出生と子供時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:41 UTC 版)
「チャールズ・チャップリン」の記事における「出生と子供時代」の解説
毎日毎日が窮乏の連続だったので、私自身としては、別に一家の危機といった感じはほとんどなかった。それに、まだ子供のことではあり、そんな不幸は簡単に忘れてしまっていた。 チャールズ・チャップリン、幼少期の回想 1889年4月16日、チャールズ・スペンサー・チャップリン(以下チャップリン)は父のチャールズ・チャップリン・シニア(以下チャールズ)と母のハンナ・チャップリンとの間に生まれた。チャップリンは自伝で、ロンドン南部のウォルワース(現在のサザーク区)のイースト・ストリート(英語版)で生まれたとしているが、公式の出生記録は存在していない。両親は4年前に結婚したが、ハンナはその時までに非嫡出子のシドニーを出産していた。両親は共にミュージック・ホールの芸人で、チャールズは人気歌手だったが、ハンナは芽の出ない女優だった。1891年までに両親は別居し、翌1892年にハンナは夫の芸人仲間のレオ・ドライデン(英語版)との間にジョージ・ウィーラー・ドライデンを出産したが、ジョージは生後6ヶ月でレオに強引に連れ去られ、それから30年近くもチャップリンの前に姿を見せることはなかった。 幼少期のチャップリンは、現在のランベス区内のケニントン(英語版)でハンナとシドニーと生活していたが、ハンナには時折の洋裁や看護で小銭を稼ぐ以外に収入がなく、チャールズは養育費さえも支払わなかった。貧困とハンナの病気入院により、チャップリンは7歳の時にシドニーとランベス救貧院(英語版)に収容され、すぐにハンウェル(英語版)にある孤児や貧困児のための学校に移された。1898年1月にチャップリンは同校を退校し、ハンナとシドニーと屋根裏部屋を転々とする生活を送ったが、やがてそれも打つ手がなくなり、7月に三人ともランベス救貧院に収容された。救貧院では親子兄弟といえどもばらばらに収容されたが、8月12日に三人で申し合わせて退院手続きをとり、ケニントン・パークで久しぶりに一緒に一日を過ごした。三人はシドニーが手に入れた9ペンスで昼食をとり、新聞紙を丸めたボールでキャッチボールをしたりして、親子水入らずの時間を楽しんだあと、夕方に救貧院に再収容された。チャップリンは収容後すぐにノーウッド(英語版)にある貧困児のための学校に移された。 1898年9月、ハンナは栄養失調と梅毒を原因とする精神病を発症したため、ケイン・ヒル精神病院(英語版)に収容された。それに伴いチャップリンとシドニーはノーウッドの学校を退校し、ケニントンに住んでいた父のチャールズに引き取られた。チャップリンはそれまでに父の姿を2回しか見ていなかった。チャールズは重度のアルコール依存症に陥っており、そこでの生活は児童虐待防止協会が訪問するほど悪いものだった。11月にハンナは病状が落ち着いたため退院し、チャップリンとシドニーは父のもとを離れ、再び三人で生活を始めた。チャールズは1901年に肝硬変のため38歳で亡くなった。
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