福留時代
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1988年3月、徳光は同年4月から開始される夕方の報道番組『NNNニュースプラス1』のメインキャスターに就任することになり、10年目に突入した同年3月7日が最後の担当となった。この日から後任に福留功男が起用され、この日の放送はバトンタッチを兼ねて二人で進行した。なお、福留は当時『全国高等学校クイズ選手権』(1983年 - )・『アメリカ横断ウルトラクイズ』(1977年 - 1990年)の総合司会を務めており、『高校生クイズ』ロケ期間(7月下旬から8月上旬にかけて)は収録先から福留が中継で出演して番組が進行され、『ウルトラクイズ』ロケ期間(8月下旬、9月から10月上旬までの間の1ヶ月間程)は主に自局および系列基幹局の代理キャスターが担当していた。 徳光から『ズームイン』の総合司会を引き継いだことについて福留は後年、「当時の高木盛久社長が日テレ系列局の役員会で『徳光さんの後任総合司会は誰なんですか』と系列局の社長に突っ込まれて、高木社長が日テレの局アナの中で私と徳光さんしか分からなかったのでやむなく私が抜擢された」と語っている。なお、『ズームイン』総合司会就任に当たり福留は『ウルトラクイズ』『高校生クイズ』はどうするのかを上層部に問いただしたが、双方続投と聞いてあ然となった。 当初は福留ではなく当時読売テレビアナウンサーで、関西地区のキャスターも担当した辛坊治郎が2代目総合司会の最有力候補に挙がっていた。 福留は「最初の1年間は味噌汁の味は変えない(徳光時代の番組カラーはそのまま引き継ぐ)が、1年経ったらその後は自分の色でやる」として、実際に1年後にはスタッフを総入れ替えして報道・情報番組色を強めたという。最初の1年間は、福留が中心となって、視聴者の朝の生活習慣を調査した。この調査によると、トイレ・歯磨きなどほとんどの行動が3分以内であることが判明し、1回の中継時間を可能な限り3分以内とするリニューアルを実施した。同時に、それまで持ち回り制だった中継スケジュールを廃止。毎月全国の系列局のディレクターを集めて企画会議を行い、それを基に中継を実施した。また「情報トレイン」に至っては会議であらかじめテーマを決め、各局が企画したテーマを持ち帰って取材を進め、中継を放送した。 1990年7月には8時台の「NSヘッドライン(2回目のニュースコーナー)」を「情報トレイン」に変更。さらには「31分31秒」を「朝生リポート」に変更し、31分31秒に代わる企画「ズームインズーム」を登場させ、「ワンポイント英会話」の開始時間を7時20分から7時45分にする、「プロ野球いれコミ情報」の最後に時間切れの爆弾とGAME OVERの文字を表示させて「朝の詩」に移行するなどの大幅なリニューアルを行った。また情報番組としてスピーディーな進行を志向した福留の意向により、オープニングだけではあるものの、徳光時代以来長らく続いてきたが不確実性が高くアクシデントの主要因ともなっていたマイスタ前の一般開放を取りやめた(番組中及びエンディングは継続したが来訪者にインタビューするなど絡むことはなくなった)。 1991年3月に福留は日本テレビを退社しフリーアナウンサーに転身したが、本番組の総合司会は続投した。福留はこの半年後、TBSの情報番組『ブロードキャスター』のメインキャスターに就任し、以降はTBS側の方針により、『ブロードキャスター』が休止される場合同時に本番組の放送週を休む形をとっていた。『ウルトラクイズ』『高校生クイズ』の総合司会はこの年から福澤朗に交代したため、前年までのように『高校生クイズ』収録のため福留が地方から出演したり、『ウルトラクイズ』収録のため福留が番組を1ヶ月離れたりするという事はなくなった。 1991年8月21日 - 23日には、福留が海外で容体が悪化した娘の看病のため滞在先の国に渡航した関係で、急遽初代総合司会の徳光が3日限りの復帰を果たし、代理総合司会を務めた。この3日間に限り、当時既に廃止されていたオープニングでのマイスタ一般開放が実施され、見物客と共に『ズームイン‼︎』を行うかつての光景が復活した。 1992年3月30日、直前の時間帯にマイスタジオを使った情報番組『ジパングあさ6』がスタート(一部地域を除く)。本番組との合同PRスポットも制作された。 1993年4月9日、番組放送開始15周年を記念して日本テレビ開局40周年記念特別番組『ズームイン!!夜!』をゴールデンタイムの夜7時から4時間にわたって放送。徳光と福留のダブル総合司会により朝と同じスタイルの番組を夜に展開する企画で、好評につき同年秋にも2回目(この時は夜7時からの2時間30分)の放送がなされた。 1993年から1994年に掛けて、長寿企画である「朝の詩」や「ワンポイント英会話」のコーナーを終了させた。ニュース量・地方中継の量と質の向上などの第2のリニューアルを進め、スピーディーな番組進行の色合いが強まった。「朝の詩」は花王の一社提供コーナーであり、花王に了承を得てから終了となった。以後、花王は提供クレジットから降りてPT(パーティシペーション)扱いとしてCMを流した。 重大な事件・事故が起きた際、その翌朝にはマイスタでの司会を別の者(堀敏彦など)に任せた上で、メインキャスターである福留自ら現場から生放送・リポートを行う手法を多用した。1993年7月12日の北海道南西沖地震発生の際には、被災した奥尻島を翌朝の番組でヘリコプターからリポートした。最も有名なのは1995年1月17日の阪神・淡路大震災発生から2日後の同月19日、神戸から番組を生放送し、現地キャスターと被災地や被災者のリポートを行っている。その中継の中では読売テレビの報道フロアからの中継を打ち切る形で、福留が目撃した被災者が火災のあった家屋のがれきの中から救出されようとしている様子もそのまま生中継されていた(しかし、当該の被災者は数分後に白骨まで燃え切った状態の遺体で発見されている)。 1996年4月6日、土曜日の朝に姉妹番組として『ズームイン!!サタデー』を開始した(初代総合司会は後に本番組の3代目総合司会となる福澤朗)。 1998年4月1日、前半ネット部分のスポンサー体制が、それまでの隔日提供から曜日毎の提供に変更された。また、それ以前には提供クレジットの方式が度々変更されており、番組開始当初からはオープニングの天気リレー→全国の天気の後に前提供をテロップとコメントで紹介していたが、後に前提供・後提供ともコーナー開始の時にテロップで済ませるようになった。
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