事後の処置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)
近畿では例を見ない大規模な一揆の勃発に対して、幕府は驚愕すると共に威信回復のためその取調べは峻烈を極めた。 10月19日(11月21日)、京都町奉行所より内偵調査のための役人が甲賀郡・野洲郡に派遣され、同月22日(同月23日)には京都西町奉行与力目付田中寛治郎・東町奉行同下田定之進及び同心10余名により取調べが開始された。川筋の村々の農民を呼び出し尋問を行い、指導的役割を果たしたと思われる人物を次々に捕縛していった。また、一揆勢に対した諸藩の藩士・代官所役人等の取調べも併せて行った。 天保13年12月14日(1843年1月14日)、幕府より評定所留役関源之進・同戸田嘉十郎他3名が大津代官所に着き、12月16日(1843年1月16日)捕縛した農民を京都町奉行所の二条獄舎より大津代官所へ多くの番卒と共に移送した。大津代官所での取調べは捕縛者からの自白を得ることにあり、残酷な拷問が農民達に加えられた。
※この「事後の処置」の解説は、「近江天保一揆」の解説の一部です。
「事後の処置」を含む「近江天保一揆」の記事については、「近江天保一揆」の概要を参照ください。
- 事後の処置のページへのリンク