出生と出自
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「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「出生と出自」の解説
1809年12月29日、イギリス・イングランド・リヴァプールのロドネー街(英語版)62番地に生まれる。 父は大富豪の貿易商ジョン・グラッドストン(のちに准男爵に叙される)。母は後妻のアン(旧姓ロバートソン)。グラッドストンは夫妻の四男であり、兄にトマス(英語版)、ロバートソン(英語版)、ジョン(英語版)がいる。また姉一人がおり、後に妹も一人生まれている。 グラッドストン家はもともとグラッドステンス (Gladstanes) という家名のスコットランド豪族だった。1296年の公式文書にハーバート・ド・グラッドステンス (Herbert de Gladstanes) というスコットランド豪族が、スコットランドの征服者イングランド王エドワード1世に臣従を誓ったことが記録されている。やがてグラッドステンス家の一流がビガー(英語版)に移住し、家名をグラッドストンス (Gladstones) に変えた。家は漸次没落していったが、グラッドストンの祖父トマス (Thomas) の代にレイス(英語版)へ移住し、穀物商として成功を収めた。 父ジョンはこのトマスの長男として生まれ、リヴァプールに移住して穀物商を始めた。この際に語呂が悪いグラッドストンスの姓をグラッドストンに改めた。父は1792年に最初の結婚をしたが、先妻とは子供ができないまま死別し、ついで1800年にアン・ロバートソン (Anne Robertson) と再婚し、グラッドストンを含む4男2女を儲けた。 父は東インド(アジア)貿易で大きな成功をおさめ、西インド(アメリカ大陸)貿易にも手を伸ばしつつ、西インドやギアナで大農場の経営を行う大富豪となった。父の資産額は60万ポンドにも及ぶという。 また父は1818年から1827年にかけて庶民院議員も務めた。父はもともと非国教徒の長老派であり、支持政党は自由主義政党ホイッグ党だったが、後に国教会の福音派(比較的長老派と教義が近い)に改宗するとともに、党派も保守政党トーリー党になった。だがトーリー党内では自由主義派に属しており、カトリックが公職に就くことを認める改革や商業における規制を撤廃する改革を目指すジョージ・カニングを支持し、カニングのリヴァプール選挙区(英語版)での選挙活動を支援していた。 そのような開明的な父であっても、その所有農場では大勢の奴隷が酷使されていた(イギリスでは奴隷貿易は1807年に禁止されているが、植民地の奴隷制度はいまだ合法だった)。1823年にはギアナでイギリス農場主の支配に抵抗する黒人奴隷の一揆が発生したが、その一揆の中心地はグラッドストン家所有の農場だった。 [先頭へ戻る]
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出生と出自
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「出生と出自」の解説
1784年10月20日、イギリス首都ロンドンのウェストミンスターで生まれた。 父はアイルランド貴族の政治家第2代パーマストン子爵ヘンリー・テンプル(英語版)。母はメアリー(旧姓ディー)。父と同じ「ヘンリー」の名を与えられた。ヘンリーは第一子であり、後に弟1人と妹3人が生まれている。 テンプル家はもともとイングランド中部レスターシャーに領地を持つイングランド貴族だったが、薔薇戦争で一度没落した。しかしエリザベス朝期に人文主義哲学者サー・ウィリアム・テンプル(英語版)がスペインとの戦争で活躍し、その功績でアイルランドに領地を与えられてアイルランド貴族に列したことで再興した。 そのウィリアム・テンプルの孫サー・ウィリアム・テンプルは近代随筆の先駆者、また外交官としてルイ14世の覇権に挑戦したことで名を馳せた。彼の弟であるジョン(英語版)は、アイルランド議会の議長を務め、その子であるヘンリーの代に領地パーマストンの名前に由来してパーマストン子爵の爵位を得た。 その初代パーマストン子爵の曽孫が、この第3代パーマストン子爵、ヘンリー・ジョン・テンプルである。
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出生と出自
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「アーサー・コナン・ドイル」の記事における「出生と出自」の解説
1859年5月22日、スコットランド労務局測量士補チャールズ・ドイルとその妻メアリー(旧姓フォーリー)の長男として、スコットランド・エディンバラのピカーディ・プレイス(picardy place)11番地に生まれる。 チャールズ、メアリー夫妻の子供は全部で9人(無事育ったのは7人)で、うちアーサーと姉アネットは、大伯父にあたる美術批評家マイケル・コナンから「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」という複合姓になった。 父方のドイル家は14世紀にフランスからアイルランドへ移民したノルマン人の家系だった。敬虔なカトリックの一族だったため迫害を受けることが多かったという。 ドイル家が世間の注目を集めるようになったのは、アーサーの祖父であるジョン・ドイル(英語版)がダブリンからロンドンに出てきて、"H.B." の筆名で著名な風刺画家となってからだった。ジョンの長男ジェームズ(英語版)は画家、次男リチャード(英語版)はイラストレーター、三男ヘンリー(英語版)はアイルランド国立美術館館長としてそれぞれ成功を収めた。しかし五男であるチャールズ(アーサーの父)だけは一介の測量技師補から出世せず、しかもアルコール依存症だったため、1876年にはその仕事も失い、療養所(のちに精神病院)へ入れられた。そのため幼少期・青年期のアーサーは貧しい環境の中で育ったという。 母方のフォーリー家もフランスからアイルランドへ移住したカトリックであり、系図をさかのぼるとフランスから渡来した英国王室プランタジネット朝につながるという。母はそのことを常に誇りにしていたという。
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出生と出自
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張承志は1948年、北京で回族の家庭に生まれた。彼の本籍は山東省の済南市だが、彼の両親は共産党の革命活動に参加するため1940年代に北京に来ていた。彼の両親は北京でイスラーム系兵士の反戦組織を作っていた。 父親は彼が幼いころに死去し、母、母方の祖母と2人の姉という5人家族で育った。彼の母親は教育熱心で、事務員をする傍ら3人の子供を大学へ進学させることを目標としていた。
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出生と出自
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生まれた徳島県板野郡御所村は、北側の香川県との県境をなす讃岐山脈から、南を流れる吉野川へ降る扇状地が形成された場所にあり、水が伏流して得にくいために水田よりも畑が多い土地柄であった。土地はどちらかというとやせており、生産性は決して高くはなかったが、江戸時代からサトウキビ、小麦、藍などが栽培され、養蚕なども行われていた。三木の生まれた当時、御所村から最も近くの町は吉野川を渡った鴨島町(現・吉野川市)であり、徳島市へは鴨島から徳島線などを利用した。つまり三木の故郷は大都市や町ではなく、当時日本各地にあった農村地帯であった。 徳島県板野郡御所村吉田字芝生(後の土成町、現・阿波市土成町吉田)に1907年(明治40年)3月17日、三木久吉、タカノの長男として生まれた。久吉は、御所村の近くにあった柿原村(現・阿波市)に農家を営んでいた猪尾六三郎の次男として生まれ、一時期大阪で就労した後、御所村の地主芝田家のもとで働いていた。そこで御所村宮川内の農家、三木時太郎の娘として生まれ、幼い頃から芝田家に奉公に出ていた三木タカノと知り合い、婚姻した。久吉とタカノは婚姻後、妻タカノの三木姓を名乗り、主である芝田家から家などを与えられて分家した形となった。芝田家は当時御所村一の地主として知られており、芝田家から家と土地を与えられた分家は他に何軒かあって、芝生の集落は芝田家とそれぞれの分家を中心として構成されていた。 そのような御所村で、久吉は農業と肥料商を営んでいた。肥料は硫安、大豆粕、ニシンなどを扱っており、肥料以外にも酒、米、雑貨なども扱っていた。つまり三木の実家は農村のありふれた農商人であり、旧家や豪農などではなかった。武夫は久吉33歳、タカノ38歳の時に生まれた一人っ子であり、両親の愛を一身に受けながら成長した。特にタカノは武夫の健康管理について常に注意を怠らなかった。
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出生と出自
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1818年5月5日午前2時頃、プロイセン王国ニーダーライン大公国県(ドイツ語版)に属するモーゼル川河畔の町トリーアのブリュッカーガッセ(Brückergasse)664番地に生まれる。 父はユダヤ教ラビだった弁護士ハインリヒ・マルクス(ドイツ語版)。母はオランダ出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスブルク(Presburg))。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり、兄にモーリッツ・ダーフィット(Mauritz David)、姉にゾフィア(Sophia)がいたが、兄は夭折したため、マルクスが実質的な長男だった。また後に妹が4人、弟が2人生まれているが、弟2人は夭折・若死にしている。 母方の従兄に銀行家のベンジャミン・フレデリック・フィリップスがいる(欧州最大の電機メーカー、フィリップスの創業者ジェラルド・フィリップス(英語版)の父)。 マルクスが生まれたトリーアは古代から続く歴史ある都市であり、長きにわたってトリーア大司教領の首都だったが、フランス革命戦争・ナポレオン戦争中には他のライン地方ともどもフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオン敗退後、同地はウィーン会議の決議に基づき封建主義的なプロイセン王国の領土となったが、プロイセン政府は統治が根付くまではライン地方に対して慎重に統治に臨み、ナポレオン法典の存続も認めた。そのため自由主義・資本主義・カトリックの気風は残された。 マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、1723年以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父ザムエル・マルクス(ドイツ語版)もその地位にあった。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが、彼はヴォルテールやディドロの影響を受けた自由主義者であり、1812年からはフリーメイソンの会員にもなっている。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し、1816年秋(1817年春とも)にプロイセン国教であるプロテスタントに改宗して「ハインリヒ」の洗礼名を受けた。 母方のプレスブルク家は数世紀前に中欧からオランダへ移民したユダヤ人家系であり、やはり代々ラビを務めていた。母自身もオランダに生まれ育ったので、ドイツ語会話や読み書きに不慣れだったという。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちもユダヤ教会に籍を入れさせた。叔父はフィリップスの創業者の祖父リオン・フィリップス(オランダ語版)でマルクスの財政援助者でもあった。
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