出生と元服
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新田義貞は新田氏本宗家の7代当主・新田朝氏の嫡男として生まれた。義貞の生年については判然としていない。藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ、生年は正安3年(1301年)前後と考えられている。辻善之助は37歳没、峰岸純夫は弟・脇屋義助との関係から39歳没説を採用している。 また、『新田正伝記』、『新田族譜』、『里見系図』などの史料は、義貞が同族の里見氏からの養子であることを示唆している。義貞養子説は有力な見解とされているが、十全な確実性には欠けている。 義貞が生まれた鎌倉末期までの新田氏は、清和源氏たる河内源氏の一流であったものの、頼朝の時代から近親として優遇され、北条氏と婚姻関係を結んできた名門としてその名を全国に知られた足利氏に比べ、名声も官位も領地の規模や幕府内の地位もはるかに劣ったばかりでなく、その差は広がるばかりであった(後述)。ただし、対立していたわけではなく、鎌倉時代を通して婚姻関係もあり、また、失態の処理の融通などから後期には新田家は足利家に対して従属関係にあり、建武の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、近年では「新田氏本宗家」「新田氏一門」という概念自体が『太平記』によって作り出されたフィクションであり、新田家は創設(初代新田義重)以来、足利家を宗家とする庶家の1つに過ぎなかったとする谷口雄太の見解も出されている。 義貞の出生地には三つの説がある。 新田郡宝泉村由良(太田市宝泉地区):『新田義貞正伝』より 新田郡生品村反町館(太田市新田地区): 『新田氏根本資料』「筑後佐田・新田氏系図」より 碓氷郡里見郷(高崎市榛名地区):『新田正伝記』「里見氏系譜」より とする。しかし、いずれも特定できる資料とは言えず定説には至っていない。 義貞の少年時代については、現存する史料に乏しく、検証は難しい。義貞の育った上野国新田荘(にったのしょう、現在の群馬県太田市周辺)は、気象の変化が激越で、夏は夕立による雷鳴の轟きと集中豪雨がすさまじく、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土であった。また扇状地の扇央部分には灌木、草木が繁茂した広漠な荒地が広がっていて、新田一族が弓術などの武芸を鍛錬する練習場となっており、笠懸野という地名で呼ばれていた。義貞はそのような風土の中で、笠懸野で弓馬といった武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていったと考えられている。また、気象変化に富む新田荘での生活が、義貞の激しい気性と義理人情に厚い性格を形成したとされる。 正和3年(1314年)、13歳で元服したことが『筑後佐田系図』に示されているが、この史料は信頼性に乏しいとされる。文保2年(1318年)には、義貞が長楽寺再建のため、私領の一部を売却していることが文書に記述されていることや、その際に花押を使用していることから、少なくともこの年以前には元服していたと考えられる。 新田政義が足利義氏の娘を娶って以降、新田本宗家は代々足利本宗家当主を烏帽子親として擬制的親子関係を結んだと考えられ、新田本宗家の当主(政氏・基氏・朝氏)は足利本宗家の通字である「氏」を偏諱として受けており、“義貞”の名前に「氏」が付かないのは、足利本宗家を継承しながらも数年で没したとされる足利高義 (尊氏の異母兄)が当主の時期に元服して、その偏諱である「義」を与えられたからだと考えられている。また、義貞の烏帽子親と推定される足利高義は正和4年(1315年)頃に足利氏の家督を継いで(「鶴岡両界壇供僧次第」)、文保元年(1317年)に死去したとされている ため、この事も義貞の元服時期を推定する根拠となる。
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