地震と津波による電源喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:52 UTC 版)
「福島第一原子力発電所事故」の記事における「地震と津波による電源喪失」の解説
日本近海の牡鹿半島沖で2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震で、福島第一原発の在る大熊町は震度6強の揺れとなり、最大加速度は設計値の約126パーセントの550ガルを記録、施設内外に多くの破損が起こった。参考までに他の地震と比べると、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)で観測された最大加速度は818ガル、事故時までの世界最大はギネスブックによると、2008年6月14日の岩手・宮城内陸地震での4022ガルである。 この地震により、稼働中の1 - 3号機は自動的に制御棒が挿入され緊急停止した(原子炉スクラム)。原発に電力を供給していた6系統の送電線の内の鉄塔1基が地震による土砂崩れで倒壊し、5号機・6号機が外部電源を喪失した。1 - 4号機もまた、送電線の断線やショート、関連設備の故障などにより、同じく外部電源を喪失した。外部電源を損失したために館内は停電し、大量の水が降ってきた場所もあり、作業員は緊急退避した。 外部電源が失われたため、一旦は非常用電源(ディーゼル発電機)が起動して切り替わった。しかし、太平洋から押し寄せた大きな津波が、地震発生41分後の15時27分の第一波以後、数回にわたり原発を襲った。津波は低い防波堤を越え、施設を大きく破壊し、地下室や立坑にも浸水した。地下にあった1 - 6号機の非常用電源は水没し、二次冷却系海水ポンプや、燃料のオイルタンクも流失した。 このため1・2・4号機が全電源喪失、3・5号機が全交流電源喪失に陥り(3号機は最終的にバッテリーが枯渇し全電源を喪失した)、非常用炉心冷却装置(ECCS)や冷却水循環系のポンプも動かせなくなった。しかも海水系冷却装置系統(RHR)は津波で破損した。核燃料は原子炉停止後も長い年月、崩壊熱を発し続けるので、長時間冷却が滞ると過熱を起こし重大な事故に繋がる。 いったん冷却不能になれば、燃料棒は過熱し続け炉内温度は上昇し、そのため冷却水からの水蒸気発生によって炉内水位は低下し、圧力容器と格納容器の内圧が上昇。燃料ペレット被覆管(ジルカロイ材)溶融による化学反応で多量の水素が発生--といった過程は進行を続け、有効な対策を打たない限りは数十時間程度で爆発する可能性がある。 これを防ぐため、格納容器内の蒸気を外に逃がす操作(ベント)を行い格納容器の圧力を下げる必要がある。しかしベントによっても放射性物質は放出されるのであり、最悪の事態を避けるためのやむを得ない措置である。通常行なわれるベントは、ウェットベント(=PCVベント)といい、格納容器内の蒸気を圧力抑制室内に貯められた水にくぐらせて大半の放射性物質を取り除いてから外部に放出する。ドライベントは、格納容器から直接外部に放出するためより多くの放射性物質が放出されることになる。 電源喪失により、原子炉冷却機能を失っただけでなく、原子炉の状態を示す各計器の値が表示されなくなり、さらに発電所内の照明、通信機能も失ったことが、事故対応を極めて困難なものにした。また津波によって発電所敷地内に瓦礫、車両、重油タンク等が散乱し、事故復旧のための資材搬入や車両通行を妨げた。さらに、大津波警報が継続するとともに大きな余震が繰り返し発生し、それらへの警戒から作業は度々中断を余儀なくされた。 1号機では最も早く注水が止まり、地震翌日までに炉心溶融、建屋爆発に繋がった。2号機では蒸気タービン駆動の隔離時注水系(RCIC)が、奇跡的に3日間、炉心に水を注入し続けた。直流電源の残っていた3号機も2日間注水が継続していた(2号機・3号機は、全交流電源喪失を考慮し、隔離時注水系(RCIC)および高圧注水系(HPCI)と、2系統の蒸気タービン駆動注水装置がある)。 しかし停電時間は、電力会社が設計上想定してきた最大8時間に収まらず、非常用バッテリーを使い切った。交通渋滞による電源車の遅れ、原子炉の電圧と合う電源車が62台のうち1台しかなかったこと、電源車の出力不足、唯一の受電施設が水没したこと、地震翌日に開通した仮設電源ケーブルが開通6分後に1号機の水素爆発で吹き飛ばされたこと、自衛隊や在日米軍による電源車のヘリコプター空輸が重量超過のため搬送できなかったことなどの複合要因により、全電源喪失の時間が長期化した。
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