地震と津波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 08:10 UTC 版)
1828年(文政11年)に発生した三条地震の悲惨な顛末は、門付巡業する女旅芸人の瞽女たちによって『越後地震瞽女くどき』などの口説として語られた。一連の越後地震口説には、地震の災禍とともに、文化・文政期に爛熟した町民文化を謳歌していた三条の社会に対する頽廃批判が詠み込まれている。災害伝承が口承文芸という形で残された例である。越後地震口説は盆踊りの音頭クドキとして西日本各地に伝わり、遠くは豊前や日向の山里で歌い継がれている。また、俗謡として出版されたものもあり、『瞽女口説地震の身の上』は明治天皇に天覧されたと伝えられている。 高知県には「打越(うちこし)」と呼ばれる坂にまつわる話がある。浦戸と南浦を行き来する際に通ることになる3つの坂のうち最も標高の高い「中坂」のことであるが、白鳳(飛鳥時代)の津波はこの中坂を打ち越して村々を襲い、広い地域を水没させた。その後も、安政(江戸時代)の大地震等で津波が襲来した。浦戸の住民は、津波が中坂を超えたと分かると裏山へ必死に走って避難するという。浦戸には「地震が起きたら山の竹藪に逃げろ」という言い伝えもあるという。 2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴い発生した津波では、三陸地方を中心に多数の人的被害が生じている。この時、三陸地方で古くから伝えられてきた教訓「津波てんでんこ」を平時から学び、実践した岩手県釜石市の児童・生徒の多くが津波から無事に避難することができた。(詳細は「津波てんでんこ」を参照。) 宮城県仙台市若林区にある波分神社には、天保の地震で発生した津波がこの神社の付近まで到達して止まったという伝承がある。東日本大震災の津波は、周囲よりわずかに標高の高いこの波分神社周辺を取り巻くように到達したという。伝承が寺社として目に見える形で残る事例である。(詳細は「浪分神社 (仙台市若林区)#神社と大津波」を参照。) 沖縄県の宮古島や石垣島といった島嶼地域には、不思議な生き物が津波の襲来を教えるという内容の民話が残っている。例えば、琉球王国の時代、石垣島の漁師が漁で人魚を捕らえたが、人魚の願いを聞き入れて逃がしたところ、津波が来るから村から逃げろと教えられた。漁師が人魚の言う通りにすると、間もなく村は津波に襲われたという。この人魚とは、島々の住民には身近な生き物であるジュゴンのことだと考えられている。実際の津波災害の顛末を人魚の民話に託して語り継いできたものであろう。また、柳田國男が『物言う魚』に収録した伊良部島のヨナタマの伝承も、同様に津波の襲来を告げている。下地村の漁師が、人面で人語を話す魚・ヨナタマを捕まえ、明日食べるために炭火で乾燥し始めた。その夜、隣家の子供が突然「伊良部村へ行こう」と泣き叫んだ。母親が屋外で泣き続ける子供をあやしていると、夜の海の彼方から「ヨナタマの帰りが遅い」といった言葉が聞こえ、漁師の家からは「私は炭火で炙られている、早く迎えを」といった返事が聞こえた。驚愕した母親は、子供と一緒に伊良部村へ走り、深夜の来訪に驚いた伊良部村の住民に事の次第を話した。翌朝下地村に戻ると、下地村は津波によって跡形もなく流されていたという。柳田によれば、伊良部島下地には今(柳田の時代)も村があるが、1748年に『宮古島旧史』に記録されたこのヨナタマの伝承を知らない住民が少なくなかったという。(詳細は「ザン」、「通り池#伝説」を参照。)
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地震と津波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:40 UTC 版)
日本国政府の地震調査委員会は2022年3月25日、九州南東の日向灘から南西諸島一帯にかけての巨大地震最大想定をマグニチュード7級から8程度へ引き上げた。歴史地震についての古記録は日本本土に比べ乏しく、300年程度前までしか遡れないが(日本本土の江戸時代、琉球王国の薩摩藩支配時代に相当)、八重山地震(1711年)の津波は高さ30メートルに達したと記されるほか、南西諸島にはこの地震などで打ち上げられたと伝えられる津波石があり、古記録以外に津波堆積物の研究が進められている。
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