文筆生活
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「エドガー・アラン・ポー」の記事における「文筆生活」の解説
ポーはジャーナリズムの活発なボルティモアを生活の場に定め、クレム叔母の家に居候をしながら(実兄のウィリアム=ヘンリーは結核で1831年8月に死去していた)短編小説の執筆を始めた。1832年の1月、『サタデー・クオリア』誌に「メッツェンガーシュタイン」が採用され、以後同誌に「オムレット侯爵」「エルサレムの物語」「息の喪失」「バーゲンの損失(のち「ボンボン」として改筆)」が掲載、1833年からは『サタデー・ヴィジター』誌に詩や短文を掲載した。この頃ちょうど同『サタデー・ヴィジター』誌が短編と詩の懸賞を打ち出したため、ポーは『フォーリオ・クラブ物語』と名づけた短編6編と詩を投稿、このうち短編「壜の中の手記」が最優秀作に選ばれ賞金50ドルを獲得した。 さらにポーは、このとき審査員を務めていたボルティモアの著名な政治家であり作家であった、ジョン・P・ケネディと親しくなり、彼の斡旋でリッチモンドの『サザン・リテラリー・メッセンジャー』誌に作品を掲載するようになった。さらにその後同誌の編集長が退職すると、ケネディの推薦で『メッセンジャー』誌の主筆編集者として迎えられることになった。しかしこの頃、ポーはまだ少女であった従妹のヴァージニアへ求婚し、それを叔母マライアに拒絶されていたことから飲酒の量が増えるなどして心情が荒れており、『メッセンジャー』誌の職を短期間で辞してしまった。しかし度重なるポーの説得にマライアが折れ、1833年9月にボルティモアの郡裁判所から結婚許可を受けた。当時ポーは26歳、ヴァージニアはまだ結婚不可能な13歳1か月であったが、結婚誓約書には21歳と記されていた。 その後ポーは『メッセンジャー』誌の創刊者トマス・ホワイトに再就職の希望を伝えて受け入れられ、10月に妻となったヴァージニアと叔母マライアとともにリッチモンドに移り住んだ。『メッセンジャー』主筆としてポーは自作の短編を発表していっただけでなく、毎号広い分野におよぶ論壇時評を書き、また苛烈な作品評を行なって評判を取った。『メッセンジャー』はポーが主筆になったことによって、500程度だった発行部数が3500まではね上がり、南部の主導的な文芸雑誌の地位にまでのし上がった。仕事が軌道に乗ったことから、1836年5月にポーはクレム叔母やホワイト、トマス・クリーランド知事など9名を招いてヴァージニアとの公開の結婚式を挙げた。 『メッセンジャー』誌は好評を取り続けたが、しかしポーは実績に見合った昇給をしてもらえず、また編集に口出しがされ始めたことで創刊者のホワイトと不仲になり始めた。就職から1年経った1837年1月、ポーは『メッセンジャー』を辞し、2月末に家族を連れてニューヨークに移った。ここで編集の仕事をするつもりだったのだが、しかし依頼しておいた『ニューヨーク評論』編集のポストが不採用になり、代わりに以前『メッセンジャー』に2度掲載した長編『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の完成に力を注いだ。翌年7月に出版された『ピムの物語』はアメリカの20誌以上の新聞・雑誌に言及するなど話題作となったものの売り上げは伸びず、すでに収入減からフィラデルフィアに移っていた一家の生活はみるみる窮乏していった。 ポーは『アメリカン・ミュージアム』誌に「ライジーア」などいくつかの作品を発表したのち、1839年、喜劇俳優ウィリアム・バートンが創刊した雑誌『ジェントルマンズ・マガジン』に依頼され、週給10ドルでこの雑誌の編集者となった。ポーは『メッセンジャー』時代の編集の経験を生かしつつ、「ウィリアム・ウィルスン」「アッシャー家の崩壊」などの短編や詩を同誌に掲載していき、その傍らリー・アンド・ブランチャード社より初の小説作品集『グロテスクとアラベスクの物語』を同年9月に刊行した。25編からなるこの作品集は非常に多数の雑誌が書評を行なったが、評価は賛否両論であった。 その後バートンと編集方針などで対立したため、翌年6月にポーは『ジェントルマンズ・マガジン』を辞めるが、バートンが雑誌を弁護士ジョージ・グレアムに譲渡し新たに『グレアムズ・マガジン』が創刊されるとポーは新雑誌の編集者として迎えられた。こうして11月に創刊した『グレアムズ・マガジン』では「群集の人」「モルグ街の殺人」「メエルシュトレエムに呑まれて」などの短編のほか多数の評論を発表し、1年半後には『グレアムズ・マガジン』は発行部数3万7000部を誇る、アメリカ合衆国最大の雑誌へと成長した。なおポーは『グレアムズ・マガジン』時代の1842年3月には、渡米してきたチャールズ・ディケンズと面会を果たしている。 またこの間、ポーは雑誌の編集に携わりながら、自らも雑誌を創刊することを夢見て様々な画策を行なっていた。すでに『ジェントルマンズ・マガジン』時代に『ペン・マガジン』の名づけた自分の雑誌を構想しており、1840年には『スタイラス』と名を変えたこの雑誌の設立趣意書を発表したが、この雑誌はポーの生存中に創刊されることはついになかった。自分の雑誌の構想に腐心する一方、1842年1月には妻ヴァージニアが自宅でピアノを弾いていた最中に喀血、結核の最初の兆候であり、以後ヴァージニアの病状にも気を取られ、また酒の量も増えた。こうした事情でポーは『グレアムズ・マガジン』の仕事を休みがちになり、4月になると編集長の地位を『アメリカの詩人たちと詩』を出版したばかりのルーファス・ウィルモット・グリスウォルドに奪われてしまっていた。ポーは5月まで同誌に勤めた後、職を辞した。 『グレアムズ・マガジン』を去った後も、ポーは『ダラーズ・ニュースペーパー』の懸賞で「黄金虫」により100ドルの賞金を受けた他、「マリー・ロジェの謎」「落し穴と振り子」などの作品を各誌に発表し、1843年9月には作品集『散文物語集』を刊行するが、依然として生活は窮乏していた。新規まき直しを図るため1844年6月にニューヨークに移り、「軽気球夢譚」(『ザ・サン』紙にまるで実話であるかのように掲載され大当たりを取った)「早すぎた埋葬」「催眠術の掲示」などを発表していき、1845年10月には週刊誌『イヴニング・ミラー』の記者として迎えられた。1845年にポーが同誌に発表した詩「大鴉」は絶賛を博し、他誌にも次々に掲載されポーの文名を大いに高めたが、この詩の出版に対しポーに支払われた報酬はわずか9ドルであった。 1845年2月よりポーは『ブロードウェイ・ジャーナル』に職場を移し、自作を寄稿したほか文芸時評を担当した。同誌でポーはヘンリー・ワーズワース・ロングフェローを剽窃者として論難しており、ロングフェローの擁護者との間での論争に発展したが、この論争はポーの分が悪いままに終わっている。6月には作品集『物語集』を出版して予想外の売り上げを収めた。文名が高まるとともに雑誌経営への希望を依然として持ち続けていたポーは、12月に『ブロードウェイ・ジャーナル』の経営権を譲り受けたが、しかし資金繰りに苦しんだ結果わずか1ヶ月で手放さなければならなくなった(翌年に廃刊)。生活は窮乏し、1846年には妻を連れてブロンクス区にある木造家屋に転居した。1847年1月、ヴァージニアは貧苦の最中この小屋で息を引き取った。 この年よりポーは「散文詩」と銘うった壮大な宇宙論『ユリイカ』の完成に精力を傾けた。しかし翌年この論文をもとに行なった講演は明らかな失敗に終り、7月に刊行された書籍も売れ行きは伸びなかった。この頃、ポーは夜会で出合ったサラ・ヘレン・ホイットマン夫人や、講演で出合ったアニー・リッチモンド夫人と恋愛関係を持った。特にホイットマン夫人に対しては再三の求婚を行い、ポーが酒を絶つことを条件に9月に婚約が成立したものの、その後文学愛好家とバーで酒を飲んだことが夫人の耳に入り、このために婚約は破談となってしまった。1849年、ポーは仕事のために戻ったリッチモンドで青年時代の恋人で未亡人となっていたエルマイラ・ロイスターと再会し、再三の求婚の後に彼女と婚約した。
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文筆生活
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1949年(昭和24年)に夫の宣郎は大阪大学教授に招聘され一家は大阪へと移った。12月には次男の徹も生まれ、主婦として多忙な生活を送る一方で、以前愛読したマルクス・アウレリウスの『自省録』の翻訳書を創元社から出版した。1950年(昭和25年)に宣郎はペンシルベニア大学に招かれたが美恵子は子供二人とともに大阪にとどまりアテネ・フランセやアメリカン・スクールで語学を教えた。1951年(昭和26年)に宣郎は帰国し一家は芦屋に移り住んだ。結核に感染した次男の治療薬を闇市で手に入れるために、自宅での私塾やカナディアン・アカデミーでフランス語を、1956年(昭和31年)からは神戸女学院大学で非常勤講師として文学を教えた。1954年(昭和29年)に初期のガンが発見されラジウム治療を受けた。 1957年(昭和32年)に、長島愛生園におけるハンセン病患者の精神医学調査を開始した。この業績をもとに1960年(昭和35年)に大阪大学で学位を取得、神戸女学院大学の教授に任命され、さらに1963年(昭和38年)からは母校の津田塾大学教授に就任した。精神医学およびフランス文学などの講義を担当しており、芦屋の家から岡山県と東京を往復する生活を続けている。愛生園での研究や1958年(昭和33年)に京都でおこなわれたゴッホ展を見たことがきっかけとなって、後に『生きがいについて』を構成する文章を書き進めていった。1963年(昭和38年)にはアメリカで研究生活を送っていた宣郎のもとを訪れ、その帰途に同地におけるハンセン病施設および英仏の精神病施設を見学している。スイスではユネスコの政府代表となっていた兄の陽一からミシェル・フーコーを紹介された。 1965年(昭和40年)からは、長島愛生園の精神科医長に就任し、自宅から療養所へと通って治療にあたった。翌1966年(昭和41年)には、第二次世界大戦中に自殺したヴァージニア・ウルフの病跡を調べるため渡英し、夫のレナード・ウルフと面会した。二人はレナードの死まで文通を続けている。この年にみすず書房から『生きがいについて』が出版された。
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タルールは英語を用いて数多くの小説やエッセイを執筆している。最も著名な物は1989年に出版された『The Great Indian Novel』で、『マハーバーラタ』に範をとって独立運動が高揚するインドの情景を多面的に描き出している。彼の著作のほとんどはインドを舞台として扱っている。 タルールは数多くの文学賞を授与されており、その中には1991年に受賞したイギリス連邦文学賞が含まれている。
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