事後と裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 14:24 UTC 版)
「バーミンガム暴動 (1791年)」の記事における「事後と裁判」の解説
プリーストリーや他の非国教徒はこの暴動について、首相のピットの支持者らが教唆したものだと考え、政府を非難した。しかし実際には、バーミンガムの役人が暴徒を組織したと考えられるような証拠がある。暴徒の一部は隊列を作って、襲撃中も役人に先導されていたようで、事前に計画されていたことに対する非難も生まれた。非国教徒の中には、暴動が起こる数日前には、自身の自宅が標的になっていることに気づいており、犠牲となる人物のリストが予め存在していたと考えるようになった人もいた。また、30人程度で構成される「暴徒の精鋭隊」が存在しており、彼らは群集を扇動しながら、自分たちは暴動の数日間冷静に状況を見ていた。また参加した何百人もの群衆と違い、彼らは破壊行為をやめさせるような買収には乗らなかった。ウィリアム・ハズリットは1791年7月後半に出た地方新聞のShrewsbury Chronicleに寄せた手紙において、この一連の暴動を非難した。プリーストリーは当時13歳だったハズリットの教師であった。 この騒動の裏にバーミンガムの国教徒エリート層による連携があったとすれば、おそらく地元の牧師ベンジャミン・スペンサー (Benjamin Spencer) 、治安判事で地主のジョゼフ・カールズ (Joseph Carles) 、弁護士で検視官であったジョン・ブルック (John Brooke) が中心的役割を果たしていたと考えられる。カールズとスペンサーは暴動が勃発した際にそこに居合わせていたにもかかわらず、暴徒を止めようとしなかったし、ブルックは暴徒らをニュー・ミーティング・チャペルへと誘導したとされる。証言者は口をそろえて「治安判事らは暴徒に対して、人や財産に手をかけず集会所のみ襲撃する限りにおいて身の安全を保障する約束をしていた」と述べている。判事はまた、暴徒の誰も逮捕しようとせず、逮捕された者も釈放していた。こうした役人らは、政府から扇動者を裁判にかけるよう指示されていたが、重い腰をあげなかった。ようやく首謀者の裁判をせざるをえない状況になると、彼らは証言者を脅し、裁判手続きを軽視した。告発された50人の暴徒のうち、17人だけが裁判にかけられ、4人が有罪判決を受けた。そのうちの1人は放免され、2人は絞首刑となり、1人はオーストラリアのボタニー湾に流刑された。しかし、プリーストリーや知人らは、暴徒らへの判決は暴動に由来するものである以上に、他の悪事・悪名に対する制裁であると考えていた。 国王ジョージ3世は騒動の鎮圧のために軍隊をバーミンガムに送らなければならなかったが、その処置は本意ではなく、「プリーストリーは彼自身や徒党らが吹き込んだ思想で痛い目に会い、彼らの本当の姿を市民に見せたのは喜ばしいことだ」と述べている。バーミンガム在住の被害者は政府からの経済的手当てを受け、総額で23,000ポンドに及んだ。しかし手続きには数年かかえり、大半の住民は損害額に見合う手当を受け取ることができなかった。 実業家のジェームズ・ワットによると、この暴動はバーミンガムを「二分してしまい、お互いに心底憎み合うことになった」。プリーストリーは当初、バーミンガムに戻って「父よ、彼らを赦したまえ、彼らは己のしていることをわかっていないのです」(ルカによる福音書23章34句)という聖書の句に基づいた説教を行うことを考えていたが、友人たちにそれは危険すぎると説得された。An Appeal to the Public, on the Subject of the Riots in Birmingham(1791) では以下のように聴衆に向かって訴えた。 私はあなた方と同じくイギリス人として生を受けた。非国教徒として市民生活に不利な中で苦労してきたが、長らく政府への支援に力添えしてきたし、私の相続財産は憲法や諸法に守られてきたと思っていた。しかし、全くの思い違いであった。もしあなた方が、大義があるにせよないにせよ、私のように不運にも民衆の憎悪を浴びるのであれば、同じような心境になるだろう。私の状況からお分かりのように、どんな裁判の形式もなく、犯罪や危険に対する何の通告もなく、家屋や財産が破壊され、運も尽き果ててしまうのだから。これに比べれば、かつてのフランスの拘禁令状 (Lettre de cachetや過日のバスティーユ襲撃の恐怖などいかほどのものだろうか。 この出来事で明らかになったのは、バーミンガムの国教徒のジェントリ階級は、潜在的な革命分子と見なした非国教徒に対しては暴力を使うことも厭わず、また制御不能になりうる群衆を唆すことにも抵抗がなかったということである。被害を受けた人の多くはバーミンガムを去り、暴動後バーミンガムは以前より保守化した。バーミンガムに残ったフランス革命支持者らは、翌年にバスティーユ襲撃祝賀会を開かないことを決めた。 プリーストリーと同じ非国教徒であった詩人のアナ・バーボールド (Anna Laetitia Barbauld) は1793年1月に『モーニング・クロニクル』紙 (The Morning Chronicle) に“To Dr. Priestley”という詩を寄稿し、暴動に屈しないプリーストリ―の精神を称えた。
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