運用の実情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 16:10 UTC 版)
1942年から独ソ戦の終わる1945年5月までに、約600個の懲罰部隊が編成された。懲罰部隊に送られた人間は、総計で42万7910人にものぼった。ただし、この数字は、第二次世界大戦中のソ連の従軍者総数3450万人との対比で評価する必要がある。 懲罰歩兵大隊・懲罰歩兵中隊の場合、配属期間はおよそ1ヶ月から3ヶ月とされた。うち最長の3ヶ月を与えられるのは原則として死刑判決を受けた人間に限られたが、死刑は第227号命令違反への標準的な刑罰であった。標準的な懲役刑との間には一定の交換比率が存在した。懲罰歩兵部隊に送られた者は、戦傷を負って「血で罪が浄化された」か、英雄的戦果をあげれば減刑や原隊復帰が認められた 。もっとも、建前上は戦果によって勲章を受け取り名誉回復できるとされていても、実際にはその後も反体制的人物であるとして疑われ続けた。懲罰歩兵のうちには、戦車の車外に搭乗するタンクデサントの任務に回された者も多い。 空軍の懲罰戦隊は、戦傷による減刑が得にくいという点で、懲罰歩兵大隊に比べて不利であった。なぜなら、空戦で負傷することは、そのまま戦死につながることが多かったからである。懲罰戦隊のパイロットは、通常は戦死するまで出撃を割り当て続けられた。なお、飛行勤務手当も支給されなかった。元ソ連空軍パイロットArtiom Afinogenovは、スターリングラード戦中の懲罰戦隊について、次のように回想している。「懲罰戦隊のパイロットは常にもっとも危険な地域を担当させられた。ボルガ橋がその典型で、そこを渡れば敵戦車の大群が飛行場に押し寄せるのは明らかで、スターリングラードの命運がかかった場所だった。こうした危険目標を攻撃するのは懲罰戦隊だけだったが、こうした危険任務を行っても考課上はまったく考慮されなかった。飛行任務につき続け、ドイツ兵を殺し続けても、何も起きなかったとみなされ、個人の出撃記録にも残されなかったのだ。懲罰から解放される方法は戦傷するしかないが、軍用機のパイロットにとっては、初めての負傷が往々にして最期の傷、致命傷なのである。」 また、空軍懲罰戦隊の後方銃座などの銃手は、戦死率がきわめて高い。彼らは規則上は10回の生還の後に解放されるはずだったが、往々にしてその前に地雷処理部隊に転属させられてしまった。 地雷処理部隊の平均寿命は、ただでさえ短い懲罰大隊の歩兵と比べても短かった。公的な見解では、地雷処理部隊の将兵は役立たずで、通常の戦力よりも消耗して問題ないものであった。彼らは敵の防護が特に厳重な箇所に対して突破可能か試すのに使われ、地雷原を歩いて突破しての「地雷除去」をさせられた。また、敵の強度を測定するために威力偵察として突撃させられたり、囮部隊にされたりした。 懲罰部隊の戦闘時には、NKVDやスメルシなどの督戦隊が後方に配置された。督戦隊には元懲罰部隊兵士や、懲罰部隊送りを避けるために志願した兵も多かった。彼らは、懲罰部隊の兵が退却しようとすれば「スパイ」とみなして即座に射殺し、ドイツ軍の反撃で止められるまで進撃を続けさせた。この結果として懲罰大隊はどこに行ったとしても、敵の地雷や銃弾・砲弾で死ぬまで進撃を続けなければならなかった。もし生き延びて目的を達成しても、彼らは再び集められて次の攻撃で用いられた。なお、赤軍の通常部隊を督戦隊として起用することはあまりうまくいかず、実例は少なかった。 懲罰部隊の指揮官や衛兵などの管理要員としては、通常の将兵が配属された。非戦闘中も、衛兵中隊はNKVDやスメルシに監督されながら厳重に懲罰兵の管理を行った。危険で不愉快な任務の代償として、管理要員らは高給をもらい特別な恩給を与えられた。 戦争中、ソ連の懲罰部隊は広く利用された。1944年までは、ソ連軍の新たな攻勢においては必ず懲罰大隊が露払いとして先陣を切らされ、たいていは全滅した。懲罰部隊に配属された後になんとか生き延び、活躍して名誉回復と昇進を遂げたとされる稀有な例としては、ウラジーミル・カルポフ(ru)が挙げられる。カルポフは冤罪により懲罰中隊に送られたが、最終的には親衛大佐となり、ソ連邦英雄として表彰されている。
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