デビュー以後
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1956年、厳格な公務員であった父からは漫画家になることを反対されていたが、喘息持ちの姉が両親を説得するなど熱心に応援してくれたこともあり、高校卒業と同時に上京、下落合に下宿する。5月からトキワ荘に移り、15日には病気治療も兼ねて姉も上京する。手塚をはじめ多くの漫画家たちが住んでいたトキワ荘に住み、作家活動を始めた。トキワ荘グループの男性陣の中では最年少ではあったが、最も早く頭角を現し、赤塚不二夫などは、自分の漫画を描くよりも、石ノ森のアシスタントをする時間の方が多いほどだった。 しかし1958年(昭和33年)4月4日、トキワ荘で石ノ森と同居し、トキワ荘グループのマドンナ的存在となっていた姉が急逝した。最大の理解者であった姉を失ったことは、後の石ノ森の作風にも大きな影響をもたらした。 1959年(昭和34年)、手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに、手塚の身代わりとして東映動画(現・東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に派遣された。石ノ森は月岡とともに「このまま東映動画に入ってアニメーションをやりたい」と訴えたが、当時東映動画の若手スタッフだった白川大作(後に東映動画専務)から「(絵が個性的でアニメに向かないから)ちゃんと漫画をやれ。そのかわり漫画が売れたらそれを原作として買いに行く」と説得されて断念した。後にこのときの約束通り東映動画で作品がアニメ化された。さらに東映本体での特撮番組企画へとつながる東映グループとの接点のきっかけとなる。 藤子、赤塚らと共にトキワ荘に長く住み、国民的売れっ子作家に上り詰めた中でも、もっとも遅い時期まで石ノ森はトキワ荘に住み続けた。 1961年(昭和36年)8月24日より70日間の海外旅行に出掛ける。当時は海外旅行が自由化される前で、単なる「観光」では旅行許可が下りなかったため、集英社に依頼しシアトルで開かれるSF大会の取材という名目で臨時に「取材記者」の肩書きを入手している。貯金がなかったため、旅費も各出版社から前借りした。SF大会では、矢野徹の紹介状をSFファンダムで有名なフォレスト・J・アッカーマンに渡し、ロバート・A・ハインライン、ポール・アンダースンらを紹介してもらう。なおこの旅行は、『少女クラブ』などの雑誌の廃刊が続いたことのショックや、姉の死からの逃避行という面も持っていた。 1962年(昭和37年)、トキワ荘を転出する。1963年(昭和38年)5月、鈴木伸一らとアニメーション制作会社「スタジオ・ゼロ」を設立。
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デビュー以後
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1984年に学生時代からの知人である前田、松本と、シルクロード音楽祭を通して知り合った春畑の4人でアマチュアバンド「パイプライン」を結成。角野はベースの担当となる。1985年6月1日に「The TUBE」としてデビュー。TUBEとしては2ndアルバム「OFF SHORE DREAMIN'」に収録されている「冬の海岸通り」の編曲を初めて担当。その後、渚のオールスターズの楽曲を含め数々の作詞、作曲を担当している。 また、2010年に発売されたTUBEのアルバム「Surprise!」に収録されている「風の街で」では、ヴォーカルを務めている。また、このアルバムを引っ提げて行われた野外スタジアムライブ「TUBE LIVE AROUND SPECIAL 2010 Surprise!」でも披露された。この模様は2011年4月13日に発売された映像作品『TUBE 25th Summer』で観ることができる。 2015年、TUBEの結成30周年を記念し、春夏秋冬と季節ごとに1枚ずつシングルがリリースされた。角野は冬のシングル「灯台」のジャケットを飾り、カップリングとなった「Back To Good Days」において、ヴォーカルの他に自身初となる作詞・作曲を担当した。 1988年5月23日、交通事故を起こしたため活動を自粛。その間のTUBEのライブは、角野の代役として栗林誠一郎がTUBEのサポートベーシストを務めた。 1994年にTUBEのサポートメンバー伊藤一義、沓野行秀とバンド「Riding」を結成。 2016年7月からレディオ湘南にて初のレギュラー番組「角野秀行のRIDE ON!」が放送開始。 同年12月23日に放送されたミュージックステーションスーパーライブでは大黒摩季のサポートベーシストとして出演し、『ら・ら・ら』を演奏した。
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デビュー以後
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1981年、作曲家 伊福部昭の薦めもあり、かつて受けたコンクールの審査委員長、寺原伸夫の門を叩いたことから、中島の音楽人生はスタートする。少人数のサークル「詩人と作曲家の集い」のようなところで自作のピアノ曲を演奏したり、詩人とのコラボレーションなどを始める。その後、「日本音楽舞踊会議」という音楽団体に所属し、1982年にピアノ作品を発表し、デビュー。さらに、「日本作曲家協議会」という作曲家の団体に所属し、作曲家たちとの交流を深めていく。 寺原との関わりの中で、ソビエト連邦との繋がりもできていき、1984年には国際音楽祭に招待され、現代音楽の夕べで、2台ピアノのための作品がモスクワ初演された。この時、ソビエト音楽界の重鎮であった、ソ連作曲家同盟書記長フレンニコフが中島を弟子にすると公表。しかし実現にはいたらなかった。その後、オーケストレーションのレッスンを、カレン・ハチャトゥリアンからモスクワで、たびたび受けている。
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デビュー以後
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2000年初頭、P!NKはベイビーフェイスやシェイクスピアなどのR&B界を代表するプロデューサーたちを招いてアルバムの制作を開始した。 デビュー・シングル「ゼァー・ユー・ゴー」は全米で7位を獲得、続けてリリースしたセカンド・シングル「モスト・ガールズ」は、全米4位を記録した。 アルバム『キャント・テイク・ミー・ホーム』は、アメリカでビルボードアルバムチャートに連続59週間チャートインし、カナダ、オーストラリアでダブル・プラチナム、イングランドでもプラチナ・ディスクを記録。 2001年に入り、クリスティーナ・アギレラ、リル・キム、マイアと歌ったミッシー・エリオットのプロデュース映画、『ムーラン・ルージュ』の主題歌「レディ・マーマレイド」(パティ・ラベルのカヴァー)が全米シングルチャートで5週連続1位、グラミー賞を獲得。なおこの曲は2001年のMTVのVIDEO MUSIC AWARDにおいて、VIDEO OF THE YEARとBEST VIDEO FROM A FILMの2部門を受賞した。 同年の11月20日、2ndアルバム『ミスアンダストゥッド』をリリース。このアルバムに収録されているほとんどの曲を、元4NonBlondsのリンダ・ペリーと共同制作。これまでのR&Bテイストに変わって、先行シングル「ゲット・ザ・パーティー・スターテッド」に象徴されるような、ファンキーなテイストのロックが中心となっている。Billboard誌初回登場8位、世界中で1,200万枚をセールスし、発売日から数日でプラチナアルバムという偉業を成し遂げた。 2003年11月には、3rdアルバム『トライ・ディス』をリリース。前作に引き続きリンダ・ペリー、そして新たにランシドのティム・アームストロングも参加。前作以上にロック色濃い作品となった。この作品からのシングルカット「トラブル」は、「レディ・マーマレイド」以来、ソロとしては初のグラミー賞を獲得。 2006年、3年振りの4thアルバム『アイム・ノット・デッド』をリリース。マックス・マーティンとブッチ・ウォーカーがプロデューサーとして参加し、サウンドが更に重厚になった。ボーナストラックに、実父とのデュエット曲も収録されている。 2007年、映画『カタコンベ』に、アリシア・ムーア(P!nk)名義で主人公の姉キャロリン役として出演。 2008年、5thアルバム『ファンハウス』をリリース。1stシングル「ソー・ホワット」は、自身のソロとして初の全米1位となった。 2012年9月に、約4年ぶりとなる6thアルバム『トゥルース・アバウト・ラヴ』をリリースした(日本でのリリースは10月)。世界中で700万枚以上を売り上げるヒットとなる。このアルバムからのファースト・シングルは『ブロウ・ミー(ワン・ラスト・キス)』。Billboardはこのシングルを「4文字ワードを連発するP!NKお得意のリリック・スタイルや、彼女の歌唱力があるからこそ実現できる急激な音程チェンジ満載の楽曲に仕上がっている」と評価。 2013年2月にリリースされた『ジャスト・ギブ・ミー・ア・リーズン』は世界中で1位を記録する大ヒットとなり(アメリカでは3週連続)、グラミー賞にもノミネート。キャリア13年目にして彼女の新たな代表曲となった。 2015年9月には約3年ぶりの新曲で、エレンの部屋・第13シーズンのテーマソングにもなった『トゥデイズ・ザ・デイ』をリリース。オーストラリアでゴールド認定を受けるヒットとなる。 2016年4月に映画『アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅』の主題歌『ジャスト・ライク・ファイア』をリリース。オーストラリアでは『ジャスト・ギブ・ミー・ア・リーズン』以来3年ぶりの1位に輝き、アメリカでも10位を記録するなどの世界的大ヒット作となる。 2017年10月には7thアルバム『ビューティフル・トラウマ』をリリース。自身初の英米両国での1位を記録するとともに、アメリカでは初週で約408,000枚相当を売り上げ、2017年に発売された女性アーティストによる作品としては1位となる(純セールスでは男女含め1位)。 2019年2月にはハリウッドで殿堂入りを果たし、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムにその名が刻まれた。さらに同月、イギリス最大級の音楽賞であるブリット・アワードにイングランド・アイルランド以外のインターナショナルアーティストとして初の功労賞を受賞する。この賞を女性が受賞するのも初のことである。4月には8thアルバム「ハーツ・トゥービー・ヒューマン」をリリース。全世界のiTunesランキングで1位を獲得する。さらに米国のビルボード・チャートでは自身3作目となる1位を獲得。
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デビュー以後
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2015年、前述のように、『ラブライブ!サンシャイン!!』(渡辺曜役)への出演が決まり、Aqoursとしての活動を開始した。程なくして自身のTwitterを開設した。2016年7月、『ラブライブ!サンシャイン!!』のテレビアニメの第1期が放送開始。同年8月16日、自身の公式ブログを開設。 2017年2月にAqoursとして初めてのワンマンライブ(横浜アリーナ)に出演。3月、第11回声優アワードにて、Aqoursの一員として歌唱賞を受賞した。8月、「Animelo Summer Live 2017 -THE CARD-」(通称「アニサマ」。1日目)に、Aqoursの一員として初出演を果たした。10月、『ラブライブ!サンシャイン!!』のテレビアニメの第2期が放送開始。 2018年8月15日、自身の公式ファンクラブ「しゅかランド」を開設。8月16日、自身の1st写真集『裸足。』が発売された。11月、東京ドームで開催されたAqoursの4thライブ「ラブライブ!サンシャイン!! Aqours 4th LoveLive! 〜Sailing to the Sunshine〜」に出演。12月31日、Aqoursの一員として、『第69回NHK紅白歌合戦』の出場を果たした。 2019年1月4日、『ラブライブ!サンシャイン!!』の劇場版が公開。2月5日、スマートフォンゲームアプリ『ミコノート』(天野結実役)に筆頭キャラクターとしての起用が発表された。3月、ダンスチャンネル「ハロプロダンス学園」でナレーションに初挑戦。6月12日、SACRA MUSIC所属でのソロ歌手としてのメジャーデビューを発表。
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