人気アナウンサーに
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ペナルティーが解かれてからもレギュラー番組を任せられることはなく、単発スペシャル番組のリポーターやバラエティ番組のナレーション程度しか出番がない状態が続いた。 しかし、1977年、特別番組として『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ!!』の企画が社内で持ち上がる。収録の日程上、長期間海外出張できる余裕のあるアナウンサーが必要になり、レギュラーを持っていない福留にお鉢が回ってきた。1986年、ウルトラクイズの司会が評価され、第23回ギャラクシー賞・選奨を受賞。ウルトラクイズがレギュラー化した後に、高校生から「アメリカ横断ウルトラクイズに参加したい」という手紙 を多くもらい、その手紙に応えて福留が企画・誕生させた番組が『全国高等学校クイズ選手権』(高校生クイズ)である。 『アメリカ横断ウルトラクイズ』が年一回のレギュラー番組となり、人気番組に成長するとともに福留の知名度もさらに上昇、先輩である徳光和夫の後を継いで1988年より『ズームイン!!朝!』の第2代総合司会にも就任。自らが災害・事故・事件現場に積極的に赴き、また、番組制作・進行・構成にも深く関与、全国の系列各局との密接な連携などを行った。『ズームイン!!朝!』の視聴率が20%を超えたのも、福留時代だった。日テレアナウンサー時代は、徳光との「トクさん・トメさん」コンビで、バラエティ番組から報道番組、選挙特別番組まで数多くの番組に出演。 福留は徳光を目標、そして鑑として見習って来たが、プロデューサーの佐藤孝吉に「無駄な喋りが多い」と指摘され、そこから、軽妙でバラエティ色が強かった徳光に対し福留は、無駄な言葉や放送中の冗長な演出を一切排し、事実だけを伝えていく道を歩み始める。後年語ったところによれば、佐藤は福留を喫茶店に呼び出し、「調子はどうだ?」と問いかけ、やり取りを繰り返した。帰ろうとしたところ、佐藤は足元にちぎられた紙ナプキンを指さし、「これを拾え」と指示。福留が疑問に思って問うと、「おまえが俺(佐藤)との会話で発した無駄な言葉だ。『そして』『しかし』『えーっと』とか言った言葉だ。それだけ無駄な喋りが多いんだ。」と返されたという。1978年12月14日、マーシャル諸島で見つかったゼロ戦を題材とした1時間半の『緊急特報 南の島にゼロ戦15機発見!!』を任された。これはわずかな資料映像をもとにして制作され、本編は福留がカメラに向かって語り続けるというものであった。本番3日前に原稿用紙400枚もの原稿を手渡され、丸暗記して挑んだ。佐藤からは「俺が書いた台本を一字一句間違えずに暗記しろ。そしてそれをお客さんの胸にまっすぐ語り掛けろ。チラッとでも原稿に目を落としたら容赦しない。」とも言われていた。結果ノーミスで乗り切った福留は佐藤から「ぐっと伸びた」と評価される。 担当番組の中には生放送中、台本を一切見ないで2時間単独で喋りっぱなしというものが多いが、福留は毎回、台詞を全て完璧に覚えていたという。
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