安重根 安重根の概要

安重根

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/18 17:30 UTC 版)

安 重根
生誕 1879年9月2日
Flag of Korea (1882-1910).svg 大朝鮮国 黄海道 海州
死没 1910年3月26日(満30歳没)
日本の旗 日本 旅順
別名 安應七アン・ウンチル, 安多黙アン・トマ
罪名 殺人罪伊藤博文の暗殺)
有罪判決 有罪
刑罰 死刑(絞首刑)
配偶者 金氏[注 1](キム・アリョ)
両親 安泰勲, 趙氏[注 1]
安賢生(長女), 安俊生, 男児(夭折)
安重根
各種表記
ハングル 안중근
漢字 安重根
発音: アン・ジュングン
日本語読み: あん じゅうこん
ローマ字 An Jung-geun
M-R式: An Chung-gun
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伊藤の死により韓国併合の流れは加速され[注 3]、暗殺は大韓帝国の消失という皮肉な結果をもたらしたという見方もある[4]が、当時の朝鮮族、ならびに今日の韓国では、後の朝鮮独立運動にもつながる抗日義士であったとして安重根は英雄視されている。一方、北朝鮮においては、神話的に喧伝される金日成抗日パルチザンに比して、まず安重根には両班という出身に矛盾があり愛国的ではあったものの解決策を持たず手段も目標も誤った人物であったという評価に留まり、金日成の引き立て役に位置づけられている。

他方、事件当時に限れば明治日本の右翼人士や知識人[注 4]は、安重根は単身で要人暗殺テロを完遂した汎アジア主義者の志士であるとして、動機と犠牲精神の純粋性に共感する傾向があり、看守には助命嘆願をした者もいたほどだった。

生い立ち

現在は北朝鮮にある黄海道の道都海州府首陽山の両班の家に三男一女[注 5]の長男として生まれた。本人執筆の自伝によると、性格が軽急に近いので名()を重根중근ジュングン/チュングン)と、胸腹に黒子が7箇所あったので應七응칠ウンチル、日本語読みでは「おうひち」)と名づけられたと言う[5]。実名敬避の習慣から通常は、安應七アン・ウンチルを名乗っていた。本人が重根を使い始めたのは暗殺事件の直前である[6]

安の生家は資産家で、祖父・安仁寿が鎮海県監を務めるなど、地元の名家であった。父・安泰勲(三男[注 6])は幼少より英才として知られ、科挙を受けて進士に合格し、京城で開化派朴泳孝が選抜した70名の海外留学生に選ばれたが、1884年甲申政変で開化派が失脚した影響で、学生も排斥され、立身の道を閉ざされた。この際に、仁寿は家財を売り一族を連れて信川郡青溪洞に移住して難を逃れている。また泰勲は朝鮮では当時西学や天主教と呼ばれていたカトリックに改宗する。

仁寿は教育に熱心で、6歳の應七を漢文学校に入れ、次いで普通学校で学ばせたが、14歳の時にこの祖父が亡くなると、應七は半年間学業を中断。父母と教師が、銃と狩猟を好み山野に入り浸る應七を叱責して学校には戻ったが、自伝によると項羽の故事成句を引用して「書は以て姓名を記するに足る」と友人に言い、父の様に学業で身を立てないと言っていた[7]。應七は不学をむしろ誇り、長じて、狩猟、銃、飲酒、歌舞、妓生、義侠を好む浪費家となった[8]

1894年、16歳の時に金氏[注 1](キム・アリョ)を妻に娶り、後に二男一女をもうけた[9]。またこの年に甲午農民戦争東学党の乱)があった。泰勲は東学党が郡内で外国人排斥や官吏を殺害して暴れまわっていたのを憂い、70名余の私兵を集めて自警団を組織して青溪洞に避難民や宣教師を保護した。東学党・農民軍とも戦ってこれを撃退し、應七もこの時重傷を負ったというが後に全快した。しかし翌年、泰勲が東学党から奪った軍糧が、もともと魚允中[注 7]や閔泳駿の年貢米だったということで、国庫金の掠奪であると訴えられ、行賞されるどころか逆に賊の汚名を着せられた。泰勲は京城に赴き、法官に三度無実を訴えたが、聞き入れられず、判決もでなかった。そのうちに閔氏の手勢に襲撃され、安一族はパリ外国宣教会から派遣されていたフランス人のジョゼフ・ウィレム[注 8]빌렘、 韓国名: 洪錫九)[10]司祭に匿われた。この一件の後、泰勲は布教に熱心になり、應七も洗礼を受けて[11]17歳で改宗し、洗礼名を「トマ(トマス)」とした[12]

應七は熱心な信者となって、洪神父から数か月フランス語を学んで見識を広げたので、洪神父と西洋教育(科学)の大学校を開こうと相談した。それを閔主教に掛け合ったが、「韓国人にもし学問があっても信教によいことはない」と拒絶された。再三の要請が拒否された後、應七は厭いてしまい、「日本語を学ぶ者は日本の奴隷になり、英語を学ぶ者は英国の奴隷となる。もしフランス語を習得すればフランスの奴隷になるのを免れるのは難しい。もし韓国の威が世界に振るえば、世界の人も韓国語を用いることになる」から必要ないとして外国語学習を辞めてしまった[13]

この頃、2つの刑事事件に関与した。1件は韓国人の官吏と軍人に搾取されていた友人を義侠心から助けようとして失敗したもので、もう1件では、病気の父泰勲を診察した清国人医師が、反清勢力である開化派であったとして飲んだ勢いで父に殴る蹴るの乱暴をしたというので、應七は怒って殴り込みをかけて相手を殴打した上に短銃を発砲して逃走したというものだった。この清国人は官憲に訴えて應七を逮捕させようとした。当時の韓国は外国に領事裁判権を認めており、清国領事は京城の外務部にこの事件を主管することを訴えていたので、應七は外務・法務大臣の李夏栄に嘆願してこの件が鎮南浦裁判所に回されるように手を回してもらった。韓国の裁判所では自国民に有利な判決がでるため、清国人は仲裁に応じて和解して、結局は事なきを得た。

1904年、日露が朝鮮半島などの植民地領有を巡って争った日露戦争が勃発したが、應七は日露の何れが勝っても韓国はその勝者の属国であると行く末を悲観。他方で應七は宣戦布告の文面にある「東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする」ためとする建前を信じていて、その大義を日本が守らないのは全て政治家が悪いのであり、伊藤博文の策略のせいであると考えていた、と自伝にある。しかし伊藤の勢力が今は強くこれに抵抗しても徒死するだけで無益だと、應七と泰勲は話し合い、清国の山東半島上海には韓国人が多数居留していると聞いていたので、安一族も外国に亡命して安全を図るべきだと考えて、應七がまず下見に行くことになった。ところが、上海で旧知の郭神父が帰国するのに遭遇し、フランス人の彼により朝鮮民族(韓民族)の危機を諭され、外国に逃げたり、外国の力を借りて民族独立を計ろうというのは間違いであると指摘されて、大韓帝国の独立について二千万の同胞(朝鮮民族)が団結するべきという意見を持つようになったと言う。1905年、泰勲らは娘の嫁ぎ先や應七の妻の実家があった平安南道鎮南浦に引っ越していたが、12月、應七が帰国した頃には父はもう亡くなっていた。應七は父が死んだとの凶報を聞いて数回気絶したと自伝に書いている。父を青溪洞に葬った後、應七は大韓独立の日まで日常の飲酒を辞め、断酒をすることを決心した。

1906年、私財を投じて三興学校と敦義学校という2つの学校を設立した。1907年、父の知人金進士から白頭山よりも北方にある間島海参蔵(ウラジオストク)には韓人百数万人が居留して物産豊富であると教えられて、應七はロシアの地で事業を起こすことを考えるようになったが、先に資金を調達すべく平壌で友人と共に石炭商を営み始めた。しかし(自伝によれば日本人の妨害により)これに失敗し、数千という多額の金を失った。應七はこの頃、国債報償運動にも参加して大韓帝国が負った日本からの強制円借款の返済を目指していたが、探偵にきた日本人巡査と議論して殴られ、喧嘩した話が自伝にある。

この年の7月、伊藤博文が訪韓して第三次日韓協約が締結され、第二次日韓協約(1905年)にも内心では反感を持っていた高宗の指示により第2回万国平和会議へ派遣されていた密使が抗議活動をして、所謂ハーグ密使事件が露見し、高宗は強制退位となり、皇太子に譲位するという一連の展開があった。軍隊解散とそれに伴う義兵闘争の高まりの中で国内が不穏となると[注 9]、應七は急に家族を置いて、安多黙と名乗って友人李照夏と共に間島へ渡った[14]。なお「多黙(도마)」は洗礼名トマの当て字である。しかし間島にも日本軍が進出していて、足の踏み場もないような状態だったので、各地方を視察した後、夏の終わりにロシア領に入ってウラジオストクに到着した。ここで青年会に参加して喧嘩で耳を負傷した。

ウラジオストクで知り合った李範允は、間島管理使として清国と戦い、日露戦争時にはロシアに協力して亡命中の人物で、應七は大韓独立のために兵を起こし伊藤を倒そうと議論したが、李に財政的準備がないと最初は拒否された。しかし別に厳仁燮と金超龍いう2人の義侠と知り合ったので、彼らと義兄弟の契りを結び、厳を長兄・安を次兄・金を末弟とし、3人で韓国人を相手に義を挙げる演説を各地で行った。彼らは「日露が開戦した時に宣戦布告文で東洋平和の維持と韓国独立を明示しながらその信義を守らず、反って韓国を侵略して五箇条条約や七箇条条約を課し、政権掌握、皇帝廃位、軍隊解散、鉄道、鉱山、森林、河川を掠奪した」と日本を非難し、それに怒った「二千万の民族が三千里の国内で義兵として蜂起しているが、賊は強く義兵を暴徒と見なして殺戮すること十万に至る」と苦境を訴え、日本の対韓政策がこのように残虐であるのは「日本の大政治家で老賊の伊藤博文」のせいであり、伊藤は韓国民は日本の保護を受けて平和であると「天皇を欺き、外国列強を欺き、その耳目を掩うて」奸計を弄しており、よって「この賊を誅殺しなければ、韓国は必ず滅び、東洋もまさに亡びる」と演説して伊藤暗殺の同志を募り、一方で独立運動の火が消えてしまわないように義兵運動の継続も訴えたので、これに応じる者、あるいは賛同して資金を出す者があり、金斗星(金都世)[注 10]や李範充等と300名の義兵を組織することができた[注 11]。これをもって、1908年6月、咸鏡北道に進入して日本軍と交戦したと、自伝には書かれている。日本軍人と民間人とを捕虜としたが、万国法で捕虜の殺戮は禁止されているから釈放すべしという安と、日本人を殺しに来たのにそれをしないのはおかしいという仲間と口論して、部隊を分かち別行動をしたところで日本軍に襲撃されて散り散りになってしまう。その後、集結するも6、70名程度に減り、食料が無くなり、村落で残飯を恵んでもらう有様となり、仲間を探している途中で再度伏兵狙撃にあって部隊は四散した。数名で苦労して豆満江に戻ってきて、本人の言うところの「敗軍の将」として生還した。

1909年正月、同志12名[注 12]と共に「断指同盟」を結成して薬指を切り(指詰め)、その血で大極旗の前面に「大韓獨立」の文字を書き染めて決起した[15]。大東共報(海朝新聞)の李甲が友人であったので、3月21日付紙面に安應七名義で寄稿し、大韓帝国の国権回復のために同胞に団結を訴えた[16]。国内外に同志を派して情勢を探り、同年9月頃、伊藤博文を暗殺することになった[17]

伊藤博文暗殺事件

準備

明治42年(1909年)10月10日から15日の間、大東共報社を安重根・禹徳淳(医師)・曹道先の3名が訪問して、伊藤博文暗殺を議論し、活動資金を無心した。ロシア人社長ミハイロップは若干の金を渡し[18]、寄稿文に共感していた編集長李剛により軍資金の100円[注 13]を借ると、安重根は禹徳淳と1909年10月21日(陰暦9月8日)朝にウラジオストク(浦潮)を出発し、10月22日、ハルビン市(哈爾浜)に到着した。両名はそれぞれブローニング社製のピストル、6連発と7連発を携行していた[注 14]。途中ボクラニチナーヤで下車して、劉東夏にロシア語通訳として同行を頼んだが、彼には計画は伝えなかった。この日、禹と劉と共にハルビン駅周辺を下見して記念撮影。列車の到着時刻などを確認した[6]

ハルビンでは曹道先と合流。金成白(金聖伯)[注 15]の家に泊まった[18]。旅費がすでに30円しかなかったので、部外者の金より50円借りた。10月23日、妻子を迎えにいくと劉東夏には言い[18]、彼を残して3名で蔡家溝に向かった。24日、安は単独行動し、電報で大東共報の李剛に借金50円の返済を頼み、さらに1,000円送金してくれるように頼んだ[19]。同じく電報でハルビンの劉に伊藤の動向を問い合わせたが、内容が要領を得ないものだったので、禹徳淳と曹道先を蔡家溝駅で見張らせるために残して、25日(陰暦12日)に安だけがハルビンに戻った。結局、安は同地の新聞を見て翌日に伊藤が列車で来ることを知って、1人で決行することになった。安と劉はこの日は停車場に泊まった。安は劉より6円と金時計を貰い、逃走時に備えて、劉を500メートル程離れた場所に馬車で待機させた[18]。朝7時に停車場に姿を現し、安はさらに2時間喫茶店で時間を潰して列車の到着時刻を待った[20]

決行

事件直前の伊藤とココツェフ
伊藤公遭難当時の見取図 (明治42年11月4日付の報知新聞掲載)

10月26日、伊藤博文公爵は当時枢密院議長(同年6月に韓国統監を退任。後任の統監は曾禰荒助)で、満州朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するために、外交団を連れてハルビン市に赴き、午前9時、哈爾浜駅に到着した。

ハルビン駅はロシアが利権を持つ東清鉄道の駅で、多数の路線があり、京浜線を通じて南満州鉄道の特別列車も入ってこれた。当時の満洲はまだ清国領であったが、日露戦争の結果として露清密約は破棄されたものの、路線と駅構内はロシアに管轄権があった。長春駅からは東清鉄道民生部部長アファナーシエフ少将や同営業部長ギンツェらのロシア側接待員も同乗して出迎えていた。伊藤・ココツェフの会談が市内に席を設けずに列車内で設定された背景には同地の治安の悪さがあった。

ココツェフは予定通りにロシア側の列車で先に到着して待っており、伊藤は日本側の列車車内を訪れたココツェフの挨拶を受けた。車内で20分ほど歓談した後、ココツェフがロシア側の列車に宴の席を設けていると招待したので、伊藤はこの招待を受けて、議員室田義文[注 16]と議長秘書官古谷久綱も列席することになった。列車を移る際に、ココツェフは伊藤に敬意を表すためにロシア兵を整列させたので閲兵してもらいたいと言い、伊藤は平服であったために一度辞退したが、ココツェフが重ねて希望したので一行は駅ホームに出て、整列したロシア兵の閲兵を受けることになった。

構内には清国兵もおり、外国領事や在留日本人の歓迎団なども控えていた。伊藤らが列になってロシア要人らと握手を交わしていたところに、群衆を装って近づいていた安重根が、ロシア兵の隊列の脇から手を伸ばし、10歩ほどの至近距離から拳銃を発砲した。彼は7連発銃の全弾を乱射した。自伝によれば、安は伊藤の顔を知らず、「顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人」を伊藤博文であると思い、その人物に向けて4発を発砲した。しかし人違いで失敗したとあっては一大事と考えて、「その後ろにいた人物の中で最も威厳のあった人物」にもさらに3発連射したと言う[21]。ただし事件直後の古谷秘書官の電報では、7連発銃のうち6発が発砲されたと報告されている[22]。(異説は下記

伊藤には3発が命中した。伊藤を先導して前に立っていた哈爾濱総領事の川上俊彦[注 17]は、身を翻した際に銃弾が右腕から腹部に入り重傷を負ったが、この1発と合わせて4発が最初の連射であろう。伊藤のすぐ後ろにいて多くの弾丸を受けた[注 18]室田義文は奇跡的に軽傷であったが、紳士然としていた室田は伊藤に間違えられた可能性がある。室田を外れた流れ弾が、その後ろにいた宮内大臣秘書官森泰二郎[注 19]の右腕から肩にかけて通り抜けて軽傷、さらに満鉄総裁の中村是公の衣類、同理事の田中清次郎の右の靴も、それぞれ貫通した。

狙撃直後、安重根は捕えようとしたロシア兵に向けて発砲したともいう[23]が、周りにいたロシア兵に地面に引き倒され、その際にピストルを手から落とし、その場でロシア官憲に逮捕された。停車場の一室に連行される際に、安はロシア語で「コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー!(Корея! Ура! / 韓国万歳)」と大声で三唱して叫んだ。後に供述したところによると、朝鮮語ではなくロシア語を用いたのは「世界の人々に最もわかる言葉を選んだ」ためであったと言う。

伊藤は胸・腹部に被弾して「三発貰った、誰だ」と言って倒れた。中村是公(または室田義文)がすぐに駆け寄って伊藤を抱きかかえ、ロシア軍の将校と兵士の介助で列車内に運び込んだ。同行の宮内庁御用係で伊藤の主治医小山善が治療にあたって止血を試み、歓迎のために駅に来ていた成田十郎ら日本人医師2名、ロシア人医師1名がこれを手伝った。古谷秘書官は本国に電報して凶報を、桂太郎総理と伊藤夫人に伝えた。伊藤は少しブランデーを口にして、しばらく意識があった。犯人は誰かと聞き、ロシア官憲からの報告でそれが朝鮮人だと聞いて「そうか、馬鹿な奴だ」と一言、短く言った[24]。伊藤は森も被弾したと聞いて心配していたが、森の傷は軽傷であり、対して伊藤のものはすぐに助からぬとわかる重傷。桂内閣に提出された小山の診断書によると、3ヵ所の盲管銃創でうち2つが致命傷だった[25]。第1は右上膊中央外面よりその上膊を穿通(貫通)して第七肋間に向かい、恐らく水平に射入したもので、胸内に出血が多く、恐らく弾は左肺の内部にあるとされた。第2は右肘関節外側よりその関節を通じて第九肋間に入り、胸腹を穿通し、左季肋の下に弾を留めていた。第3は上腹部中央において右側より射入し、左直腹筋の中に留まっていた[26]。伊藤は次第に衰弱して昏睡状態に陥り、約30分後に死亡した。

身柄引き渡し

暗殺事件の発生にロシア側は驚愕した。ココツェフはまず電報局に急ぎ、電報でナポリに外遊中だった皇帝ニコライ2世とペテルブルクの駐ロシア大使本野一郎に急報した後に、11時15分ごろ、日本側の要請で伊藤に最後の別れをするために特別列車に戻ってきた。ココツェフは少々取り乱していて、随員に犯人の詳細と謝罪とを伝えると、遺骸の前に跪いて哀悼の意を表した。

日本側はできるだけ早くハルビンを離れることに決め、中村がロシア側と交渉して列車をそのまま長春に向けて出発させることを了承させた。11時40分にはハルビンを発車して午後4時頃長春に到着。そこから満鉄で大連に向かった。早くも10月28日午前11時に伊藤の亡骸は大連港から、イギリスのキッチナー元帥を歓迎するために来港していた軍艦秋津洲に載せて、急ぎ横須賀に送り出された。このため大連においては、キッチナーも清の東三省総督錫良と共に、大連の停車場にて、伊藤に弔意を示す機会があった。

一方、満州鉄道関連施設で捜索権を持っていたロシア官憲は、すぐに背後関係を調べて20名余を尋問し、8名を新たに拘束した。逮捕したロシアではこれらを韓国国籍者と断じて、日韓協約により韓国人の管理指揮権を持つ日本の管轄として即座に日本当局への送致を決定した[27]。安重根ら9名は結局ロシア公館に2日間拘留されたが、日本領事館に移送されて(後述する法律の定めにより)領事官による形式的な取り調べを受けた。前10月27日に外相小村壽太郎が本件を関東都督府地方法院に送致する命令を出していたので、そこからさらに旅順の日本の司法当局に引き渡された。

このように日露間の協力がスムーズにいったのは事前の取り決めがあったからである。2年前の1907年、金才童(キム・ジェドン)がハルビンで日本人を殺害した事件で、ロシアが裁判を主管する権利を主張したことがあり、このときに小村外相が、第二次日韓協約(1905年)によって在外韓国人の保護は日本の管轄になったこと、同じく同条約により日本を介する以外で対外交渉できない韓国政府とは協議する必要はないことを、川上総領事に訓令して対処させ、金を引き渡させたことがあった[28]。翌年、日本は明治四十一年法律第五十二号(満洲ニ於ケル領事裁判ニ関スル件)を制定して国内法を整備し、同法第三条「満州に駐在する領事館の管轄に属する刑事に関し国交上必要あるときは外務大臣は関東都督府地方法院をして其の裁判をなさしむる事を得る」の規定[29]により裁判管轄の行政手続きをはっきりと定めていた。清国は韓清通商条約により韓国人に治外法権を認めていたので、国内で起きた事件であったにも関わらず、一切干渉することはできなかった。すなわち大韓帝国の委任により日本の主管で裁判は処理されることになるわけである。

他方、事件は劉東夏も驚愕させた。彼は安が暗殺を決行したことを知ってその場から逃走し、酷く狼狽して金氏の家に帰ってきて、冷水を飲んで精神を落ち着ける必要があった[18]。しかし前述のように彼もまた芋蔓式にロシア官憲に逮捕されている。

留置中

安重根は、ピストルのほかに短刀も所持しており、逮捕時に押収された。連行される際には伊藤は生きていたので、安は暗殺の成否を知らず、留置中しばらくして伊藤の死亡を知った。安は暗殺成功を神に感謝して十字を切り「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べたという[4]

一方、新聞は伊藤の暗殺をトップニュースで伝え、速報では兇漢は「二十歳ぐらいの朝鮮人」とし、第一報(28日付)で犯人の氏名は「ウンチアン[30](またはウンチヤン[31])」として平壌出身の31歳と報じた。一部の新聞はこれに「雲知安」の当て字をして、後に2度偽名を用いていたと伝えているが、偽名を使っていたわけではなかった。当時(朝鮮)統監府の警視であった相葉清[注 20]の回顧によれば真相はこうである。1909年10月26日夜遅くに事件の報せがあり、「ウン・チアンという朝鮮人が伊藤統監[注 21]を殺した。彼に関する調査記録を送れ」との指令を受けた。統監府には非常招集がかかり、深夜に幹部会議が開かれたが、不逞鮮人名簿に「ウン・チアン」という氏名はなかった。そもそも「ウン」という姓の朝鮮人が国勢調査では記録がなかったのだと言う。そうするうちに1人の課長がロシア検察が調査した名前であれば洋式に名・姓の順で表記したのではないかと指摘した。なるほど「アン・ウンチ」と読んでみると似た発音の「アン・ウンチル(安應七)」が名簿から出てきて、安應七が安重根なる者であることが判明したのだと言う[6]。日本の新聞が犯人を安應七とするのは詳報が入った11月2日付前後、これが安重根に代るのは予審が始まって被告の姓名が公示されてからであった。

新聞で事件を知った洪神父は、大韓帝国のカトリック教会からは大罪を犯した安重根にサクラメントを施してはならないという命令が出されたにもかかわらず、議論において殴り合うほど[32]懇意であった彼のために予審中に旅順を訪れて、心の支えとなった。安は収監中に官吏に対して、應七ではなく自分を洗礼名「多黙」と呼ぶよう主張したといわれる。




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注釈

  1. ^ a b c 当時の朝鮮では女子名を記録する習慣がなかった。姓のみ。
  2. ^ 旧暦では1879年7月16日。
  3. ^ 韓国併合の方針は、すでに暗殺前に日本で閣議決定していた。(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 1909年7月6日)。伊藤には朝鮮は保護国に留めるべきという日露戦争以前からの腹案があったが、決定に至る過程で主張を取り下げており、閣議決定にも反対しなかった。このため併合と伊藤の死には直接の因果関係はないが、一進会が安の裁判中の1909年12月6日に日韓合併運動を起しており、併合をより早く実現するために事件を政治的に利用する動きがあった。
  4. ^ 夏目漱石も元首相の暗殺には驚愕しつつも、安は独立活動家であるとその動機を判断していた。被害者の1人である中村是公は漱石の親友でもあった。
  5. ^ 上から重根・定根・恭根。女子名は不詳。
  6. ^ 兄弟は六男三女。上から泰鎮・泰鉉・泰勲・泰健・泰敏・泰純。三人の姉妹は女子名は不詳。
  7. ^ 李氏朝鮮末期の政治家。当時は度支部大臣だった。
  8. ^ Nicolas Joseph Marie Wilhelm
  9. ^ 自伝には、少なくともこの頃に国内で義兵闘争に加わっていたとは一言も書かれてない。
  10. ^ a b 本多熊太郎のいう金某と同一人物らしい。自伝では「金斗星」の漢字で書かれている。
  11. ^ 自伝にははっきりとは書いてないが、これが後に安が主張する「大韓義軍」である。自伝を読む限りにおいても、咸鏡北道からの退却ですでに解散状態であり、事件時にはすでに軍隊どころか武装勢力としての体裁もなしていない。
  12. ^ 日本の新聞では14名。
  13. ^ 1909年当時の100円は、2013年時点換算で12万円ぐらいの価値。
  14. ^ FN ブローニングM1900とする説もあるが、証拠物件とは長さが異なり、コルト・ブローニングM1908とする説もある。安重根と禹徳淳が持っていたものは同型の色違いで、共に禹が用意したもの。逮捕時に曹道先が所持していたものは別の型。
  15. ^ 劉東夏の妹が金成白の弟の嫁という。
  16. ^ 長州閥の1人で伊藤の旧友。釜山領事やメキシコ公使も務めた外務官僚ながら、井上馨の口添えで1900年に第百十国立銀行の頭取に就任。1909年には随行員として伊藤に同行していた。1934年に貴族院議員
  17. ^ 新潟県出身。旧村上藩士の子。東京外国語学校ロシア語科卒でロシア語に堪能で、外務省のロシア関係担当。旅順開城の際には乃木大将とステッセル中将との通訳も務めた。伊藤に同行した際も通訳兼務で、事件では銃弾の破片が体内に残り、後日手術を受けたが回復した。
  18. ^ ただしほとんどは衣類に穴を開けただけで、室田自身は小指に怪我をしたのみだった。
  19. ^ 森槐南は、官僚や政治家ではなく、漢詩人であり、漢詩の好きな伊藤の相手をするために秘書官となっていた。このハルビンへの道中でも伊藤と二人で作詩している。
  20. ^ 後に間島総領事館警察部長。
  21. ^ 回顧では、統監となっているが、前述のようにすでに四か月前に伊藤はこの職を退任していた。
  22. ^ 日本の新聞紙面では何人かの漢字が間違っていた。出典の新聞にある氏名は、曹道元→曹道先、禹連俊→禹徳淳、卓公套→卓公圭、金盛玉→金成玉、柳江露→劉東夏が正しい。
  23. ^ 陸軍中将真鍋斌の養子、実父は磯村応。両名とも元長州藩士で長州閥に属す。男爵。当時、関東都督府地方法院判官。
  24. ^ 七カ条ノ条約のことで、一般的にはこのような呼び方はしないが、前項の五カ条を合わせて十二カ条と考えていたようである。
  25. ^ 儒教思想によるもので文字通りの意味は「正義のために起こす兵」のこと。13世紀のモンゴル軍侵攻や16世紀の豊臣秀吉の文禄慶長の役など、特に外敵に対して民衆が非正規軍として蜂起することを朝鮮では義兵と呼ぶことが多い。
  26. ^ しばしば”正義の兵士”の意味で使われるために、単にテロ行為の正当性を述べているだけか、実在する組織をさしているのか解し難いところで、彼の論説のなかでもその部分は極めて曖昧である。
  27. ^ これは日本人の社会主義者等の裁判でも同じであり、当時の法廷の一般的な慣行。特に安だからというわけではない。
  28. ^ 曹道先も通訳であり計画は知らなかったと劉東夏と同じ供述したが、実際には彼は大東共報での議論の場に参加しており、計画は知っていたし、逮捕時には武器も所持していた。
  29. ^ 参考文献に記した自伝と同じもの。日本では「獄中記」、韓国では「安応七歴史」と呼ばれている。
  30. ^ 処刑日前の2、3日は何も書かなかったと伝えられる。
  31. ^ 朝鮮の独立運動家で歴史学者。大韓民国臨時政府の一員だったが、路線対立で後に脱退。より過激なテロ組織の義烈団に加わり、朝鮮革命宣言を書いた。日本では完全に無名だが、韓国では高名。
  32. ^ 『父のいた日々』などの著作がある。
  33. ^ ハーグ条約では単に非戦闘員だが、後のジュネーヴ条約にはさらに厳しい規定と禁止事項がある。
  34. ^ 安が拳銃を隠し持って群衆にまぎれて接近したのならそれも違反で、戦闘員と認めるのは難しい。
  35. ^ 日本が1人の朝鮮人を殺せば10人の義兵が決起する、10人の朝鮮人を殺せば100人の義兵が決起するという意味で、自分を含めた自己犠牲によってさらに同胞が決起しするだろうという趣旨の発言。
  36. ^ 1人が自らの命を捨てて1人の要人を暗殺すれば、万民が救われる。一つの殺人で、一切を救わんとする一殺多生という教え。
  37. ^ 大韓帝国総理李完用の暗殺未遂犯。
  38. ^ 山本権兵衛が反対したという時期や経緯は詳しく書かれていない。
  39. ^ 金九の長男の金仁は、安重根の姪の安美生と結婚しており、姻戚関係にあった。このために安俊生が内鮮一体に賛同したことは、彼とっては(金九の家長的権威の無視であって面子を潰されたことになるので)家族的な大問題であり、許されざる行為であった。
  40. ^ 満州事変時に陸軍大臣。後に関東軍司令官。戦後、A級戦犯として終身刑になった。内鮮一体、創氏改名は彼の代で提唱されたもの。個人的には穏和で誰にでも人当たりの良い人で、安俊生らとの面会でも気さくに振る舞ったことが記されている。

出典

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    新聞記事の後半に「不当性自認」とあるが、実際にはそのようなことはなかった。第二次日韓協約があるので、韓国側にできることはなく、実行上の支障とは韓国側の法整備がなかったことをさす。
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