが評したチップインバーディとなった。続いて難関の18番ホール(パー5)でもスプーン-7番アイアン-9番アイアンを使って3オンすると、難しい下りのスライスラインを1パットで決めてバーディをとり、2位ニクラスに2打差の6アンダーで全米オープン初優勝を果たした(メジャー6勝目、PGAツアー31勝目)。試合後、ワトソンは「ニクラスのホームグラウンドみたいなペブルビーチで、ニクラスに勝てて夢のようだ。最終日17番ホールのアプローチショットは一生で一番重要なショットだった。あれは何時間も練習したショットだ」とコメントした。ニクラスは「私は全米オープンでやるべきことは全てやった。四日間のゲームは素晴らしかった。勝てなかったのは、たった一人だけおかしな奴がいたからだ。しかし、トムと最後まで優勝争いができたことを誇りに思うし、彼の勝利をともに喜びたい」とコメント。続くロイヤルトゥルーンでの第111回オープンでは、60人(含アマチュア1人)が臨んだ好天の最終日に首位と3打差の5位スタートで倉本昌弘と廻り、1イーグル(11番ホール、3番アイアンでの第2打がピンそば約1m)、1バーディ(4番ホール)、1ボギー(15番ホール)以外はパーをセーブする我慢のゴルフで上位陣が崩れるのを待って、2位に1打差の4アンダーで制覇して、メジャー大会2連勝を4度目のジ・オープンタイトルで飾った(PGAツアー32勝目)。倉本はアーノルド・パーマーと3ラウンド、ワトソンと1ラウンド同組で廻って4位タイとなったが、現在までジ・オープンでの日本人最高順位である(2015年7月時点)。 1983年ロイヤルバークデールでの第112回オープンは、予選ラウンド終了後の深夜、囚人解放運動グループによる6番ホールのグリーンの破壊工作という競技妨害を目的としたジ・オープン初の不祥事があった大会だが、翌第3ラウンド終了時点でワトソンが8アンダーで単独首位に浮上すると、最終日はアウトでスコアを2つ落として首位を譲ったが、インの11、13、16番ホールでの3バーディで再び首位に立ち、2位に1打差の通算9アンダーで大会2連覇を達成した(PGAツアー33勝目)。その後、ジ・オープンを連覇した選手は、23年後の2006年のロイヤルリバプール(7258ヤード・パー72)開催の第135回大会で、実父を亡くして間もないタイガー・ウッズがティーショットに2番アイアンを多用して、フェアウェイキープ率86%、4日間通算18アンダーで2位に2打差をつけて連覇するまで現れなかった(本大会前のウッズはドライバーが不調であり、バンカーを回避するにはバンカー越えを狙って飛距離を出すよりも、刻んで距離を残した方がアイアンショットで制御しやすいなどの理由から、この試合でウッズがドライバーを用いたのは初日の16番ホールのみ。ウッズはハンク・ヘイニーをコーチに迎え2005年・2006年に2連覇。英国で2番目に最古のリンクスコースであるロイヤルリバプールでのジ・オープン開催は39年ぶり11回目)。メジャー通算8勝を挙げて“新帝王ワトソン”と呼ばれたが、1983年の全英オープンを最後にメジャーの優勝から遠ざかる。 翌1984年の第113回オープンでワトソンはセント・アンドルーズ初制覇とピーター・トムソン以来の3連覇に挑んだが、セベ・バレステロスが最終18番ホールでフックラインのバーディパットを決めて優勝、ワトソンは17番ホールで「人生で最も大事な2番アイアンショット」である第2打をミスして石塀際2フィートまで飛ばし、2打差の2位に終わった。この年、ワトソンはPGAツアーでは3勝して5度目の賞金王となったが、以後はイップスと呼ばれる症状によるショートパットの不調に苦しめられるようになり、1987年にナビスコ選手権で3シーズンぶりに優勝した後は、さらに9シーズン後の1996年にメモリアル・トーナメントまで優勝がなかった。それに続く1998年のマスターカード・コロニアルで優勝したのが、現時点でのPGAツアー最後の優勝である。通算39勝は同ツアー歴代10位タイ。 全米プロゴルフ選手権では、アーノルド・パーマーと同様に1度も優勝経験が無く、「キャリア・グランドスラム」の一歩手前の3冠王にとどまっている。1978年の全米プロゴルフ選手権はパーマーの地元のオークモントカントリークラブ(6391m・パー71)で開催され、ワトソンは初日から好調で首位をキープ、大雨の最終日(8月6日)は前半を2位に4打差をつけて折り返したが、後半失速して、この日73を叩く間に、7打差スタートのプロ7年目ジョン・マハフィー(ワトソンとプロ入りが同期、大学での専攻も同じで、ワトソンの親友)と、5打差の2位スタートのジェリー・ペイトに8アンダーで並ばれ、全米プロ選手権史上初、メジャー大会でのサドンデスプレイオフ初の3人でのプレイオフとなり、プレイオフ1ホール目(1番ホール)は3人ともにパー、2ホール目(2番ホール)でマハフィーに約2.5mのバーディパットを決められ、優勝を逃した(マハフィーはPGAツアー2勝目)。この日、4位フィニッシュのギル・モーガンが8番ホール(224m)で1番アイアンを使用してホールインワンを記録した。なお、ワトソンはシニアツアー最古のメジャー大会である全米プロシニアゴルフ選手権では2勝を挙げている。 日本とのつながりも深く、日本では通算4勝を挙げ、ゴルフコースを4つ設計した。1980年、1997年に2度優勝した「ダンロップフェニックストーナメント」が開催される宮崎の「フェニックスカントリークラブ」には、彼の名前を冠した「トム・ワトソンゴルフコース」がある。 1988年に世界ゴルフ殿堂入り。1993年にはライダーカップのアメリカチームキャプテンを務め、勝利に導いた。現在は米国シニアツアー(チャンピオンズツアー)で活躍している。同ツアーでは2003年チャンピオンズツアー賞金王/チャールズ・シュワブカップチャンピオン/チャンピオンズツアー年度最優秀選手、2005年チャールズ・シュワブカップチャンピオンに輝いている。 長年にわたってトムのキャディーを務めてきたブルース・エドワーズを2004年4月8日に筋萎縮性側索硬化症(ALS)で失い、「勝つことがすべて」だったワトソンの信条も「一日一日を全力で生きること。ささいなことでイライラしないこと」に変わった。元々チャリティーに積極的だったトムだが2002年暮れにエドワーズの病気を知ってからは一層熱心に取り組むようになり、現在も積極的な慈善活動を続けている。2003年には、ゴルフを通じて社会貢献した選手に贈られる「ペイン・スチュワート賞」を受賞した。 2009年のターンベリーでの第138回オープンでは初日から好調で、最終日71ホール終了時点で単独首位に立ったが、72ホール目でパーセーブできなかったためスチュワート・シンクとのプレイオフとなり、惜敗の2位(後述)。59歳のトムが優勝すれば大会史上最年長優勝の記録を142年ぶりにぬりかえるだけでなく、メジャー最年長優勝やツアー最年長優勝の記録も更新することから、観客も大きな声援を送った。トムもそれにこたえるように終始堂々とプレーし、周囲に大きな感動を与えた。また現地コース際でリポートしていた青木功が大会終了後、往年の盟友・戦友であるトムが優勝できなかったことを大いに残念に思い涙した映像がメディアで放送された。試合後、トムは「まだ私は戦えることを信じることができた1週間だった。地獄のようなストーリーだったが、素晴らしい失望でもある。来年のセント・アンドルーズでも戦えそうだ」とコメント。 ワトソンが還暦で迎えた2010年シーズンは、苦手としていた長距離コースのオーガスタでの第74回マスターズを4日間通算-1で廻って18位タイ(タイガー・ウッズがスキャンダルを経てPGAツアーに復帰した大会で、優勝はフィル・ミケルソン)、リンクスコースのペブルビーチ(パー71)での第110回全米オープンでは通算+11(78-71-70-76)で29位タイ(優勝はグレーム・マクドウェルであり、最終日に74で廻って、4日間通算イーブンパーでPGAツアーおよびメジャー初優勝)と善戦し、満を持してセント・アンドルーズ(パー72)での第139回オープンに臨んだが、予選は73-75の通算+4、86位タイ、2打差で予選通過ならず、セント・アンドルーズは鬼門となった。これに対し、青木功は「59歳と60歳は1歳しか違わないが、この差は大きい。これは経験した人でなければわからない」とコメントしたが、ワトソンは「これが私にとって最後のジ・オープンではない」と2011年以降もジ・オープンに参戦する意思を表明した。 61歳で臨んだ2011年の第140回オープンはドーバー海峡に近いリンクスコースの一つであるロイヤルセントジョージズで開催され、ワトソンは2日目の7月15日にホールインワンを決めるなどして、軽々と22位タイでフィニッシュ。ホールインワンは6番ホール(この日はピンまで160ヤード)で遂行され、4番アイアンを振り抜くと、打球はピン手前約2.5mに落ち、ワンバウンドでツアー5回目のホールインワンを達成。最年長記録は、73年大会初日にトゥルーンの8番ホールで決めたジーン・サラゼンの71歳。 64歳で臨んだ2014年の第78回マスターズは、フィル・ミケルソン、ダスティン・ジョンソン、キーガン・ブラッドリー、セルヒオ・ガルシア、アーニー・エルス、チャール・シュワルツェル、ルーク・ドナルド、アンヘル・カブレラ、グレーム・マクドウェル、ウェブ・シンプソンらの試合巧者や、松山英樹も予選落ちの波乱があった大会だが、ワトソンも78-81で11打及ばず予選落ち(予選通過ラインは148、優勝はバッバ・ワトソン)。7月、ワトソンはジ・オープンの2週間前のグリーンブライアクラシック(オールドホワイトTPC)で3日連続アンダーパーで廻るなどして、通算4アンダーで35位タイフィニッシュと調整して、2009年大会の2位で得た出場権で37回目のジ・オープンに臨んだ(第143回大会・ロイヤルリバプール開催・7312ヤード・パー72)。予選は快晴であり、ワトソンは初日73、風の吹いた2日目を73でしのぎ、予選通過ラインギリギリの2オーバー、56位タイで突破して本選へ。72人が進出した3日目は、嵐(強風と大雨)との天気予報により、ジ・オープン史上初の「2ウェイ・3サムの第3ラウンド」となったが、断続的な雨のみで順調に大会は進行、ワトソンは10時50分(現地時間)インスタート(10番ホールからスタート)して75とスコアを崩した。最終ラウンドは好天にも恵まれ、8時55分スタートで5バーディ・1ボギー・12パーの68で廻り、4日間通算1オーバーの51位タイフィニッシュ。ドライバーの平均飛距離は271.9ヤード、5番ホールでは4日連続バーディを奪った。R&Aから2015年セント・アンドルーズ開催の第144回オープンに特別招待された。8月、全米プロゴルフ選手権に33回目の出場を果たしたが(第96回大会・バルハラ・7458ヤード・パー71)、72-73の85位タイで、2打及ばず予選落ち。9月にはアウェイのグレンイーグルス開催の第40回ライダーカップで史上最年長の全米チームキャプテンを務めたが、欧州選抜チームがロリー・マキロイらの活躍で3連覇を果たした(米国11.5ポイント、欧州16.5ポイント)。 65歳で臨んだ2015年4月9日の第79回マスターズ初日に4バーディ、3ボギーの71で廻り、マスターズでのアンダーパーのラウンドの最年長記録を更新した(2位はサム・スニードの61歳であり、1974年に71で記録。ワトソンの2日目は81で予選通算+8、87位タイ。予選通過ラインは146)。「最後のジ・オープン参戦」とワトソンが明言して臨んだ第144回オープンは荒天により予選が3日間行われ(第2ラウンドが2日間。大会2日目は午前の大雨で3時間14分中断し、42人が第2ラウンドを終了できず。3日目は強風で開始32分後から10時間28分の中断あり)、日本のプロゴルフツアーメンバー(日本人7人と外国人3人)が全員予選落ちした大会だが、ワトソンも76-80で通過ならず(予選通過ラインは144。日本人では米ツアー参戦の松山英樹のみ予選突破。タイガー・ウッズも予選落ち)。 66歳で臨んだ第80回マスターズ出場が、最後のメジャー参戦。
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