運用の推移
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1989年3月11日改正から「ひかり」で運用を開始した。主に朝に山陽新幹線エリアを出発し午後に東京駅に到着する列車、夕方に東京駅を出発し山陽新幹線エリアに到着する列車に運用した。最盛期には1日16本(うち東京 - 博多間運転は13本)を運転していた。 その後1993年3月18日ダイヤ改正で300系「のぞみ」が1時間1本で運転するようになると需要の減少に伴い100N系の博多乗り入れを順次削減、主に東京 - 広島間の運転に短縮した。その後2000年3月10日をもって食堂車の営業は休止、山陽新幹線博多開業前年の1974年から始まった新幹線食堂車の歴史は終了した。その後、700系7000番台の増備により順次置き換えられ、2002年5月18日で定期列車の運用を終了。同年11月23日の「ひかり563号」(新大阪発博多行き:V2編成)の運転をもって営業運転から離脱した。そして11月25日にV2編成が編成名削除となり、V編成が消滅した。 詳細は「グランドひかり#「グランドひかり」さよなら運転」を参照 運用は東京駅 - 博多駅間の「ひかり」を中心に使われ、東海道新幹線内運行の「こだま」には最後まで使われなかった。 V編成 編成表 ← 博多 東京 → 号車1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 形式121形 (Mc) 126形 (M') 125形 (M) 126形 (M') 125形 (M8) 126形 (M') 179形 (Tsd) 168形 (T'dd) 179形 (Tsd) 178形 (T'sd) 125形 (M7) 126形 (M') 125形 (M) 126形 (M') 125形 (M) 122形 (M'c) 座席普通車 グリーン車普通車 食堂車 グリーン車普通車 普通車 編成V13001 3001 3001 3002 3801 3003 3001 3001 3101 3001 3701 3004 3002 3005 3003 3001 V23002 3006 3004 3007 3802 3008 3002 3002 3102 3002 3702 3009 3005 3010 3006 3002 :: : : : : : : : : : : : : : : : V83008 3036 3022 3037 3808 3038 3008 3008 3108 3008 3708 3039 3023 3040 3024 3008 V93009 3041 3025 3042 3809 3043 3009 3009 3109 3009 3709 3044 3026 3045 3027 3009
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運用の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 17:18 UTC 版)
本来は各駅停車用として40両が製造された系列であるが、運用開始当初より南大阪線、長野線、御所線の急行や準急でも使用されていた。運用開始当時は全車が天美検車区に配置された。その後天美検車区から古市検車区に全車転属している(現在は天美検車区への車両の配置自体がなくなっている)。 南大阪線から旧型車が撤退し、また本系列も減速度が下げられ、同時に抵抗器の容量を増やして吉野線への入線が可能となり、さらに他のカルダン駆動車との連結が開始された1969年頃からは、1 - 2両の短編成ユニットの特性を活かし、大阪阿部野橋 - 古市間の沿線人口の急激な増加に対応すべく、主に3 - 4両編成が基本の6000系列(6000系・6020系・6200系)の増結用車両としての運用に、また、道明寺線に残っていた6411系の運用終了後(同系の運用終了後ワンマン化までの間は、2両編成であれば形式を限定せずに運用されていた)には、時折同線の運用にも就くこととなり、その役割を大きく変えた。 このため各駅停車に限らず大阪阿部野橋 - 古市・河内長野間を中心に急行や準急の増結車としての運用に入ることも多くなった。 前述の通り1969年に減速度を下げ抵抗器の容量を増大する工事を行うまでは吉野線に入線することはなかった。
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運用の推移
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「JR西日本183系電車」の記事における「運用の推移」の解説
1990年から順次183系化改造を施工し窓下赤細帯が追加された。1991年10月1日現在では4両編成7本+増結用MM'ユニット4組8両の36両 が「北近畿」「ほくせつライナー」(大阪 - 篠山口)で運用された。 1991年10月1日現在の編成表編成番号 ← 福知山 1号車 2号車 3号車 4号車 形式クロハ183 モハ182 モハ183 クハ183 竣工 G1801 801 801 801 1990.6.16 G2802 802 802 701 1990.7.23 G3803 1801 1801 751 1991.2.13 G4804 804 804 702 1990.10.25 G5805 1802 1802 703 1991.3.15 G6806 1803 1803 752 1991.7.9 G7701 803 803 851 1990.9.22 GU1 851 851 1991.5.31 GU2 852 852 1990.11.9 GU3 853 853 1991.11.30 GU4 854 854 1991.4.24 形式 モハ484 モハ485 GU5 89 89 *G編成2号車は、車掌室組み込みの800・1800番台が、増結ユニットのモハ182形には850番台が使われた。
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運用の推移
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「国鉄EF58形電気機関車」の記事における「運用の推移」の解説
1960年以降、昼行の特急・急行列車の分野で電車列車が台頭してくると、本形式は夜行列車を主な運用とするようになった。ブルートレイン牽引の本格的後継機であるEF65形500番台(P形)が登場した後も、寝台列車運用には盛んに用いられた。 最高許容速度こそEF65形に僅かに劣った (EF58形=100km/h, EF65形=110km/h) が、全界磁定格速度では著しく勝っており (EF58=68.0km/h, EF65=45.0km/h) 、平坦線での高速域に限ればその牽引力はEF65形とも大差なかった。「特急型」とされたEF65-500, -1000にしても一般型とモーター、ギヤ比が異なる訳ではなく、20系客車および10000系貨車をけん引するためのブレーキがついているだけのことである。したがって110km/h運転が可能な区間の少ない路線や急行列車以下で主力だった旧型客車の牽引(最高速度95km/h)では、1970年代に至っても十分に実用機たり得た。なお、1950年代中期の速度試験でEF58形は123km/hの最高速度に到達してもいるが、営業運転ではそこまでの高速は出さなかった。 1960年代以降の国鉄は、高出力で貨客両用として用いることのできる新系列電気機関車を大量増備したが、これらは貨物列車牽引機としての牽引力をも満たせる汎用性を重視したため、高速性能は必ずしも十分に高くなく、旅客列車の高速牽引能力においてEF58形を上回るものはなかった。日本で「旅客列車牽引のみ」を念頭に、高速性能最重視で設計された機関車は、EF58形以降量産されていない。「貨物列車牽引」を含めても国鉄形ではEF66形が該当するのみである。高速旅客列車対応形式としてはEF61形0番台が存在するものの、本形式の補完用として18両が新製されたが、駆動機構や車体構造に問題が多かったことから製造が中止され、EF58形より先に運用を終了している。 新性能世代で本形式と同等の高速性能を備えた機関車の出現は、1968年から量産されたEF66形まで待たなければならなかった。しかし、EF66形にしてもその開発目的は「重量・高速貨物列車(特急貨物)の牽引」であり、国鉄末期に至ってようやく寝台特急運用に充当されるまでは貨物列車専用機であった。 また、新系列の直流電気機関車でも多数派であるEF60形とEF65形は、一般型客車牽引に必要な暖房供給装置、つまり暖房用蒸気発生ボイラーや電気暖房用電源を搭載しておらず、1980年代初頭まで主要幹線で運行されていた旧型客車の暖房サービスの見地から、本形式を用いる必然性もあったのである。 それでも1978年以降は老朽化が顕著となって廃車が生じ、国鉄末期の荷物列車牽引運用を最後に、ほとんどが廃車された。荷物列車運用で重用された背景にも、暖房供給能力と高速性能の両立というEF58形の特性が存在していた。東海道・山陽本線の定期列車からはEF62形に置き換える形で1984年3月に撤退、1985年3月には東北本線の定期列車から撤退し、最後まで残った紀勢本線の定期列車も1986年3月に撤退した。 しかしその後も、臨時列車などに僅かに運用例が見られた。JRに引き継がれたうちの89号、122号、157号は動態保存機(詳細は下記参照)であったが、しばしばEF64形・EF65形の代替車として運用された。牽引対象は主に12系客車・14系客車・24系客車、またカヤ21形を使用する20系客車で、EF58形の暖房設備は必要なかったが、長大編成の臨時列車が客車で運転されることは稀になっていたため、EF58形でも性能的に充分なことと、ファンサービスを目的としたことによる充当である。また東日本旅客鉄道(JR東日本)の水戸運転所にスロ81系和式客車1編成が継承されたが、冬季は暖房用電源の外部供給が必要だったため、同編成が直流電化区間で運用される際には、89号が充当されることが多かった。また同社が所有していたジョイフルトレイン『サロンエクスプレス東京』も14系のため、機関車の暖房装置は不要であったが、準指定機(特に61号機)であった。
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運用の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 22:17 UTC 版)
1985年10月1日から、東京駅 - 博多駅間の「ひかり」1往復(X0編成)で営業運転を開始した。X編成の量産車は1986年夏から「こだま」で順次営業を開始し、同年11月のダイヤ改正から食堂車を組み込んだフル編成となり、順次運用列車が増やされた。 国鉄分割民営化後の1988年3月13日からは、食堂車に代わってカフェテリアを組み込んだG編成が、東京 - 新大阪駅間の「ひかり」3往復で運用を開始した。1989年3月11日からは、食堂車を含む2階建て車両を4両組み込んだV編成が、東京 - 博多間の「ひかり」4往復で運用を開始した。また、G編成が新大阪以西でも運用されるようになった。100系を「ひかり」運用に投入したことで、0系H・NH・N編成を淘汰した。 1992年3月14日改正までに16両編成66本が揃った。その後300系が「ひかり」運用でも使用されるようになってからは「こだま」運用にシフトされ、東海道区間に残る0系を淘汰した。 2000年10月1日改正では、JR東海所有のG編成が定期「ひかり」から撤退し、臨時「ひかり」と「こだま」で運用されるようになる。また、山陽区間で「こだま」として運転されるP編成(4両編成)が登場した。P編成の当初の運用区間は姫路駅 - 博多間であった。 2003年8月22日の「ひかり179号」で定期「ひかり」運用から撤退した。同年9月16日の「ひかり309号」(G47編成)をもって100系は東海道新幹線から完全に撤退した。ただし、新大阪駅 - 鳥飼基地間の回送列車は2010年3月12日まで走行していた。2003年度中にJR東海所属の100系はすべて廃車になった。 詳細は「#東海道新幹線からの撤退と16両編成運用の終了」を参照 2003年10月1日改正以降、100系の定期運用は山陽区間における「こだま」のみとなった。K編成は新大阪 - 博多間で運用されるが、P編成の運用区間が岡山駅 - 博多間に縮小された。 0系引退に伴う2008年12月1日のダイヤ修正以後、500系V編成の投入や「こだま」自体の減少によって一部編成に廃車が出ていたが、2011年3月12日改正で運用区間を岡山 - 博多間に縮小し、P編成は運用を離脱した。なお、鳥飼基地での夜間滞泊運用は2010年3月13日改正で消滅している。2011年12月1日にはさらに運用が縮小され、朝晩を中心に5本のみで運用された。 最末期は山陽新幹線で運転される「こだま」と博多南線「特急」に充当されていた。具体的には、JTBパブリッシング発行の時刻表では「100系」、交通新聞社発行の場合は「6両編成グリーン車なし」、JR発行の無料時刻表の場合は、6両編成の列車のうち、全席禁煙でない列車に充当されていた。 2012年3月14日をもって定期運用から離脱し、同月16日のさよなら運転「ひかり445号」(K55編成)をもって営業運転から撤退した。 詳細は「#100系さよなら運転」を参照
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