事後に公表された予言
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「ジュセリーノ・ダ・ルース」の記事における「事後に公表された予言」の解説
ジュセリーノは事件や事故などが発生した後になってから、それを予知していたと公表することがある。的中したとされる予言の大半はこのような事後に公表された予言である。ただし、手紙の宛先の人物や機関についてはあくまで、ジュセリーノ自身が送ったと主張しているのであって、実際に手紙を受け取ったことが確認されているわけではない。また予言通知によって何らかの大事故や悲劇が回避された事実もない。 1986年 1月28日スペースシャトルチャレンジャーの墜落事故(1972年3月20日予知とされる) 1986年 4月26日 チェルノブイリ原子力発電所事故(1980年ウクライナ・ソビエト社会主義共和国指導者宛) 1988年 昭和天皇の崩御(1979年3月15日付 東京の皇居宛) 1994年 アイルトン・セナの事故死(1989年8月17日付セナ宛他) 1995年 1月17日 阪神・淡路大震災(1979年3月15日付 東京の皇居宛) 3月15日 地下鉄サリン事件(1989年8月11月予知とされる、1989年9月26日付ブラジルのゴイニア市市長宛) 1997年 ダイアナ元皇太子妃死亡(1995年ブラジル大統領エンリケ・カルドゾ宛他) 2001年 9月11日 アメリカ同時多発テロ事件(1989年10月26日付アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュ宛他) 2003年 3月19日- イラク戦争(2001年10月1日付ジョージ・W・ブッシュ宛) 11月 マイケル・ジャクソンのスキャンダルによる逮捕(1999年米国大統領ビル・クリントン宛) 2007年 アダム航空574便墜落事故 - 2007年1月1日(インドネシア時間)アダム航空のボーイング574便がインドネシアスラウェシ島西方の海上に墜落し、乗客乗員全員が死亡した事故。事故の翌日、当局の発表として「機体の残骸がスラウェシ島中部の山中で見つかり、12人が生存している」と報じられたが、インドネシア政府は同日、誤報であったと訂正した(事故や誤報の経過の詳細についてはアダム航空574便墜落事故を参照。) 2日後の1月3日(サンパウロ時間)、ジュセリーノはこの事故を予知し、インドネシアのラジオ局(ラジオ・パスFM局)に警告の手紙を送っていたとしてその手紙のコピーをマスメディアに公開した(同局宛に3度目に手紙を出したのが2006年5月29日とされている、p232.)。120人の乗客を載せたアダム航空のボーイング734-400型機がスラウェシ島のマネジ市とトラジャ市に墜落するが、山中の森林に墜落するので、かすかな生還の可能性があるという前日に誤報であったとされた内容と酷似しているものであった(、p232-p233) 事故当初の報道が誤報であることが明らかにされてから3か月以上後(2007年4月10日初版)に「たま出版」から発行された『未来からの警告』のp234-236には、韮澤潤一郎の監修者注として、事故当初の誤報を事実扱いし、ジュセリーノの予言の通りの事故が起こった旨が記されている。また、翌2008年2月15日付の『東京スポーツ』でも韮澤はジュセリーノがこの事故の期日、場所、搭乗者数、犠牲者の状況を「どんぴしゃ」で当てたという旨を記している。この矛盾はジュセリーノが予知夢で無くニュースで見た誤報を発表した、もしくは韮澤の誇大解釈である可能性が生じる。 英語講師リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件 - 2007年3月26日、千葉県市川市で発生した、英国籍リンゼイ・アン・ホーカーさんの遺体が発見された事件。千葉県警はこの事件を殺人及び死体遺棄事件と断定する。ジュセリーノはこの事件を予知して警告の手紙を在ブラジル日本大使館に郵送したと主張しており、その「警告の手紙」を事件の約半年後、同年9月25日放送の日本テレビ系番組で初公開した。ジュセリーノが送ったとする警告の手紙には被害者と被疑者 の氏名が記載されており、2007年3月26日が殺害された日とされている。また被疑者が2007年末までにブラジルのリベルダーデ地区に逃げるとされている。ちなみに同番組では在ブラジル日本大使館はこの手紙の存在について「確認は取れない」と返答したと伝えている。 [要注意]ジュセリーノによる手紙には「3月26日~殺される(will be killed~)」と書かれているが、「3月26日」はあくまでも事件の発覚した日であり、千葉県警・警視庁は被害者の殺害された具体的な日時、時間、場所については特定していない。その後、同年12月21日の同日本テレビ系の番組の中ではナレーションを差し替えて、「3月26日が事件の発覚した日である」ということを付け加えている。 なお、被疑者は2009年11月10日に逮捕されたが、逮捕までの間は国内を逃亡しており、パスポートを申請しようとしていた段階であったため、出国はしていない。 長崎市長射殺事件 - 2007年4月17日、当時の長崎市長伊藤一長が選挙期間中にJR長崎駅近くの歩道で暴力団幹部の男に銃撃されて死亡した事件。ジュセリーノは事件の起こる10年前の1997年7月31日に長崎市役所(伊藤一長市長宛)に対して「Itcho Itoが2007年4月17日と18日の間にマフィア(暴力団)に殺される」旨を手紙で警告したと主張(、p95-p96)。 長崎市役所は日本テレビの取材に対して「郵便物到着の有無を含め確認できません」との文書による返答をしたことが紹介された(役所では投書などは基本的に1年で処分するのが通例)。 2007年末の日本テレビ系のジュセリーノの特別番組の中で、この警告の手紙が事件発生前に登記所登録されていた証拠としてサンパウロ第2登記所にジュセリーノが登記した書類のマイクロフィルムの映像が映し出されたが、その書類に記された日付を見る限り事件後の2007年7月13日に登録されたものである。 2008年 四川大地震( 5月12日) -2007年に中国の国家主席(記事では大統領)宛に 5月12日に中国でM7.8の大地震が発生するという予知をしたことを英文の手紙で知らせていたことを産経新聞のブログポータル『iza!』のインタビューで明らかにした。ただし、地震が起きる地名については「思いだせない」とした。また、同じ手紙で自著に掲載した9月の(南シナ海での)大地震のことも伝えていたとしたが、5月の地震の予言の方は自著に掲載されていないことについては「たぶんスペースが足りなくて載せなかったのだろう。編集上の問題だ」との見解を示した。なお、前述の手紙は、自著『リアルシークレット』に掲載されている。(p110-111。) 2011年 東北太平洋沖地震( 3月11日)2007年11月8日 ブラジルの日本大使館宛てに「もしも2008年8月13日に日本で地震が起きなければ、2011年3月11日もしくは12日に仙台でM8.9の大きな地震と津波が発生する」と予知した手紙を送っていたと、地震が発生した後になってホームページに公開した。ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)の本城達也はブラジルの日本大使館(長崎市役所の場合と違い、4年前の郵便物は保管されている)に問い合わせたが、そのような手紙は届いていないとの返答を得たとしている。 一丁目一番地の予言は温暖化である ジュセリーノの警鐘は、皆さんの努力により多少遅らせる事に成功しているとみられる。だからと言って安心はできない。稲作では、夏の午前中の温度が34度を越えると受精障害が発生すると長谷川利拡農学博士は述べる(『ジユセリーノの警鐘』ソフトバンククリエイティブSBC.2008年11月初版p105)。気象庁のデータでは日本海での水温の上昇は、世界平均の3倍の速さを示す(100年先には)(同前p108)。海面温度上昇の影響なのか、水産庁の2008年の数値で20年間で漁獲量が38%減少した(同前)。もう1つ温暖化でまとめられているのが、『ジュセリーノの予言』SBC.2008年5月初版(p125~p152)本人が何度も見たという予知夢内容だ。東京の暑い昼間にいて、紺色スーツを着た男性が街中で、バタンと倒れるという。そんな倒れるような暑い日に、外を出歩く日本人がいるのか、そんなに急激な気温上昇があるのか疑問を抱かせる描写だ。でも、東京消防庁のデータで熱中症緊急搬送者数グラフ(各年の8月のみ比較)が本文中にあり、2005年凡(およ)そ500、2006年凡そ360、2007年凡そ1050人であったが、その後を窺(うかが)うと2009年から死者数はそうでもなさそうだが、搬送者数は激増している。 菅義偉(前)首相が昨年10月「2050年排出ゼロ」を表明した。 そして、直ちに地球温暖化対策推進法を改正、衆院選前のコロナ収束と共に有終の美を飾られた。 それを受け、30年に亘る研究成果、提言されてきた事を国立環境研究所、西岡秀三元理事も表明。「脱炭素社会転換要諦」いわく、「やるしかないとの覚悟をもつ。やれる・やれないではない。~自然は待ってくれない。時間は限られている。……」など。『警告2』の中で、サンドラ・マイア女史(共著者)が温暖化が進むと、63度まで達すると言っている事を指摘。しかし、体を動かさない高齢者では、多湿の日本の熱帯夜で、30度で既に眠れずに重病になる。欧州が、いち早く「50年排出ゼロ」を言い出したのは、2003年の熱波で約1万5千人が死んだからだろう。フランスのアパルトマンは、石造り、住居も石造りの多い欧州だ。一週間近く40度が続けば、石造りの家の屋根も、壁も、机も、ベッドから何から何まで40度に達し、夜になっても、あまり下がらなかったのではないか。どう対処されたのか。その後の熱波では死者数は、一ケタ減らしている。一番暑くなる最上階には高齢者は入れないようだ。では、日本では30度に達する熱帯夜はなかったのかと言えば、日中35度くらいになり、2日も続けば、夕方でさえ外気温度は30度あり、夜中に外気温29、28度でも、梁から、壁から、家具、寝具まで高温にさらされた物の温度は下がらなかった。室内で30度は記録されていた。 温暖化への対処しの仕方 ジュセリーノのよりもユニークな「要諦」をまかとめられたあの国立環境研究所の動画に、最新の温暖化対処法が、語られていた。
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