地震と改元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
なお、同1596年9月1日(旧暦閏7月9日)、慶長伊予地震が発生。M 7.0、薬師寺本堂や仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊。3日後の9月4日に慶長豊後地震が発生。M 7.0-7.8、死者710人、地震と津波によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされる。 翌日の9月5日午前0時頃、慶長伏見地震(慶長伏見大地震)が発生。M 7.0-7.1で、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣、方広寺の大仏が倒壊。余震が翌年春まで続く。これらの大きな地震が相次いだことで慶長に改元された(このため、地震は「慶長」を冠している)。 なお、この地震より以前、加藤清正が石田三成・小西行長らに訴えられて日本で謹慎していたが、清正は地震が起きた際に秀吉のもとへ駆けつけて弁明を行い、謹慎を解かれ、慶長の役にも出陣することとなった(地震加藤)。ただし、清正が地震の2日後に出した書状では清正は伏見邸の未完成により自分が無事だったと記しており伏見にはいなかったことが判明しており、地震加藤の逸話は史実ではなかったとみられる。また、同じ時期に他の武将にも帰国の動きがあったことから、清正の帰国は和平の進展と明使節の来日に対応したもので、謹慎処分によるものではなかった可能性が高い。
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