文筆生活とは? わかりやすく解説

文筆生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:37 UTC 版)

エドガー・アラン・ポー」の記事における「文筆生活」の解説

ポージャーナリズム活発なボルティモアを生活の場に定めクレム叔母の家に居候しながら実兄ウィリアム=ヘンリー結核1831年8月死去していた)短編小説執筆始めた1832年1月、『サタデー・クオリア』誌に「メッツェンガーシュタイン」が採用され以後同誌に「オムレット侯爵」「エルサレム物語」「息の喪失」「バーゲン損失(のち「ボンボン」として改筆)」が掲載1833年からは『サタデー・ヴィジター』誌に詩や短文掲載したこの頃ちょうど同『サタデー・ヴィジター』誌が短編と詩の懸賞打ち出したため、ポーは『フォーリオ・クラブ物語』と名づけ短編6編と詩を投稿このうち短編「壜の中の手記」が最優秀作選ばれ賞金50ドル獲得した。 さらにポーは、このとき審査員務めていたボルティモア著名な政治家であり作家であったジョン・P・ケネディ親しくなり、彼の斡旋リッチモンドの『サザン・リテラリー・メッセンジャー』誌に作品掲載するようになった。さらにその後同誌の編集長退職すると、ケネディ推薦で『メッセンジャー』誌の主筆編集者として迎えられることになった。しかしこの頃ポーはまだ少女であった従妹ヴァージニア求婚し、それを叔母マライア拒絶されていたことから飲酒の量が増えるなどして心情荒れており、『メッセンジャー』誌の職を短期間辞してしまった。しかし度重なるポー説得マライア折れ1833年9月ボルティモアの郡裁判所から結婚許可受けた当時ポー26歳ヴァージニアはまだ結婚不可能な13歳1か月であったが、結婚誓約書には21歳記されていた。 その後ポーは『メッセンジャー』誌の創刊者トマス・ホワイトに再就職希望伝えて受け入れられ10月に妻となったヴァージニア叔母マライアとともにリッチモンド移り住んだ。『メッセンジャー主筆としてポー自作短編発表していっただけでなく、毎号広い分野におよぶ論壇時評書き、また苛烈作品評を行なって評判取った。『メッセンジャー』はポー主筆になったことによって、500程度だった発行部数3500まではね上がり南部主導的な文芸雑誌地位にまでのし上がった仕事軌道に乗ったことから、1836年5月ポークレム叔母ホワイト、トマス・クリーランド知事など9名を招いてヴァージニアとの公開結婚式挙げた。 『メッセンジャー』誌は好評取り続けたが、しかしポー実績見合った昇給をしてもらえず、また編集口出しがされ始めたことで創刊者のホワイト不仲になり始めた就職から1年経った1837年1月ポーは『メッセンジャー』を辞し2月末に家族連れてニューヨーク移った。ここで編集仕事をするつもりだったのだが、しかし依頼しておいた『ニューヨーク評論編集ポスト不採用になり、代わりに以前メッセンジャー』に2度掲載した長編アーサー・ゴードン・ピム物語』の完成に力を注いだ翌年7月出版された『ピム物語』はアメリカ20誌以上の新聞・雑誌言及するなど話題となったものの売り上げ伸びず、すでに収入減からフィラデルフィア移っていた一家の生活はみるみる窮乏していった。 ポーは『アメリカン・ミュージアム』誌に「ライジーア」などいくつかの作品発表したのち、1839年喜劇俳優ウィリアム・バートンが創刊した雑誌『ジェントルマンズ・マガジン』に依頼され週給10ドルでこの雑誌編集者となったポーは『メッセンジャー時代編集経験生かしつつ、「ウィリアム・ウィルスン」「アッシャー家の崩壊」などの短編や詩を同誌に掲載していき、その傍らリー・アンド・ブランチャード社より初の小説作品集グロテスクアラベスク物語』を同年9月刊行した25からなるこの作品集は非常に多数雑誌書評行なったが、評価賛否両論であったその後バートン編集方針などで対立したため、翌年6月ポーは『ジェントルマンズ・マガジン』を辞めるが、バートン雑誌弁護士ジョージ・グレアムに譲渡し新たに『グレアムズ・マガジン』が創刊されるとポーは新雑誌編集者として迎えられた。こうして11月創刊した『グレアムズ・マガジン』では「群集の人」「モルグ街の殺人」「メエルシュトレエムに呑まれて」などの短編のほか多数評論発表し1年半後には『グレアムズ・マガジン』は発行部数37000部を誇る、アメリカ合衆国最大雑誌へと成長した。なおポーは『グレアムズ・マガジン』時代1842年3月には、渡米してきたチャールズ・ディケンズ面会果たしている。 またこの間ポー雑誌編集携わりながら、自らも雑誌創刊することを夢見て様々な画策行なっていた。すでに『ジェントルマンズ・マガジン』時代に『ペン・マガジン』の名づけ自分雑誌構想しており、1840年には『スタイラス』と名を変えたこの雑誌設立趣意書発表したが、この雑誌ポー生存中に創刊されることはついになかった。自分雑誌構想腐心する一方1842年1月には妻ヴァージニア自宅ピアノ弾いていた最中喀血結核最初兆候であり、以後ヴァージニア病状にも気を取られ、また酒の量も増えたこうした事情ポーは『グレアムズ・マガジン』の仕事休みがちになり、4月になると編集長地位を『アメリカの詩人たちと詩』を出版したばかりのルーファス・ウィルモット・グリスウォルド奪われしまっていた。ポー5月まで同誌に勤めた後、職を辞した。 『グレアムズ・マガジン』を去った後も、ポーは『ダラーズ・ニュースペーパー』の懸賞で「黄金虫」により100ドル賞金受けた他、「マリー・ロジェの謎」「落し穴と振り子」などの作品各誌発表し1843年9月には作品集散文物語集』を刊行するが、依然として生活は窮乏していた。新規まき直しを図るため1844年6月ニューヨーク移り、「軽気球夢譚」(『ザ・サン』紙にまるで実話あるかのように掲載され大当たり取った)「早すぎた埋葬」「催眠術掲示」などを発表していき、1845年10月には週刊誌『イヴニング・ミラー』の記者として迎えられた。1845年ポーが同誌に発表した詩「大鴉」は絶賛博し他誌にも次々掲載されポー文名大い高めたが、この詩の出版対しポー支払われ報酬はわずか9ドルであった1845年2月よりポーは『ブロードウェイ・ジャーナル』に職場移し自作寄稿したほか文芸時評担当した。同誌でポーヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー剽窃者として論難しており、ロングフェロー擁護者との間での論争発展したが、この論争ポー分が悪いままに終わっている。6月には作品集物語集』を出版して予想外売り上げ収めた文名が高まるとともに雑誌経営への希望依然として持ち続けていたポーは、12月に『ブロードウェイ・ジャーナル』の経営権譲り受けたが、しかし資金繰り苦しんだ結果わずか1ヶ月で手放さなければならなくなった翌年廃刊)。生活は窮乏し1846年には妻を連れてブロンクス区にある木造家屋転居した。1847年1月ヴァージニア貧苦最中この小屋息を引き取ったこの年よりポーは「散文詩」と銘うった壮大な宇宙論ユリイカ』の完成精力傾けた。しかし翌年この論文をもとに行なった講演明らかな失敗終り7月刊行され書籍売れ行き伸びなかった。この頃ポー夜会出合ったサラ・ヘレン・ホイットマン夫人や、講演出合ったアニー・リッチモンド夫人恋愛関係持った。特にホイットマン夫人に対して再三求婚行いポーが酒を絶つことを条件9月婚約成立したものの、その後文学愛好家バーで酒を飲んだことが夫人耳に入りこのため婚約破談となってしまった。1849年ポー仕事のために戻ったリッチモンド青年時代恋人未亡人となっていたエルマイラ・ロイスターと再会し再三求婚の後に彼女と婚約した

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文筆生活

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神谷美恵子」の記事における「文筆生活」の解説

1949年昭和24年)に夫の宣郎は大阪大学教授招聘され一家大阪へと移った12月には次男の徹も生まれ主婦として多忙な生活を送る一方で以前愛読したマルクス・アウレリウスの『自省録』の翻訳書創元社から出版した1950年昭和25年)に宣郎はペンシルベニア大学招かれたが美恵子子供二人とともに大阪とどまりアテネ・フランセアメリカン・スクール語学教えた1951年昭和26年)に宣郎は帰国し一家芦屋移り住んだ結核感染した次男治療薬闇市手に入れるために、自宅での私塾カナディアン・アカデミーフランス語を、1956年昭和31年)からは神戸女学院大学非常勤講師として文学教えた1954年昭和29年)に初期ガン発見されラジウム治療受けた1957年昭和32年)に、長島愛生園におけるハンセン病患者精神医学調査開始した。この業績をもとに1960年昭和35年)に大阪大学学位取得神戸女学院大学教授任命され、さらに1963年昭和38年)からは母校津田塾大学教授就任した精神医学およびフランス文学などの講義担当しており、芦屋の家から岡山県東京往復する生活を続けている。愛生園での研究1958年昭和33年)に京都おこなわれたゴッホ展を見たことがきっかけとなって、後に『生きがいについて』を構成する文章書き進めていった。1963年昭和38年)にはアメリカで研究生活送っていた宣郎のもとを訪れ、その帰途同地におけるハンセン病施設および英仏精神病施設見学している。スイスではユネスコ政府代表となっていた兄の陽一からミシェル・フーコー紹介された。 1965年昭和40年)からは、長島愛生園精神科医長に就任し自宅から療養所へと通って治療あたった。翌1966年昭和41年)には、第二次世界大戦中自殺したヴァージニア・ウルフの病跡を調べるため渡英し、夫のレナード・ウルフ面会した二人レナードの死まで文通続けている。この年みすず書房から『生きがいについて』が出版された。

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文筆生活

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シャシ・タルール」の記事における「文筆生活」の解説

タルールは英語を用いて数多く小説エッセイ執筆している。最も著名な物は1989年出版された『The Great Indian Novel』で、『マハーバーラタ』に範をとって独立運動高揚するインド情景多面的に描き出している。彼の著作のほとんどはインド舞台として扱っている。 タルールは数多く文学賞授与されており、その中には1991年受賞したイギリス連邦文学賞含まれている。

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