フジテレビ時代
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笑っていいとも! めちゃ²イケてるッ!「カウンタックの宅急便」企画で、お台場引越し時に河田町の旧局舎に置いてきた私的な手紙の内容を暴露されていた。
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フジテレビ時代
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めざにゅ〜メインキャスター(土曜日、2007年10月6日 - 2009年9月19日) (木・金、2008年4月3日 - 2009年9月18日、2012年10月4日 - 2013年9月27日) 天気キャスター(木・金、2006年10月5日 - 2008年3月28日)(土曜日、2006年10月7日 - 2007年9月29日) めざましテレビ(木・金、2007年4月5日 - 2008年9月26日)(ココ調担当、2011年4月 - 2013年9月27日) (ミドリgaマドグチ担当、金曜日、2012年4月5日 - 2013年9月27日) めざましどようび(エンタメ担当、2007年4月7日 - 2009年9月18日)(めざカルチャ担当、2009年10月3日 - 2011年3月26日) めざましどようびメガ(情報キャスター、2008年7月12日 - 2009年3月28日) 超V.I.P.(パーソナリティー、2006年10月30日 - 2007年10月29日) まるまるちびまる子ちゃん (木曜日、2007年4月26日 - 2008年2月28日)バラエティコーナー出演・副担任松尾先生役 FOOTBALL CX ダイジェスト(2006年9月16日 - 2007年) BSフジNEWS(2006年7月27日 - )不定期出演 爆笑ピンクカーペット(2007年4月29日 - )司会・進行 フジアナスタジオ まる生(2009年1月10日、2010年7月17日)MC担当 一攫千金!日本ルー列島(2008年4月11日 - 2009年2月)アシスタント ペケ×ポン(2008年4月9日 - 2008年9月)アシスタント(ゲームが「経験プライス」の時は出演なし) 東京マラソン2009(2009年3月22日) 東京ビッグサイト担当 優勝選手インタビュー お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル(不定期放送、司会・進行) もしもツアーズ(2008年4月 - 、産休中の坂下千里子の代わりにツアーガイドとして不定期に出演) 熱血!平成教育学院(2010年5月2日)アナウンサーチーム ネプリーグ(2010年7月12日)合衆国エンジェルチーム 捨てる恋あれば拾う恋あり(2010年4月12日 - 2010年9月20日) 森田一義アワー 笑っていいとも!火曜日担当(2007年4月3日 - 2009年3月24日、2009年10月6日 - 2010年9月28日) 月曜日担当(2009年3月30日 - 9月21日) 笑っていいとも!増刊号(日曜日、2007年4月8日 - 2010年10月3日) 笑っていいとも!特大号 体育倉庫〜ジムくんとゆかいな仲間たち〜(2009年7月5日 - 8月30日、2010年6月13日 - )だんち 役 ミッドナイトアートシアター(3代目支配人、2006年10月20日 - 2011年3月18日) 新・週刊フジテレビ批評(2011年4月23日・30日、6月11日、7月2日、8月13日、9月3日、2012年3月3日、同僚の松村未央の代わりにニュースキャスターとして出演) あいまい語ペディア(2008年3月、7月) うまプロ(2010年1月9日 - 2011年12月24日、不定期出演) BSフジLIVE プライムニュース(2011年10月 - 12月、火曜日のグローバルニュース担当) ニュースJAPAN(ナレーション、火曜、不定期) 絶景日本の健康歩き〜ウオーキングプラス〜(不定期出演) アナ★バン!(不定期出演) なまうま(2012年1月7日 - 12月22日) みんなのKEIBA(レポーター、2010年1月10日 - 2012年12月23日、優木まおみ不在時は代理司会者として出演。) THEわれめDEポン(アシスタント) 爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル (不定期出演、2008年12月30日 - 2012年9月) FNNスーパーニュースWEEKEND(日曜日担当ナレーション、2013年1月6日 - 6月30日) ミューサタ(2009年4月 - 2013年9月27日) うまズキッ!(2013年1月5日 - 9月28日)
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フジテレビ時代
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プロ野球ニュース:1981年10月〜1983年3月 北の国から 第9話(1981年12月4日) おはよう!ナイスデイ(リポーター):1982年開始からの短期間 FNNスーパータイム(週末版):1986年10月〜1987年9月、1992年4月〜1997年3月 FNNニュースレポート23:30:1987年1月3日・4日(永島信道の代役) FNN DATE LINE(週末版):1988年4月〜1990年3月 FNN NEWSCOM(週末版):1990年4月〜1991年3月 産経テレニュースFNN(週末版):昼枠を『FNNスーパータイム』と兼務。朝枠は上記3番組を担当していない時期に断続的に担当。 FNNスピーク(同僚の松尾紀子、近藤サト、阿部知代、木幡美子、田代尚子とキャスター):1991年4月〜1992年3月(金曜)、1992年4月〜1993年3月(木曜・金曜)、1992年4月〜1994年3月(土曜) 週刊フジテレビ批評:1999年11月〜2001年3月 FNNモーニングコール:1987年10月〜1988年3月 森田一義アワー 笑っていいとも!(テレフォンアナウンサーとして出演):1987年10月〜2001年9月 ドリフ大爆笑 志村けんのだいじょうぶだぁ ジュニア 愛の関係(アナウンサー役) けんちゃんのオーマイゴッド(「世界名作劇場」のナレーション) 志村けんのバカ殿様(オープニングの時のゴジラのパロディで臨時ニュースのアナウンサー) 上岡・ヒロミの花も嵐も ポンキッキーズ(1999年4月から「爆チュー問題」コーナーにて前出「山チュー秀樹」に扮して出演) クイズ!ヘキサゴンII:問題出題 男と女のミステリー「お嬢さん現金に気をつけて! -危険な天使たち-」(1989年) 世にも奇妙な物語『夢を買う男』(1991年) SMAP×SMAP V6の素(「ブイロクヒーロー列伝」の司会) マッハブイロク こたえてちょーだい!(川合俊一が腰部捻挫の入院のため、代行の司会を務めた) FNS27時間テレビ(第19回の立会人) 芸能界麻雀最強位決定戦THEわれめDEポン 人間の証明 第8話(2004年8月26日) - ニュースキャスター 湘南 OLD BOY 山中(フジテレビ739 2006年6月から(再放送あり)) 天才のパチンコ(フジテレビ721) - 司会・実況
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フジテレビ時代
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宝島の地図シリーズ(BSフジ、2000年-2004年) パンドラの秘宝〜クセになる世界TVウォッチ!(2004年1-3月) 森田一義アワー 笑っていいとも!(2002年10月-2004年9月28日) 毎週火曜日のテレフォンアナウンサー 晴れたらイイねッ!Let'sコミミ隊(不定期) 2002年6月-2003年7月に「ミナコのEふぉま!」を担当。 超V.I.P. - パーソナリティー(2003年10月-2006年9月) 音箱登龍門(2004年1月-2005年9月) 笑っていいとも!増刊号(2004年10月-2006年9月) FOOTBALL CX(2006年まで)「メトロでピント!」(2003年-2004年)→「〜でピント!」(メトロ、サックス、ピアニカのいずれか)などのコーナー(2004年秋-2005年5月)→「HAPPY BIRTHDAY」のコーナー(2005年秋-2006年5月) アナ☆ログ 一攫千金!日本ルー列島(2008年4月-2009年2月) 脳内エステ IQサプリ 2代目秘書(2005年11月5日-2009年3月14日) - 小島奈津子の後任で、秘書(サブMC)を担当 めざましテレビ(2002年9月30日-2009年3月27日) - 情報キャスター担当 めざましテレビ Presents 中野美奈子の広人苑(フジテレビ721・739) 夢街人( - 2009年3月) - ナレーション もしも(2008年10月17日 - 2009年3月27日、2009年5月16日) - ナビゲーター、椿原慶子と一緒に出演。実際はレギュラー化前の『もしも2』からナビゲーター。 ウソホンティ(2009年10月14日 - 2010年3月17日) - 司会 美奈子&玲子のシネマ☆パラダイス!(BSフジ、2008年4月7日-2010年9月27日) ※ナビゲーター、遠藤玲子との冠番組。 うわさ体感バラエティ くちこみっ(2010年4月6日 - 9月14日) - 進行 体育倉庫〜ジムくんとゆかいな仲間たち〜(2009年7月5日 - 8月30日、2010年6月13日 - )アンバー役 その顔が見てみたい(2010年10月27日 - 2012年2月3日) アナ★バン フジアナスタジオ まる生 情報プレゼンター とくダネ!(2009年3月30日 - 2012年6月29日)- サブ司会 キカナイト(2011年7月5日 - 2012年6月29日) 脳活アップデートQ!スマートモンキーズ!!(2012年8月12日 - 9月9日)
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フジテレビ時代
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早稲田大学の同期で友人でもあった松倉悦郎とともにフジテレビのアナウンサー試験を突破し、大学卒業後の1968年4月、フジテレビに入社。同期入社にはアナウンサーでは松倉、山川建夫、小林節子、竹下典子、山根佳代子、他職では坂井義則がいる。 最終面接の際、当時の鹿内信隆社長が「早稲田の文学部から2人受けているか。君、どちらか1人しか受からないとなったらどうするかね?」という質問をした。質問に困り果てた逸見はとっさに「そ、それは困ります」と答え、その場にいた重役たちは笑みを浮かべた。逸見は、「松倉にも同じ質問をして松倉も同じように答えたのだな」と思ったという。この言葉が最終的に2人そろっての採用の決め手になったと言われる。なお、1967年7月3日午後5時というフジテレビの入社試験の合格発表の日時を、逸見は終生覚えていたという。また、並行して高校の先輩の乾浩明がいた地元・大阪の朝日放送の入社試験も受けてカメラテストまで通過していたが、フジテレビの内定を得たため辞退した。 若手時代の逸見は、「暗い」「つまらない」「売れないだろう」という否定的な見方が大勢であったが大橋巨泉は「わかんないぞ。逸見が突然、人気アナウンサーになるかもしれない」と後年の活躍を予見していたという。 当初はスポーツアナウンサーとして活躍し、輪島功一の世界タイトルマッチの実況を中心にプロボクシング中継を担当。ボクサーより先に倒れるのではないかと思われる程の絶叫調の実況で頭角を現した。ボクシング以外にもバレーボールの実況中継も担当しており、全国高等学校バレーボール選抜優勝大会や日本バレーボールリーグの中継でもマイクロフォンサイドに立っている。 スポーツ中継と並行して、ワイドショー『3時のあなた』のサブ司会者としても活躍した。また、フジテレビが制作に関わっていたテレビドラマ『金メダルへのターン!』や、特撮テレビ映画『ミラーマン』にもアナウンサー役で出演している。 その後は報道番組へ転属し、1976年に『FNNテレビ土曜・日曜夕刊』で週末のニュースを担当したことを皮切りに、1978年平日放送の『FNNニュースレポート6:30』(関東ローカル番組)のキャスターとなった。当時のニュース番組のキャスターに逸見の年代で起用されるのは珍しかった。それから2年余りが経過した頃、TBSで同時間帯に放送されていた『テレポート6』を見て感銘を受けた事から、アナウンス研究会の先輩でもあり、当時同番組のキャスターであったTBSアナウンサーの山本文郎に直接電話をかけ、どのようにすれば質の高いニュース番組になるのかを尋ねた。山本からは「できるだけ現場へ行くように」と指導を受けた。その後、逸見は共演の田丸美寿々とともに、様々な現場へ取材に出向く。取材範囲は原則的に関東地方に限られたが、時折それ以外の地域へ赴いたこともあり、山口組三代目田岡一雄組長狙撃犯の死体が発見された際には、神戸の山口組本部に突撃取材を行ったこともある。 1980年頃から、自宅新築のために結婚式の司会などの副業を始めた。知名度が上がるに伴い、副収入も増え、フジテレビを退社する頃には給料の倍以上の額を稼ぐ程になっていた。このため、20年返済で組んだ住宅ローンもわずか6年で完済。一方で、副収入が増えたことで追徴課税がなされるようになっていた。逸見がこのことを知人に相談したところ「必要経費が認められるから独立するのが一番良い」と返答された。それまで「フリーには絶対ならない」と公言していた逸見は、「管理職昇進でアナウンスの現場から離れたくない」という気持ちもあり、方針を転換し、独立を検討する契機となった。 1984年4月にワシントン支局長になった山川千秋の代わりに『FNNニュースレポート6:00』のキャスターに就任し、同年10月に後番組としてスタートした『FNNスーパータイム』の初代メインキャスターも引き続き担当。幸田シャーミンとのコンビで人気を博す。また、1985年4月から開始した『スーパータイム』の前時間帯の生放送番組『夕やけニャンニャン』に設けられていた同番組の予告コーナーに、放送曜日である月曜から金曜まで毎日に渡って出演したが、片岡鶴太郎やとんねるずとの当意即妙なやりとりが視聴者の注目を集め、これが逸見の転機となった。当時までのニュースキャスターといえば堅物で真面目一直線といった人間が就く職業というイメージしかなく、当時の逸見の外見も「七三分け」に「黒縁メガネ」と、その例に漏れなかったが、ひょうきんなキャラクター、そのギャグセンスの高さとのギャップが若年層の視聴者に意外性をもって受け入れられた。そして、番組開始からおよそ一ヶ月後、「逸見のことを知りたい」という十代の視聴者からの投書が番組に舞い込むようになり、それに応えるかたちで別コーナーにもゲスト出演する。逸見の番組内人気は過熱の様相を呈していて、鶴太郎から「プロマイドは出さないんですか?」とアイドル的人気にひっかけたギャグを振られるなどして大いに盛り上がるが、早速翌日にはマルベル堂から本当にプロマイド発行のオファーが舞い込み、フジテレビと逸見は驚きながらも受諾。テレビアナウンサーのプロマイド製作は史上初の出来事であったが、何の変哲もない中年男性の外見であった逸見の心配をよそに、売れ筋商品となった。その後も『夕やけニャンニャン』と『スーパータイム』の視聴率が上がるに連れ、逸見の人気も急上昇し、一年間で170社もの取材を受け、著書やレコードも立て続けに出していくようになる。 1985年8月12日、一家が大阪へ帰省するため、羽田発伊丹行日本航空123便に搭乗する予定だった。しかし長男の太郎が「3人なら新幹線の方が安い」と提案し、晴恵が飛行機嫌いであったこともあり、直前に東海道新幹線に変更したため、その墜落事故の難を逃れた。航空機墜落を伝えた逸見は退勤し、帰路に向かうが最終的に「今から戻ってもニュースの一番おいしい所を良いとこ取りするだけだ」と思い留まり、帰宅した家で『FNN報道特別番組』を見守った。この時、10時間に亘って原稿なしでコメントを続けた露木茂のキャスターぶりを、後に著書で絶賛した。 人気の高まりを受け、1986年には映画『コミック雑誌なんかいらない!』にも出演。また、バラエティ番組への出演が増え、同年からそれまで21年連続で司会を務めてきた高橋圭三の勇退を受けて、『新春かくし芸大会』の司会を芳村真理とのコンビで担当、名実共にフジテレビを代表する看板アナウンサーとしての地位を確立する。また、この年にはベスト・ファーザー イエローリボン賞にも選出された。
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